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悪郎の幸福論  作者: ま行


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戦い

 教室の騒ぎを収拾するために杉山が奔走する、生徒たち一人一人に話を聞いて回る慌ただしい様子を、悪郎は上から眺めていた。


「誰が口火を切るのかと思っていたが、葉月なら順当、といえるのかな。俺には予想つかなかったからな」


 悪郎は誰かが進への謝罪を始めるだろうと考えていたが、誰から言い出すのかについては本当に見当がついていなかった。確かに葉月は真っ先に拓巳へ反旗を翻し、夢の中で反省の弁を述べたものではあったが、だからといってすぐに行動を移せる気概があるとまでは思っていなかった。


 対話を経て進のいじめについて反省していることは信用していたが、信頼はしていなかった。いざとなると怖気づいて何も言えない可能性も考えていたし、便乗するその他大勢に紛れるだろうとも思っていた。


 しかし葉月は、誰よりも先に行動に出て謝罪の言葉を口にした。これは悪郎との夢の中でした会話で、何をするべきなのかを考え抜いた結果であった。悪郎は彼女の持つ勇気を侮っていた自分を恥じた。


「他の奴らは便乗組だったが、誰もが心からちゃんと謝罪していた。こうなるとも思っていなかったから誤算に次ぐ誤算だな。人の魂は複雑だ、あんなにも濁りきっていたものがこうもあっさりと濯がれるとはな」


 罪は罪で消えはしないが、これからの行動は変えることができる。それだけで悪魔好みの濁った魂ではなくなっていた。思春期ならでは心変わりかもしれないが、悪魔の基準から見てもこれは稀なことであり、単純に堕落と片付けるには人の行いと魂の結びつきはもっと複雑極まりないものだと悪郎は思った。


 進の成長や、この件で関わった生徒たち、それぞれに興味が沸いてきた悪郎は、事態がどう動くのかを興味深く見守ることにした。




 進のいじめに関わったものたちが始めた集団謝罪、そして駆けつけた杉山に対して生徒たちから相次ぐいじめの自白、いじめの実態を隠して沈静化させておきたかった学校側としては頭を悩ませる事態であった。


 また一騒動として片付けられてしまうことを危惧した杉山は、生徒たちが自白したいじめの内容について、その詳細を懸命に書き取って記した。事実を告白し、罪を罪と認め謝罪したいという姿勢に報いようとした。


 これは進のためでもあり、生徒たち皆のためでもあった。明確な証拠と自白があれば事実を押さえつけることはできない、教職に就くものが保身を第一に考え、正しきを教え導くことを止めることはあってはならないと杉山は奔走した。


 クラスでの騒動はすぐに他の教師たちへと伝わり、続々と人が集まってきた。加熱した現場の空気を冷ますためにも、集まってきた生徒たちには一度解散するように指示が出された。


 当事者の進は保健室へ、他の生徒たちはまとめて空き教室に送られ待機が命じられた。緊急会議が行われることになった職員室には、教師たちが集められ重苦しい空気を漂わせていた。


 ふてぶてしくも杉山を批難するものもいたが、後々のことを考え頭を抱えていたり、成り行きを見守ろうとするものが大半を占めていた。大人である教師にとっても、いじめというデリケートな問題とは扱いかねるものであった。


 だがこれを機と見た杉山は、学校側がいじめの事実を認めること、首謀者に処罰と適切な指導、そして佐久間進への謝罪を行うことを要求した。自分が全責任を取って職を辞する覚悟の発言だった。


 それでも難色を示し煮えきらない学校側の態度に、今までは黙ってきた杉山もついに堪忍袋の緒が切れた。目上の立場のものにも、構わず怒りを露わにし怒鳴りつけた。


「正しいことをしたいという生徒たちに、大人の歪んだ事情を押し付けるのはやめてください!我々は教え導く立場だ、だからこそここで引いてはならない!あったことをなかったことにしてはならない!我々が事実を認めずいじめを有耶無耶にしたことで、佐久間進は深刻な被害を受けた。我々が小坂拓巳におもねったことで彼の態度を増長させた。我々は恥を知るべきです!!」


 解決できそう、上手くまとまりそう、被害が大きくなる前でよかった。そんな中途半端な姿勢を取ったために、拓巳は教師を馬鹿にして舐めきっていた。


 過ちを認めることは大人子ども関係なく困難なことである。それでも今もしもまた過ちを封殺するようなことがあれば、それがどんなに愚かしいことかと杉山は必死になってそれを説いた。


 しかし杉山の必死の説得も虚しく、教師の間には大事にはしたくないという空気がまだ根強く残っていた。杉山は忸怩たる思いで「ここまでか」と諦めかけた。個の意見では多に至らないのか、また無力感を覚えた時に職員室の扉が開いた。そこにいたのは如月紗奈だった。


「如月!?どうしてここに…」

「杉山先生ごめんなさい、言いつけを破ってこっそり抜け出してきました。それに会議の内容を盗み聞きもしました。後でいくらでも叱ってください」


 紗奈がペコリと頭を下げると、一歩前に進み出て息を吸い込み胸を膨らませた。そして吸い込んだ息を吐き出す勢いに乗せて教師たちに向かって叫んだ。


「恥ずかしいことしてんじゃねえよ!!佐久間くんも、葉月も、皆も泣いてるんだ!!ぐちゃぐちゃになって泣いてるんだ!!それを…ッ」


 勢い余った紗奈は言葉の途中で胸がつかえ咳き込んだ。喉が枯れるほどの大声を出していたのだから無理もない、そして今度は少し抑え気味に語りだした。


「…それをどうか無視しないでください。皆が出した勇気を無碍にしないでください。佐久間くんが何の心配もせずに学校へ通えるようにしてあげてください。私にはその方法が分からないけれど、先生たちなら思いつくはずです。お願いします」


 それだけ言うと紗奈は「失礼しました」と一礼して職員室を出た。紗奈が立ち去った後の静寂を打ち破ったのは杉山だった。


「生徒にここまで言われてまだ黙ったままでいますか?教師云々ではなく、人としてそれは如何なものかと思いますよ」


 その言葉には誰も反論できなかった。職員室内は依然重苦しい空気のままであったが、杉山の主張を紗奈の声が後押しして、着実に流れが変わってきていた。




 誰もいない廊下でうずくまり、キーホルダーを握りしめながら紗奈は泣いていた。彼女もまた自分の責任に押しつぶされそうになっている一人であった。


 進は自分が関わったことでいじめられた。あまりの理不尽に紗奈は怒り悲しんだが、同時に自分のことを呪ってもいた。


 ただ趣味の合う友達と仲良くしたかっただけ、そんな普遍的な願いが悲劇を呼ぶきっかけなり、そのことが紗奈を傷つけていた。


 誰が悪いかと言えば、すべていじめを始めた拓巳が悪い。しかし紗奈はそれを言い訳に罪悪感を軽くはできなかった。葛藤が彼女の心に与えた傷は小さくなかった。


 それでも歯を食いしばってやるべきことをやった。結果は上手くいかないどころか火に油を注ぐことになったが、紗奈はずっといじめを止めることを諦めずにいた。強い意志と勇敢な心をもつ気高い人であった。


 しかしその心も今や折れかけていた。紗奈はただ一人で戦い続けてきた。傷つき疲れ果てて限界が近かった。


「あれ如月?」


 聞き覚えのある声に顔を上げた紗奈、そこにいたのは進の姿だった。泣いている紗奈の姿を見た進は、慌てて駆け寄ってハンカチを取り出し手渡した。


「大丈夫?何かあったの?確か別の教室で待機って言われてたはずだけど…」

「…佐久間くんはどうしてこんなところに?」

「ああ、荷物をさ全部教室に置いてきちゃって。ちょっと不便なことがあるから取りに行かせてもらったんだ。そうしたら如月の姿が見えたから、本当に大丈夫?」


 進から受け取ったハンカチで紗奈は涙を拭う、そしてハンカチの端に小さくプリントされているキャラクターを見て目を丸くした。


「これ、ジャスティスソード?」

「あっそうそう。子どもっぽいって思うかもしれないけど、どうしても好きだからさ。まあハンカチなんてそう人に見られるものでもないしいいかって思って。身内に小うるさく言う奴がいるんだけどね」

「そうなの?」

「身だしなみの基本がどうとかこうとか…、これくらいならって許してくれたけどね。やっぱかっこいいじゃんジャスティスソード、ファンとしては何か一つでも持っていたいからさ」


 紗奈はハンカチを手にくすっと笑った。そして進に言う。


「本当にかっこいいね」

「でしょ?いいよねこれ、結構お気に入りでさ…」


 話を遮った紗奈が進の手を包み込むようにギュッと握った。その行動に驚き慌てる進であったが、紗奈の手が小刻みに震えているのが感じ取れて、おずおずとではあるが優しく握り返した。


「何があったのか全然分からないけどさ、僕は如月に感謝してるよ。如月のこと、ジャスティスソードと同じくらいかっこいいと思ってる。僕のこと待っててくれてたのって、多分如月だけだったと思うから。居場所、残しておいてくれてありがとう」

「…うん」


 そう短く答える紗奈の手からは、少しずつ震えが消えて温かな体温が戻ってきていた。紗奈は進からもらったありがとうの言葉で、ようやく自分が許されたような気がした。

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