第75話 理の帝、神を封ぜんとす
その報せが届いた直後、帝都グランザの玉座の間は静まり返っていた。
誰も声を出さない。
冷えた空気の中、皇帝アスモルが立ち上がり、剣を抜いた。
「ならば、神に抗う策を練るまでだ。軍議を開け!」
響いた声は、帝都の運命を決める号令のようだった。
重臣たちは慌ただしく円卓に集まり、疲れ切った伝令が膝をついて報告書を差し出す。
「第一軍、孤立。第二軍も連絡が途絶えつつあります。……地が裂けました。幅数十メートル、深さは不明です」
誰もその報告の意味を掴めなかった。
人の力で地を割るなど、ありえない。
しかし現実として、帝国の第一軍は“閉じ込められた”。
アスモルは剣をゆっくり納め、玉座の背もたれに手をかけた。
「……語るな。この事実は禁ずる。今すぐ民の口を封じよ」
宰相ローデンが小さく息を呑む。
「陛下、禁声令を……?」
「そうだ。王国に“神”がいるなどと広まれば、帝国は崩壊する。――外には『王国が未知の兵器を使用した』とだけ伝えろ」
短くも鋭い命令だった。
その瞬間、帝国の情報は閉ざされた。
記録官、印刷工房、教会、すべてに検閲命令が走る。
噂を流した者は即刻拘束。
帝国は、自らの敗北を隠すために沈黙を選んだ。
だが、沈黙の裏では新たな動きが生まれていた。
◇
夜明け前の軍議室。
長机の上には王国と帝国の地図が広げられている。
その中心に、アスモルは一枚の命令書を置いた。
【鎮界炉製造命令】
将たちが顔を見合わせる。
「鎮界炉……? 聞いたことがございません、陛下」
アスモルは静かに言う。
「“理”で“神”を封ずる装置だ。神を討つのではない。神の立つ場所を消し去る。世界に穴があるなら、それを塞げばいい」
室内の誰もが言葉を失った。
魔導師でも、工匠でも、神の力を理解できた者などいない。
だが皇帝は続ける。
「技師団と魔導省の研究者を召集せよ。作業は極秘。外に漏らせば反逆とみなす。――我らは“理”の側の国だ。神の奇跡などに屈するものか」
その声には、帝国の覇気よりも焦燥があった。
人智では理解できぬ現象に対し、彼は理で抗う道を選んだのだ。
◇
帝都地下の工廠には、金属を叩く音が響いていた。
技師たちは沈黙の誓約書に血判を押し、炉心を囲む。
若き主任技師が震える声で問う。
「陛下、我らは……いったい何を造っているのです?」
アスモルは答えなかった。
ただ、目の前の巨大な魔導炉の設計図を見つめながら呟く。
「“世界の穴”を塞ぐ装置だ。理の枠に神を閉じ込める」
それが、帝国の新たな狂気の始まりだった。
◇
一方そのころ、王国側の砦では。
俺は風の匂いを嗅いでいた。
焦げた鉄と、冷えた石の匂い。
戦場にしては静かすぎる朝だった。
リオナが弓兵たちの列の向こうで呟く。
「……向こうで、なんかしてるな」
エルナは胸に手を当て、遠くの空を見上げた。
「風が変わりました。“理”の風です。神の力に抗う、人の風」
俺は眉をひそめる。
理の風――そんなものを感じたのは初めてだった。
空気の流れが、まるで世界そのものが軋むように重い。
「理の風、ね。……なら俺は、“理じゃない方”で行くさ」
そう呟くと、リオナがいつものように苦笑した。
「頼むから、その“理じゃない方”でいきなり脱がないでよね」
エルナは静かに笑って頷く。
「でも……あなたの風は、きっと世界を癒します」
砦の上を一陣の風が抜けた。
その風はどこか遠く、帝都の方角から吹いてきた気がした。
◇
同じ夜、帝都グランザの玉座の間で。
皇帝アスモルは窓の外の星を見上げ、低く呟いた。
「神を恐れるな。だが敬うな。この世界は――我らが造る」
その声が消えた後、冷たい風が柱の間を抜けた。
その風は遠く王国砦の空へとつながり、俺の頬を撫でていった。
「……神、また変な風を起こしてんじゃねぇよ」
誰もいない空にそう吐き捨てると、遠くで神の笑い声が響いた。
『理の王も、神の観測者も……どちらも風任せよのぅ』
風が夜を撫でる。
帝と神の間で、世界の均衡がゆっくりと揺れ始めていた。




