第52話 星海への道と風の導き
朝の風が、街の屋根を優しく撫でていた。
アルフェリア――“風の都”と呼ばれた街は、ようやく息を吹き返したらしい。
修復された屋根の間から煙が上がり、通りには子供の笑い声が戻っている。
俺は石畳に腰を下ろし、空を見上げて息を吐いた。
「……やっと静かになったな」
「静かっていうか、平和ね」
リオナが腰に手を当てる。
「もう黒い靄も出てこないし、温泉でも探しに行きたい気分よ」
「温泉……!」
エルナの目がきらきら光る。
「星海の大地には温泉と魚料理の聖地があるって、旅の商人が言ってました!」
その無邪気な笑顔に反論できる人間がこの世にどれほどいるのか。
リオナは俺の腕を軽く叩き、にやりと笑った。
「決まりね。次の目的地は“星海の大地”。お風呂と魚と、あと湯加減チェック担当はあんた」
「……何その専門職」
そんな軽口を交わしながら、俺たちは風の都を後にした。
◇
街を離れると、風はやけに一定の方向に流れていた。
まるで俺たちを導くように。
「なぁ、風って普通こんなに揃って吹くもんか?」
「ええ、ちょっと不自然ですね……」
エルナが袖を押さえる。
「でも、悪い気配じゃないです。むしろ、優しい……」
「優しい風なんて言葉、初めて聞いたけど」
リオナが苦笑する。
けれど確かに、この風には妙な心地よさがあった。
頬を撫でるたび、耳の奥で微かな声が響く。
――来タレ……星ノ海ヘ……
「おい、今なんか聞こえなかったか?」
「聞こえました!」
エルナが目を丸くする。
「“星の海へ”って……」
「はあ? 俺、耳鳴りかと思ったぞ」
リオナが眉をしかめる。
俺たちは顔を見合わせ、沈黙した。
けれど、どういうわけか――全員が同じ方向を見ていた。
西の地平線。その先に、風が吸い込まれていくように流れている。
◇
昼下がり、峠道の途中で荷車を押す老人と出会った。
背中は曲がっていたが、目の奥に不思議な光を宿している。
「星海の大地へ向かう旅人かね?」
俺たちがうなずくと、老人はゆっくりと笑った。
「星海は夜に光る。大地が星を映し、空と地が一つになる……神々が歩いた道じゃ」
「神々が?」とエルナ。
「ああ。風が彼らの足跡をいまも運んでおる。あの地に立つ者は、風の記憶を見るのじゃ」
リオナが腕を組み、半信半疑で聞いている。
「へぇ、でも“温泉と魚”の話しか聞いてなかったけどね」
「はは、それも正しい。星海は聖地であり、観光地でもある」
老人の笑顔は、まるで風そのもののように穏やかだった。
◇
日が暮れ、俺たちは丘の上で野営した。
焚き火のそばで魚を焼きながら、リオナがため息をつく。
「毎度思うけど、なんであんた裸で魚焼いてんのよ」
「服着てると火の加減が分かんねぇんだよ」
「そんな理屈ある!?」
「はい、私は信じてます!」
目をつぶりつつ、まるで信仰のように頷くエルナ。
「エルナ、お前の信頼方向ズレてるぞ……」
俺は串を返しながら火の揺れを見つめた。
すると――風が吹いた。
焚き火の炎がふわりと揺れ、光が夜空へ吸い込まれていく。
その先に――星のような光が、いくつも瞬いた。
まるで空の星が、地上に降りてきたように。
風が光を導き、地平線に細い帯を描いていく。
「……風が、道を作ってる」
思わず呟いた俺の声に、リオナが小さく息をのむ。
「ほんとだ……。これ、風が光ってるの?」
「風に混じってるんです。……きっと、星の粒の名残ですよ」
エルナの声が震えていた。
俺たちはしばらく、誰も言葉を発さなかった。
ただ、風と星と焚き火の音が交じり合う夜を、静かに見つめていた。
夜空は穏やかに流れ、星たちはその道を渡っていく。
風がどこへ向かっているのか、誰にもわからない。
けれど――その先に、俺たちの“旅の答え”があるような気がした。
「……黒風の時代が終わって、今は風が生き返ってるんだな」
「なら、風呂の時代の始まりね」
リオナが笑う。
「魚も忘れずにな」
俺が返すと、エルナがくすっと笑った。
風が笑うように吹き抜け、星明かりが三人を包み込んだ。
その夜、風は確かに“生きていた”。




