第89話 境界を越える車輪
夜と朝の境目は、息が白くなる。
臨時キャンプの外れで、俺は吐いた息が細く伸びて消えていくのを眺めていた。
まだ空は青黒く、山の稜線だけがうっすら白んでいる。
その手前で――バルツの荷馬車だけが、やけにせわしなく動いていた。
「そこ、もう少し詰めろ。箱と箱の間に隙間を作るな。ガタついたら検問で面倒になる」
バルツが手早く縄を締めながら、俺たち三人に向けて顎をしゃくる。
「お前らもぼさっと突っ立ってるな。今日は“雇われ荷役”だ。ちゃんと荷役らしく働け」
「はいはい」
リオナが肩を回し、木箱をひょいと担ぎ上げる。
外套の下は、わざとくたびれた革鎧と、刃こぼれ気味の剣。
いつもより格段安っぽい装いだ。
俺も、詰所の裏の倉庫から選んだ“しょぼい旅装”に身を包んでいた。
肩当ても胸当てもなし。
剣も、倉庫のすみに転がっていた安物に替えてある。
エルナは厚手のローブに紐で縛っただけの簡素な服。
神殿で見かけるような肩飾りも紋章もなく、ただの“どこかの祈り手見習いが落ちぶれた姿”にしか見えない。
「……なんか、すごく貧相な三人組に見えますね」
エルナが木箱を抱えながら、苦笑いをこぼした。
「実際、金持ちには見えねぇ方が助かる」
俺は荷台の隙間に麻袋を押し込みながら答える。
「“わざわざ疑う価値もない連中”って思ってもらえりゃ上出来だ」
「その判断、ちょっとだけ癪に障るけどね」
リオナが肩に担いだ箱をどさりと下ろし、バルツの方を振り返った。
「で、国境通過マニュアルを教えてもらえるんでしょ。どう振る舞えばいいわけ?」
「簡単だ」
バルツは縄をきゅっと結びながら指を一本立てる。
「まず、門番に話しかけるな。質問されたら、答えるだけ。こっちから余計な言葉を話すと、“何か隠してるな”って顔で見られる」
「質問の中身は?」
「二つだ。“どこから来た”“何をしに来た”。お前らの答えはこうだ――“王国側で仕事がなくなって、安い賃金でこの荷馬車に雇われた”。それだけだ」
なるほど。
王国の兵でも使節団でもなく、“仕事にあぶれた安い手元”って名乗るってわけか。
「“どこの誰に頼まれた”とか、余計な事は絶対に言うな」
バルツの声が少し低くなる。
「“王城に呼ばれて来ました”なんて口がすべったら、その瞬間アウトだ。王国の仕事してるって時点で、ガルダ側から見りゃ十分“危険な駒”だからな」
「……それはさすがに言わねぇよ」
俺は手のひらについた埃を払いつつ、胸の内で別のことを考えていた。
ガルダの検問で問題が起きたとき、魔法が使えれば切り抜けられる場面もきっとある。
だが魔法を使うには、まず脱がなきゃならない。
全裸になって、モザイクがかかった姿で走り回ったら――今度こそ、“裸の勇者”だって確信されるに決まってる。
国境の検問どころか、ガルダの中で一瞬で噂が広がるだろう。
潜入任務で、それは致命的だ。
今はまだ、“普通に通れる道”が残ってる。
俺は自分にそう言い聞かせる。
だったら魔法は最後の最後まで封印だ。
脱ぐのは、本当に他に手がねぇって瞬間だけでいい。
リオナとエルナには口に出して同じことを伝えてある。
今回は『できるだけ剣も魔法も見せない』が前提だ。
バルツが荷台から飛び降り、ぱん、と両手を打った。
「よし、積み込み完了だ。あとは顔を作れ」
「顔?」
「“身なりも懐も寒い雇われ荷役”の顔だよ」
バルツは口の端だけで笑った。
「“裏切る余地もなさそうな、しょぼくれた連中”って印象が、今のお前らには一番の盾だ」
俺たちは顔を見合わせ、苦笑いを交わした。
◇
山道に、蹄と車輪の音が響く。
バルツの荷馬車が軋むたびに、積み荷がわずかに揺れた。
冷たい風が帆布の隙間から入り込み、埃と鉄の匂いを運んでくる。
荷台の一角に、俺たちは身を寄せ合うように腰掛けていた。
「なんか、久しぶりね。馬車に揺られてどこかに行くの」
リオナが帆布を少しだけめくり、外の景色をのぞく。
谷のこちら側には、昨日見た王国側の詰所。
その先に、灰色の岩山に食い込むように建てられたガルダの石門が、朝の斜光を受けて浮かび上がっていた。
「……門ってのは、閉じられていると余計な圧があるもんだな」
石門は固く閉ざされ、その上の城壁には、鎧を着た影が並んでいる。
半分は軍の兵、半分は自警団上がり、と昨日聞いた連中だ。
「緊張してる?」
エルナが小声で尋ねてくる。
「まぁ、してねぇって言ったら嘘になるな」
俺は苦笑いで返す。
「でも、ここでびびった顔見せたら、それこそ怪しまれる。 “面倒なことがあっても、どうせ給金は安いんだろうな……”って顔してりゃいい」
「なんかそれはそれでリアルね……」
リオナがため息混じりに笑う。
馬車が少し減速した。
前を見ると、王国側の詰所の手前で、昨日のひげ面の兵士が腕を組んで待っていた。
「来たな、バルツ」
「今日も稼ぎに来たんだよ。相変わらず、ここしか通れねぇんだから」
バルツが御者台から軽く手を挙げる。
兵士は俺たちの方をちらりと見て、口の端をわずかに上げた。
「そっちの三人が、“雇われ荷役”になったのか」
「ああ。王国側で仕事がなくてな、軍に拾われるほどの身なりじゃねぇ。そんな風に見えるだろ?」
「ああ、そうだな。向こうさんは相変わらずだ。門の上の連中、朝から目が血走ってる」
兵士は短く耳打ちしてきた。
「変に刺激すんな。門の前で何かあったら、こっちもただじゃ済まねぇ」
「分かってる」
バルツは軽くうなずき、馬に手綱を入れた。
「じゃあ、ちょっくら“鉄と噂の国”まで行ってくる」
荷馬車が、谷の真ん中の橋を渡り始めた。
橋の下は、細い川がさらさらと流れている。
昨日、矢が飛んで来た光景が頭をよぎり、思わず肩の力が入った。
「……行ってくるか」
誰にともなく呟いて、俺は深く息を吸い込んだ。
◇
ガルダ側の門前で、荷馬車が止まった。
石段を下りてきた検問官が、粗末な帳簿を脇に抱え、退屈そうに近づいてくる。
その横には、昨日も見かけた自警団風の男が、鎧だけ着て腕を組んでいた。
「荷の検分をする。バルツ、お前か」
「他に誰がいる」
バルツが飄々と肩をすくめる。
「境界でわざわざこんな稼ぎの悪い仕事を続ける物好きは、この辺じゃ俺くらいだろ」
「事実だが、誇るようなことじゃねぇな」
検問官は鼻を鳴らし、荷台の帆布をめくる。
木箱、麻袋、木材。
そして、その隙間に座りこんだ俺たち三人。
「……見ねぇ顔だな」
横にいる自警団風男が目を細めた。
「王国の兵じゃねぇだろうな?」
バルツが先に口を開く。
「王国側で仕事がなくなった連中だよ。装備を見てみろ。軍に拾われるなら、もうちっとマシな格好してる」
自警団風男の視線が、俺たちのボロ装備をなめるように流れた。
リオナが、わざとだるそうな声を出す。
「兵だったら、もうちょっとマシな飯と鎧くらいもらってますって。こんなガタついた荷馬車で山越えなんかしてないですよ」
自警団風男が鼻で笑った。
「口は回るな、嬢ちゃん」
「あいにく口しか取り柄がないんで」
リオナは肩をすくめ、あえて少し投げやりに見える笑みを浮かべる。
「仕事なくなって、日銭稼ぎに来ただけです。仕事が終わったら、とっとと別の街に消えますよ。戦場に残るのはごめんですから」
“戦う気も根性もない、よく分からない流れ者”――そう見せるための芝居だ。
芝居慣れしてるあたり、リオナもたいがいだと思う。
「お前は?」
自警団風男の視線がエルナに移る。
エルナは視線を落とし、ほんの少しだけ間を置いてから、小さく答えた。
「……祈り手見習いを、クビになりまして」
その声音は、ほんの少し本当の痛みが混じっている。
「教会に残るには力も信仰も足りないって言われて……。戻る場所もないので、安い賃金でも、仕事があるならと……」
検問官が、ふん、とつまらなさそうに帳簿に線を引いた。
「王国の神官を匿うつもりなら、もっとマシな服を着せるだろうさ」
「ですよね」
エルナが、かすかに苦笑いを浮かべる。
よくも悪くも、“どこにでもいそうな挫折した若者”にしか見えない。
「で、そっちの男は?」
自警団風の視線が最後に俺へと向けられる。
「力仕事。荷物持ち。あと、荷馬車が壊れたときの修理要員だ」
バルツが先回りして言った。
「腕っぷしはある。頭は……まぁ、それなりだな。こういう連中は、危なくなりゃすぐ逃げる。用心棒に仕込むには根性が足りねぇ」
『おい』
心の中で抗議するが、顔には出さない。
ここでムキになって否定したら、それこそ怪しまれる。
自警団風男はしばらく俺を見据えていたが、やがてふっと視線をそらした。
「……まぁいい」
その代わり、ふと口の端を歪める。
「王国には“裸で神を味方につけた勇者”がいるって噂だが……」
嫌な予感が背筋を走った。
「さすがに、そんな伝説みてぇな奴は一人も連れてきちゃいねぇよな?」
「いたら、こんな稼ぎの悪い荷馬車には乗ってねぇだろ」
バルツが即答する。
「勇者様が雇われ荷役なんかしてたら、世も末だ」
「ですよ」
俺も、感情を殺した笑みを浮かべる。
「裸で戦うほど余裕はねぇですしね。服が一着しかないんで、これ失くしたら本気で困ります」
自警団風男が、くくっと喉の奥で笑った。
「そうだろうな。お前みてぇな顔した奴が“裸の勇者”だったら、世の中終わりだ」
『こっちは何度か終わりかけたんだけどな……』
心の中だけで、全力でツッコむ。
門の上から、別の兵が声を張り上げた。
「どうした、時間かけすぎだぞ!」
「こっちは仕事してんだよ!」
自警団風男が怒鳴り返し、検問官に合図を送る。
「バルツの荷は通す。こいつらも、荷物扱いの雇い人だ」
検問官が、帳簿に判を押し、杖で石畳を二度叩いた。
門番が合図を受け、重い鎖が軋む音とともに、石門がゆっくりと開いていく。
岩山に食い込む灰色の口が、ゆっくりとこちらに向かって開いた。
「さぁ、行け」
バルツが手綱を軽く引く。
馬が嘶き、荷馬車がごとりと揺れて、門の影の中へと進み始めた。
俺たちは、荷台の隙間から、その瞬間を見つめていた。
王国とガルダ。
線を一本またいだだけで、“こちら側”と“あちら側”の物語が交差する。
門の中は、ひんやりとした空気に満ちていた。
外より少し暗く、石の匂いと、かすかな油の匂いが混ざっている。
――さて。物語の中に、足を踏み入れちまったな。
裸にもならず、剣も抜かず、神の名前も口にせず。
それでも、ここから先でやることは、いつもと大して変わらない。
誰かが勝手に作った“戦争の物語”を、できるだけ小さくして、別の選択肢を見せるだけだ。
「……行こう」
荷台の中で、小さく呟いた声は、車輪の軋む音に紛れて、門の向こうへと吸い込まれていった。




