第54話 旅の前の静けさ
朝の光が、瓦の上をゆっくりと滑っていった。
昨日までの喧騒が嘘のように、村は穏やかな朝を迎えていた。
鳥の鳴き声、木の軋む音、そしてどこからか漂う焼きパンの香り。
人の営みが戻ってきた――そんな実感が胸の奥をあたためる。
俺たちは石段に腰を下ろして、村の広場を眺めていた。
屋根の修理をする男たちの笑い声が響き、子供たちが走り回る。
エルナは風に髪を揺らしながら、静かに微笑んでいた。
「昨日までのことが、夢みたいです」
その言葉にリオナが頷きながら伸びをした。
「ようやく落ち着いたわね。もう誰も慌ててない」
「黒風の残響も、すっかり癒しの風になりましたね」
「……暴れた風も、最後は誰かの背中を押すんだな」
俺が空を見上げて呟くと、リオナは横目で笑った。
「それ、ちょっとカッコつけて言ってない?」
「気のせいだ」
空は抜けるように青く、雲は柔らかく流れている。
風が頬を撫でていくたび、焦げた木々や埃の匂いの代わりに、草の匂いが戻ってきていた。
◇
昼近くになると、広場はちょっとしたお祭りのような騒ぎになった。
村人たちが、次々と料理を持ってくるのだ。
パン、香草スープ、焼き果実。
どれも素朴だけど、温かい手作りの味がした。
「あなた方はこの村の“風の恩人”です」
老村長が杖をついて近づき、深々と頭を下げた。
「風が勝手に吹いただけですよ」
俺が手を振ると、周囲が笑いに包まれる。
「笑い声が戻って、本当に嬉しいです」
エルナが両手を胸に重ねて言った。
「けどなあ……パン食いすぎると顎が鍛えられるな」
「そこ鍛える意味ある?」
リオナが呆れたように眉を上げる。
「旅人の基本はパンだぞ」
「いや、パン職人じゃないんだから」
エルナがくすりと笑うと、村の子どもたちもつられて笑った。
賑やかな昼下がり。
空の青さと人の声が混ざり合い、心がじんわりと満たされていく。
◇
夕暮れ時。村の外れにある小高い丘で、俺たちは焚き火を囲んでいた。
日中の喧噪が嘘のように、静かな風が木々を揺らしている。
鍋の中では、村人からもらった芋と肉がぐつぐつと音を立てていた。
湯気の向こうに、オレンジ色の空と沈みかけた太陽が見える。
「やっと落ち着いたな」
「そうね……あんた、ここ数日ずっと脱いでたもんね」
「やめろ、言われると恥ずかしい」
「もう“旅の恥部門”で賞取れるレベルだよ」
リオナの悪ノリに、俺は頭を抱えた。
エルナが笑いながらスープをよそってくれる。
「でも、黒風の残響が癒しに変わったのは本当に良かったです」
「そうだな……星海の大地まではもうすぐだ」
「温泉と魚料理、どっちが先かだな」
「食い気で旅してる人の発言じゃないわね」
焚き火の明かりがリオナの髪を金色に染める。
風がふっと吹き、火の粉が星のように空へ昇っていった。
俺はその光景を見つめながら、ぼんやりと思った。
この世界は、壊れてもまた立ち上がる。
人が笑う限り、風はきっと吹き続ける。
◇
夜更けの丘の上には、三人と焚き火だけが残っていた。
虫の声、遠くの波音、そして穏やかな風。
リオナが小さく呟く。
「静かね……なんか、こういう夜って落ち着く」
「もう次の目的地に行ってもいい頃だな」
俺が言うと、エルナがそっと星空を見上げた。
「星海の大地……名前だけで、なんだか不思議な気分になります」
「温泉があって、魚料理があって……最高だな」
「ほらね、結局そこ」
三人の笑い声が夜に響く。
風は優しく吹き、まるで俺たちの背中を押してくれているようだった。
◇
翌朝、村の入口には見送りの人々がずらりと並んでいた。
子どもたちが「また来てね!」と声を上げ、女たちは焼いたパンを包んで差し出す。
「パン……いや、ありがたくもらっとく!」
リオナが笑いながら帽子を振り、エルナは胸に手を当てて祈る。
俺は深呼吸をして、静かに言った。
「……もう誰も泣かせない。黒風のときみたいには」
リオナが軽く肩を叩く。
「うん。じゃあ今日も全裸覚悟で行こうか」
「なんでそこで覚悟を使うんだよ!」
笑い声とともに、三人は歩き出した。
朝の風が彼らの背中を押すように吹いていた。
それは黒風ではない。
再生の風――新しい旅の始まりを告げる風だった。




