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第54話 旅の前の静けさ

 朝の光が、瓦の上をゆっくりと滑っていった。

 昨日までの喧騒が嘘のように、村は穏やかな朝を迎えていた。

 鳥の鳴き声、木の軋む音、そしてどこからか漂う焼きパンの香り。

 人の営みが戻ってきた――そんな実感が胸の奥をあたためる。


 俺たちは石段に腰を下ろして、村の広場を眺めていた。

 屋根の修理をする男たちの笑い声が響き、子供たちが走り回る。

 エルナは風に髪を揺らしながら、静かに微笑んでいた。

「昨日までのことが、夢みたいです」


 その言葉にリオナが頷きながら伸びをした。

「ようやく落ち着いたわね。もう誰も慌ててない」


「黒風の残響も、すっかり癒しの風になりましたね」


「……暴れた風も、最後は誰かの背中を押すんだな」

 俺が空を見上げて呟くと、リオナは横目で笑った。

「それ、ちょっとカッコつけて言ってない?」


「気のせいだ」


 空は抜けるように青く、雲は柔らかく流れている。

 風が頬を撫でていくたび、焦げた木々や埃の匂いの代わりに、草の匂いが戻ってきていた。



 昼近くになると、広場はちょっとしたお祭りのような騒ぎになった。

 村人たちが、次々と料理を持ってくるのだ。

 パン、香草スープ、焼き果実。

 どれも素朴だけど、温かい手作りの味がした。


「あなた方はこの村の“風の恩人”です」

 老村長が杖をついて近づき、深々と頭を下げた。


「風が勝手に吹いただけですよ」

 俺が手を振ると、周囲が笑いに包まれる。


「笑い声が戻って、本当に嬉しいです」

 エルナが両手を胸に重ねて言った。


「けどなあ……パン食いすぎると顎が鍛えられるな」


「そこ鍛える意味ある?」

 リオナが呆れたように眉を上げる。


「旅人の基本はパンだぞ」


「いや、パン職人じゃないんだから」

 エルナがくすりと笑うと、村の子どもたちもつられて笑った。


 賑やかな昼下がり。

 空の青さと人の声が混ざり合い、心がじんわりと満たされていく。



 夕暮れ時。村の外れにある小高い丘で、俺たちは焚き火を囲んでいた。

 日中の喧噪が嘘のように、静かな風が木々を揺らしている。

 鍋の中では、村人からもらった芋と肉がぐつぐつと音を立てていた。

 湯気の向こうに、オレンジ色の空と沈みかけた太陽が見える。


「やっと落ち着いたな」


「そうね……あんた、ここ数日ずっと脱いでたもんね」


「やめろ、言われると恥ずかしい」


「もう“旅の恥部門”で賞取れるレベルだよ」

 リオナの悪ノリに、俺は頭を抱えた。


 エルナが笑いながらスープをよそってくれる。

「でも、黒風の残響が癒しに変わったのは本当に良かったです」


「そうだな……星海の大地まではもうすぐだ」


「温泉と魚料理、どっちが先かだな」


「食い気で旅してる人の発言じゃないわね」


 焚き火の明かりがリオナの髪を金色に染める。

 風がふっと吹き、火の粉が星のように空へ昇っていった。


 俺はその光景を見つめながら、ぼんやりと思った。

 この世界は、壊れてもまた立ち上がる。

 人が笑う限り、風はきっと吹き続ける。



 夜更けの丘の上には、三人と焚き火だけが残っていた。

 虫の声、遠くの波音、そして穏やかな風。


 リオナが小さく呟く。

「静かね……なんか、こういう夜って落ち着く」


「もう次の目的地に行ってもいい頃だな」

 俺が言うと、エルナがそっと星空を見上げた。

「星海の大地……名前だけで、なんだか不思議な気分になります」


「温泉があって、魚料理があって……最高だな」


「ほらね、結局そこ」


 三人の笑い声が夜に響く。

 風は優しく吹き、まるで俺たちの背中を押してくれているようだった。



 翌朝、村の入口には見送りの人々がずらりと並んでいた。

 子どもたちが「また来てね!」と声を上げ、女たちは焼いたパンを包んで差し出す。


「パン……いや、ありがたくもらっとく!」

 リオナが笑いながら帽子を振り、エルナは胸に手を当てて祈る。


 俺は深呼吸をして、静かに言った。

「……もう誰も泣かせない。黒風のときみたいには」


 リオナが軽く肩を叩く。

「うん。じゃあ今日も全裸覚悟で行こうか」


「なんでそこで覚悟を使うんだよ!」


 笑い声とともに、三人は歩き出した。

 朝の風が彼らの背中を押すように吹いていた。

 それは黒風ではない。

 再生の風――新しい旅の始まりを告げる風だった。

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