第85話 リュンドの噂と、歯車のきしみ
パンの香りと、薄いスープの湯気で目が覚めた。
天井は低く、壁はちょっとひび割れているが、寝床は悪くない。
戦の前線の地面や、ボロ家の屋根裏と比べたら、ふかふかの天国だ。
「起きた?」
部屋の端の寝床から、リオナの声がした。
「起きてる。今、起きたことにする」
「それ、起きてないって言うのよ」
そんなやり取りをしてから階下に降りると、簡素な宿の食堂には、旅人が数人座っていた。
朝の空気は静かで、皿とスプーンの触れ合う音だけが耳に入ってくる。
丸いテーブルには、焼きたての黒パンと、具の少ないスープ。 エルナは手を合わせて小さく祈りを捧げてから、スープをひと口飲んだ。
「……でも、温かいだけでありがたいですね」
「贅沢言える状況じゃねぇしな」
俺も黒パンをかじった。
表面は固いが、中はまだ柔らかい。
歯ごたえはあるが、悪くない。
「さて」
パンを飲み込んでから、俺は二人を見る。
「今日から本番だ。約束通り、手分けして情報集め、でいいか?」
「もちろん」
リオナがすっと背筋を伸ばす。
「わたしは鍛冶屋と工房関係を回るわ。鉄と金属の話を聞けば、ガルダとの関係はだいたい見えてくるはず」
「わたしは教会と救済所ですね」
エルナがうなずく。
「食べ物が足りなくなり始めると、一番先に悲鳴が上がる場所ですし。ガルダから来た人がいたら、話を聞いてみます」
「じゃあ、俺は予定通り、商人の溜まり場と酒場だな」
自分で言っておいて、少しだけため息が漏れる。
「……なんか、俺だけ怠けてるみたいに聞こえるのが不本意なんだけど」
「ちゃんと働きなさい。酒ばっかり飲んでたら許さないから」
「そうですよ。飲む前に、ちゃんと聞き込みしてからにしてくださいね」
「お前ら、俺への信用はどこ行った」
軽口を交わしながらも、胸の奥は少し重い。
ここで集める話次第で、この先の動き方がだいぶ変わる。
「昼過ぎに、広場の噴水前で合流しよう。そこで一度整理だ」
「了解」
「分かりました」
三人で頷き合い、俺たちはそれぞれの持ち場へ向かうことにした。
◇
リュンドの朝の通りは、意外なほど静かだった。
宿場町らしく、荷馬車は多い。
鉄の車輪が石畳を軋ませて進んでいるが、その数に比べて活気が薄い。
荷台のほとんどが空だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
広場近くに、ひときわ大きな建物がある。
看板には『商人ギルド』と書かれていた。
隣には、昼から開いている酒場が併設されている。
「……分かりやすいな」
俺は扉を押し開けた。
中は、帳簿の紙と荷札の匂いが混ざっている。
長机のあちこちで、商人たちが小声でやり取りをしていた。
怒鳴り声はない。だが、笑い声もほとんどない。
受付の机で、年配の男が羽ペンを動かしていた。
俺は軽くギルドカードを見せる。
「王都から来た冒険者だ。ちょっと話を聞きたくてな。ここ数ヶ月のガルダ方面の様子をな」
男はギルドカードを一瞥し、俺の顔を見て、軽く肩をすくめた。
「冒険者がガルダの心配か。物好きなこった」
「飯の心配でもあるんだよ。こっちの工房が止まったら、依頼の中身も変わってくる」
「……まあ、そりゃそうだな」
男はペンを置き、机の上の簡単な地図を指でなぞった。
「半年ほど前から、ガルダ=インダスト王国からの荷が減った。最初は山道の崩落って話だったが、荷の少なさと比例して“物騒な噂”も増えた」
「物騒な噂?」
「“王国と帝国はつるんで、ガルダを囲んでいる”とか、“いずれ二国の軍が連合して、鉱山ごと奪う”とか」
聞いていて、思わず顔が引きつる。
「……あの、それを言いふらしてるのは?」
「さあな」
男は肩をすくめた。
「山を越えてきた一部の商人連中が、やたら同じ文句を口にする。“ガルダの街角でそう聞いた”“広場で誰かが演説してた”ってな」
そこで、一瞬だけ声を落とした。
「“元帝国の参謀だった男が、ガルダに逃げ込んでる”なんて噂もあるが……あんた、そんな話は知ってるか?」
「……聞いたことあるような、聞きたくなかったような、微妙な話だな」
グラナードの顔が、脳裏に浮かぶ。
墨塗り全裸三兄弟たちの残像と一緒に。
「ただの噂かもしれねぇ。けど、今ここで信じるには根拠が薄い。他には?」
「こっち側の問題なら、簡単だ」
男は窓の外を顎で示した。
「工房が素材を仕入れられずに困ってる。武具も魔導具も、質を落とすか、数を減らすかの二択だ。兵の装備更新も止まり気味でな。王都の連中は“今すぐ戦が始まるわけでもないし”と笑ってるが……」
「“今すぐ”じゃなくても、そのうち始まる下地にはなる、ってことか」
「あんた話が早くて助かるよ」
男は苦笑いした。
「こっちの商人連中は、ガルダが折れるのを待ってる。“あっちが腹を空かせりゃ、向こうから頭を下げてくる”ってな。だが、腹を空かせた民衆が最初に殴りつけるのは、だいたい外側じゃなくて内側だ」
「……王様か、近くの誰かってことか」
「そういうことだ」
男はペンをまた手に取りながら、付け足した。
「もっと生々しい話が欲しいなら、隣の酒場だな。ガルダから逃げてきた連中が、日が高いうちから酒に逃げてるぜ」
「“逃げてきた”か」
「ああ。“商売のために来た”って顔じゃない」
十分に濃い内容の話を聞けた。
俺は礼を言い、隣の酒場へ移動した。
◇
昼前だというのに、酒場の中は妙な熱気に包まれていた。
酔い潰れている客はいない。
だが、皆、杯を握りしめたまま話し込んでいる。
笑い声は、今までよりもさらに少ない。
ガルダ風の厚手の上着を着た男が、カウンター席で酒を煽っていた。
肩から下がる小さな工具袋が、職人か工員であることを伝えている。
「隣、いいか?」
声をかけると、男はちらりとこちらを見た。
俺の冒険者装備を一通り眺めてから、無言でうなずいた。
「ガルダから来たのか?」
「……見りゃ分かるか」
男は苦笑に近い顔をした。
「いま山を越えてこの宿場町に来る物好きなんて、ほとんどガルダ人か、噂を売りに来る商人か、物好きな冒険者ぐらいだ」
「物好きな冒険者だ」
正直に名乗ってから、素直に頭を下げる。
「王国から来た。ガルダで何が起きてるのか、少しでも知りたい」
「王国の人間が、か」
男は杯をテーブルに置いた。
しばらく無言で杯を見つめていたが、やがてぽつりと話し始めた。
「最初は、ただの噂だった。“王国と帝国が手を組んで、ガルダを挟み撃ちにする”ってな。誰も真面目に聞いちゃいなかったさ。忙しかったしな。鉱山も工房も」
「それが、いつの間にか本気になった?」
「ああ。街角で、妙に話の上手い男が演説を始めた」
男の目が少しだけ険しくなる。
「“外に敵がいるほうが、内側はまとまる”ってな。王様も、工房ギルドの長も、みんな最初は“馬鹿な”って笑ってた。だが、腹の底じゃ少しずつ、不安が膨れていったんだろうな」
「そいつの名前は?」
「知らん。名乗っていたかもしれんが、覚える気にならなかった」
少しだけ間を置いて、男は続ける。
「ただ、妙に帝国の事情に詳しかった。“帝国の軍議ではこう決まった”“皇帝はこう動く”なんて話を、いかにも“見てきた”みたいな口ぶりでな」
グラナードの顔が、ますます濃く浮かぶ。
「……で、貿易を止めた」
「ああ。“外敵に備えるために内を固める”って名目でな。こっちからも王国や帝国からも、“話をしよう”って使者は出たさ。でも、扉は固く閉ざされたままだ」
「そっちはどうだ。ガルダの中身は」
「悪くなるのは、早いぞ」
男は自嘲気味に笑った。
「鉱山と工房はまだ回ってる。だが、飯が足りねぇ。パンの配給に列ができて、子どもが泣いて、年寄りが倒れる。俺みたいに、家族にだけ何とか食わせようと外に出る奴もいる」
「家族は?」
「……残ってる」
短い言葉に、いろんなものが詰まっていた。
「簡単に戦にはならねぇよ。ガルダは遠征が得意な国じゃねぇ。ただ、“いつか来るかもしれない戦”を口実にして、いろんなやつが好き勝手やってる」
男は最後の一口を飲み干した。
「そっちの国の王様がどう考えてるかは知らんが…… 俺たちの国の“技術王”は、多分まだ、戦なんて望んじゃいないと思うぞ。望んでるのは……そういう噂を流して儲けてる連中だ」
グラナードの顔が、さらにくっきりと確信に近づく。
「ありがとな。助かった」
俺はそう言って席を立った。
男は疲れた目で、もう一度だけ杯を見つめていた。
◇
石畳が、薄く赤く染まり始めたころ。
リュンドの中央広場には、旅人と商人が行き交っていた。
噴水の水音と、人々の声と、荷馬車の軋む音。
さっきの商人ギルドよりは少しだけ賑やかだ。
約束の場所で待っていると、先にエルナがやって来た。
「お待たせしました」
法衣のすそを少しだけ持ち上げて、駆け足で近づいてくる。
「教会と救済所は?」
「……忙しそうでした」
エルナの顔には、少しだけ疲れがにじんでいた。
「リュンドには、ガルダから来た人たちが何人か保護されていて。 “少し休んだらまた山に戻る”って言い張っている人もいましたけど……」
「山の向こうに、家族がいるってやつか」
「はい。みんな痩せていて、子どもたちの頬もこけていました。でも、“外の国に食べさせてもらうわけにはいかない”って、頑なに……」
その言い方に、どこか誇りと、意地と、恐怖が混ざっているのが分かった。
「教会の神父様は、“こういうときほど、敵を作る言葉に気をつけないといけない”って仰っていました。“王国と帝国が手を組んでいる”という噂は、ここまで届いています」
「こっちでも、か」
「……はい」
そこへ、リオナがやって来た。
「ごめん、お待たせ」
腰の剣を軽く押さえながら、息を整える。
「鍛冶屋と工房の方は?」
「こっちも似たようなものよ」
リオナは肩をすくめた。
「武器工房は、ルミナ鋼も黒鉄も足りてない。“代わりの合金で作れなくもないけど、質が落ちるから兵隊が嫌がる”って、みんな同じこと言ってたわ」
「王国の鉱山じゃ、補えねぇか」
「補える部分もあるけど、完全にとはいかないみたい。で、困ってるくせに、“ガルダが折れるのを待とう”って空気もある」
リオナは、さっき俺が聞いた話と同じことを口にした。
「“あっちが先に音を上げる。食べ物が尽きれば、向こうから門を開けるしかない”ってね」
「……自分たちの首が締まってる感覚は、あんまりないんだろうな」
「ないでしょうね」
エルナが静かに言った。
「ガルダの人たちも、“飢え死にするくらいなら、戦って死んだ方がましだ”って言い始めているそうです。そういう言葉を、あの扇動屋の人は、とても上手に使っていたって」
「扇動屋、ねぇ」
俺は広場の真ん中を見渡した。
今はただ、旅芸人が木の玉を投げているだけだ。
けれど、いずれここでも、“外の敵”を語る誰かが現れるのかもしれない。
「こっちの材料は、だいたい揃ったな」
自分の聞いた話も含めて、頭の中で一度、全部を並べてみる。
ガルダ=インダスト王国は、国境を閉ざしている。
内側では食糧不足が始まり、外側では金属不足と価格の高騰がじわじわと進んでいる。
その隙間で、噂と不安が肥大化している。
「問題は……どうやってガルダの中に入るか、だ」
「正面から門を叩いても、開けてくれそうにないわね」
リオナが腕を組む。
「国王の正式な使者として名乗りを上げれば、なおさら警戒される」
「迂闊に“王国の勇者です”なんて名乗ったら、扉を開けるどころか槍が出てくるでしょうね」
エルナの想像に、あまり笑えない現実味があった。
「となると……」
俺は広場の片隅にある、古い掲示板を見た。
山道の注意書きや、旅人向けの案内が貼られている。
「山を越える陰の道か、ガルダから逃げてきた商人のルートか、どっちかだな。どのみち、“ガルダの中身を見たことのある誰か”を捕まえる必要がある」
「さっきの商人ギルドと教会には、その“誰か”はいそう?」
「今のところは、“聞いてきた話をまた聞きした人”ばっかりね」
リオナが首を振る。
「でも、宿場町なんだから、そのうち現れる可能性はある。“戻るか逃げるか迷ってる人”みたいなのが、一番話をしてくれるでしょうね」
「じゃあ、今夜と明日は、少し腰を据えて張り込むか」
俺がそう言うと、リオナとエルナは同時にうなずいた。
「ところで」
リオナが、ふと思い出したように口を開いた。
「工房のひとつでね、“裸の勇者が戦を呼ぶから、ガルダが怯えてるんだ”って言ってる親父がいたわ」
「……なんでそうなる」
「“全裸で帝国軍を地割れに閉じ込めた英雄”が、ガルダから見たら“世界を割る怪物”に見えてもおかしくない、ってことじゃない?」
エルナが申し訳なさそうに微笑んだ。
「“裸の神が世界を壊す前に、ガルダは自分たちの鉱山を守らないといけない”って噂も、あるそうです」
「誰だそんな話考えたやつは。あ、いたな一人、そういう頭してる男が」
グラナードの顔が、また脳裏に浮かぶ。
「……やっぱり、あいつにきっちり落とし前をつけてもらう必要がありそうだな」
そう口にすると、少しだけ胸の中がすっきりした。
「で、その前に」
リオナが腰に手を当てる。
「まずは、ガルダの中に“潜り込む方法”を探さないとね。正面突破は禁止。いいわね?」
「分かってる。どうせ脱ぐにしても、国境越えてからだ」
「できれば、脱がない方向でお願いしたいんだけど」
エルナが本気で困った顔をするので、肩をすくめるしかなかった。
「努力目標にしとくよ」
夕暮れの気配が、少しずつ街を包み始めている。
噴水の水音の向こうで、鍛冶屋の槌の音が一つ消え、また一つ消えた。
世界の歯車は、確かにどこかできしんでいる。
でも、まだ完全には折れていない。
「――じゃあ、今夜はもう少し、この町を歩こう。噂と本音の境目を、もうちょっと探ってみるさ」
そう言って立ち上がると、リオナとエルナも立ち上がった。
新たに戦が始まる前に、できることをやる。
できれば剣を抜かずに済ませたいし、できれば服も脱がずに済ませたい。
その二つの願いが、両方とも叶う未来を、今はまだ信じてみたかった。




