第22話 春の風と、財布の軽さ
ボロ家の屋根裏に春がやってきた。
窓の外では小鳥が鳴き、通りを行く商人たちの声が響く。
なのに俺の心は軽くない。むしろ財布と一緒にずっしりと沈んでいる。
「……残金、銀貨二枚か」
手のひらの上で転がる銀貨が、まるで俺をあざ笑っているようだ。
依頼達成の報酬も、屋根裏部屋の家賃と食費で消えた。
いまや朝食はパンの耳と薄いスープだけ。
贅沢を言わなければ、生きてはいける。
だが、生きてるだけだ。
『働け、働け。働かざる者、食うべからずじゃぞ』
頭の中に、ジジイの声が響く。
神だ。俺を異世界に連れてきた張本人であり、人生の混乱の元凶。
「お前が原因だろうが……!」
『それでも現状維持できておるのは、ワシのおかげじゃぞ?』
「……あー、はいはい、ありがとさん」
俺は枕に顔を埋めてため息をついた。
異世界の春は、財布に厳しい季節らしい。
ボロ家の屋根裏を出ると、通りには花屋の店先が並び、色とりどりの花が風に揺れていた。
近くの白風亭の看板からは、パンとスープの匂いが流れてくる。
その香りだけで腹が鳴った。
「これはもう、働かないと死ぬな……」
呟きながら、ギルドへ向かう。
春の風が気持ちいい。
だが、財布の軽さが心地よさを上書きしてくる。
◇
ギルドの扉を開けると、ちょうどリオナが受付前にいた。
腰の剣と金髪が陽にきらめいている。
「やぁ、貧乏魔法使いさん。元気そうね?」
「その呼び方やめろ。ていうか、魔法使いじゃなくて今は無職だ」
「じゃあ“裸になると働ける無職”?」
「その呼び方もっとやめろ!!」
ギルド内にクスクス笑いが広がった。
俺は耳まで熱くなり、掲示板の前に逃げる。
依頼票がずらりと並ぶ掲示板。
「森の薬草採取」「街道の掃除」「荷馬車護衛」「風車の修理手伝い」……。
どれも地味で平和そうだ。戦闘系でなければ服を脱ぐ必要もない。
「この“風車修理手伝い”ってやつ、良さそうだな。日当制か」
「いいじゃない。筋トレにもなるし。どうせ暇でしょ?」
「リオナ、それ慰めてる?」
「褒めてるのよ?」
どうやら暇らしい。リオナも同行することになった。
◇
郊外の丘の上に、古い風車があった。
木造で巨大な羽が四枚。
春風を受けてゆっくり回っている。
依頼主の老人が出迎えてくれた。
「いやぁ、来てくれて助かる。最近どうも風の流れが悪くてな」
「風の流れ?」
「妙な逆風が吹くんじゃ。おかげで羽が止まってしまう」
老人の言葉に、リオナが眉をひそめた。
“逆風”――嫌な単語だ。
以前、風の噂で聞いた記憶がある。
俺は軽く息をつき、気を引き締める。
魔法は使えない。
だからこそ、こういう作業では慎重にいくしかない。
◇
俺とリオナは、風車の羽を押さえたり、軸を油で滑らかにしたりと、地味な作業を続けた。
リオナが手際よく工具を扱い、俺が部品を渡す。
――人間、金がかかると真面目になるものだ。
「ねぇシゲル、あんた思ったより働き者ね」
「金のためならなんでもする。服着たまま働ける仕事は貴重だからな」
「……ほんと、あなたの価値観いろんな意味でズレてるわね」
作業も終盤、風が急に強まった。
木枠がギシギシと悲鳴をあげる。
「ちょっ、抑えて!」
「わかってる!」
俺は羽根を押さえ、リオナはロープで固定する。
だが、突風が吹き抜けた瞬間、羽根がぐるんと回り、バランスが崩れた。
俺の足元がズルッと滑る。
「わっ!?」
リオナが腕を掴んだ。
強い。細腕とは思えない握力で、俺を引き戻す。
「何してんのよ! 落ちたらただじゃ済まないわよ!」
「す、すまん……! 風が――」
その瞬間、風車の羽が“逆方向”に動いた。
老人が叫ぶ。
「おおい! また逆風じゃ!」
確かに、風の流れが変だ。
山から吹いていた風が、いまは街の方から吹きつけている。
……魔力風、か?
胸の奥に、冷たい予感が走った。
だが、次の瞬間、リオナが羽根の軸にロープを巻きつけ、
全身でブレーキをかけた。
「いけっ、止まれぇぇぇっ!」
軸が軋む音が響き、羽がぴたりと止まった。
風も、まるで息をひそめるように静まった。
◇
作業が終わり、老人が何度も頭を下げた。
「ありがとう、本当に助かったよ」
報酬として、銀貨十枚が手渡された。
「やったな、ひさしぶりの収入だ」
「ひさしぶりて……どんな生活してんのよ」
俺は空を見上げた。
春の風が心地よく吹き抜ける。
――だが、その風の奥に、微かに謎の気配を感じた気がした。
……気のせい、だよな。
◇
ギルドに戻る途中、リオナが言った。
「それにしても、あんた働く姿、普通に真面目だったわね」
「そりゃそうだ。服着てるうちは“普通の人”だ」
「逆に脱いだら何になるの?」
「……聞くな」
リオナが肩をすくめ、俺は苦笑いを浮かべる。
日が沈み、街の屋根がオレンジ色に染まった。
『おお、珍しく真面目に働いたのう。神も鼻が高いわ』
「黙れ。神の鼻なんて、どうせ鼻毛だらけだろ」
『うむ、否定はせん』
俺はため息をつきながら笑った。
――今日も異世界は、ちょっとだけ平和だ。




