ア・デイ・イン・ザ・ライフ
──悪文に捧ぐ──
チャールズ・ブコウスキー「パルプ」
ルカちゃんには両足をもじもじさせる癖がある。
私が上から押し倒して、首筋にキスをしている間は特にそうだ。私はいつもそれを片手で制す。悪戯っぽい笑みを浮かべながら。ルカちゃんは観念して、少しだけ声を上げる。瑞々しい唇の上下の隙間から漏れ出たそれは、甘い空気の波動となって私の耳に届く。
頭が、おかしくなりそうだ。
全身が心地よい脱力感に包まれる。とろけそうな微熱。汗をかくのも厭わない。じんわり熟れた思考と、高鳴る身体の連動。私はふいに一瞬の永遠を生きている実感に襲われる。
どきどきする。
ルカちゃんの唇を優しく噛みながら、左手でそっと胸元をまさぐってみる。恥じらいとくすぐったさが、その可愛らしい顔の上に浮かび上がる。その微細な表情のグラデーションに、私の気持ちは更に盛り上がる。身体の内奥に確かに熱いものが込み上げるのを感じる。
それは「期待」だった。
私はルカちゃんに、何か淡い「期待」を抱いていた。そしてそれは酷く独り善がりで、子供っぽい願いだった。その事実から目を逸らすように、私は更にルカちゃんの輪郭を触った。その存在を確かめるように。確かにそこにある体温を、何とか信じていられるように。
ルカちゃんは私に向かって微笑んだ。
きっと、こんな私の浅ましさなどお見通しなのだ。
私の前髪をそっと撫で付ける。視界が涙の粒で溢れ返る。息が出来ない。何を言ったらいいのか分からない。一体どうすればいいのか分からない。
私は、この人とずっと一緒にいたいだけだった。ルカちゃんの全てが欲しい。その全てを知りたかった。
そして、その願いは叶わなかった。
ルカちゃんが、俯いている私の顔を両手で触った。確かにそこにいるように見えて、実はどこにも存在しないもの。私にとっての神様。
そう、何度も、何周も繰り返されてきた邂逅。
そんな都合の良い円環が欲しい。宇宙の歴史全体を書き換えてしまうような。
ルカちゃんは私に唇を重ねた。最後のキスだった。私は涙を手でぬぐった。
そして激しい光が、ルカちゃんの静かな笑顔と重なり合った。
私はお別れを言おうとしたが、その言葉は声にならずに消えていった。
…………
…………
…………
…………
朝。
クリーム色のカーテンの隙間から外光が差し込んでいる。瞼が上手く開かない。ぼやけたままの思考。鳴り響くけたたましい金属音のアラーム。午前七時。
いつもの、部屋。
そして、凄まじい勢いで開くドア。
「チーちゃん! 我が社で開発した特殊な超音波付きの特性目覚まし時計は無事に定刻通りに作動したようだな! そいつは爆睡中のゴジラだって一発で叩き起こしちまう代物だ! さあ、急いで朝の行事を済ませて! 遅刻したら洒落になんないんだから! X高は!」
私はまだひとり、夢の残り香を嗅いでいた。一呼吸置いて、父親に向かって叫び散らしてみる。それ以外に選択肢がなかった。
「うるさい! 今行くから! 出てってよ!」
何故だか涙が止まらなかった。私は私のことが、何ひとつ分からなかった。
「でも、チーちゃん……」
「……出てってよ……」
一瞬の沈黙の後、父親は気まずそうな顔を浮かべて、静かに頷いて部屋を出ていった。
****
昨日、大原ミケに連れられて中空の裂け目を通り、この宇宙37へと帰ってきた。
それ以降の記憶は殆どない。気付けば部屋のベッドの上だった気がする。
いつもの通りを歩きながら考える。ゆっくりとした歩幅で、流れる景色を噛み締めるように。いつものコンビニ、大型ショッピングモール、大通り、十字路、自販機……どれもこれも私に馴染みのある富士見町、いつもと何も変わらない生まれ育った町だった。
あの夢は一体、何だったのか?
昨日、巨人の肩に乗っていた瞬間だけ、呼び覚まされていた一瞬の記憶。私と武井ルカの関係……大原ミケの説明によると、それは全ての宇宙を救うために必要だった。決して間違いではなかったのだ。だがそれは、今ではぼんやりとしか思い出せない。現実世界での時の流れに沿って、呼吸をする度に薄れてゆく。いずれは、全てを忘れてしまうのかもしれない。
「……分かんないや」
「おーいお前ら! 入学初日から遅刻なんてのはこのX校においては特に大罪だぞ! おいこら! 警察に届け出ちゃうぞ! 急げ! じゃないと、閉めちゃうぞ? もう閉めちゃうぞ! もう8時だぞ? この分厚くてイカつい鉄の塊を、先生、全身全霊の力を込めて思いっ切り締め切っちゃうぞ!」
ジャージ姿に戻ったパム・グリア先生が叫んでいる。
遠く向こうの方で、電気信号の張り巡らされた校門が閃光を放ち始めた。変わらない日常の既視感を通して、私も少しはこれから成長していけるかなと思った。なんせもう、高校生なのだから。
いや、全然成長していなかった。
充分間に合うはずの時間に家を出たのに、調子こいて考えごとをしながら、ゆっくりと歩いていたらこのざまだった。
煙を上げ始めたその巨大な鉄塊は、黒人の中年女教師がボタンを押した瞬間に、猛烈な勢いで閉じ切ってしまうのだ。そして、間に合わなければ、私は前科持ちだ。
「おーいお前! そこのお前だ! 早くしろ!」
完全に我に帰った私は地面を思い切り蹴りつけて、一目散に駆け出した。私、走ります。猛ダッシュとローファー。しかし走り辛い靴だ! 運動不足の罪業。気付けば周りは私ひとり。向こうの校舎の窓には大勢の見物人。脇腹が痛み、スピードが落ちる。万事休す……お父さん、ごめんなさい……今朝、あんなに怒鳴っちゃって……息が上がる。私はスピードを落とし、とぼとぼと歩みながら青い空を見上げる。小春日和が心身に突き刺さる……前方、数10メートル先で校門が閉まろうとしている……
「おーい! お前! 諦めるのか! おーい!」
すると誰かが……校舎から飛び出してきた……赤い髪が空中に揺れている。短めのスカートを華麗に翻して……武井ルカだ。笑っている。こんなにやばい状況なのに。いつだってあの女は、あの子は笑っている。私はあの無垢な笑顔を見ると、何故だか元気になるような気がする。勇気が、湧いてくる気がする。
もう一度だけ、全力で走ろうと思った。
武井ルカは制止しようとするパム・グリアを押し退けて、鉄壁の門の上にそのまま勢い良くよじ登った。
私はそれを見て、考えるよりも先に、跳んだ。
それ以外に、自分がするべきことは考えられなかった。
空中で、私の手と、武井ルカの手が重なった。
この手と、この宇宙との距離。
「物質」を越えて。
「分子」を越えて。
「原子(電子と原子核)」を越えて。
「原子核(陽子と中性子)」を越えて。
「限りなく小さい」と、「限りなく大きい」を越えて。
私たちは出会った。
どんな正解や間違いも全て超越した場所で。
この宇宙で出会ったのだ。
どれだけ勉強したって、この広すぎる宇宙の事なんか、何ひとつ分からない。
ただひとつ分かっているのは、何度忘れても、この堂々巡りを繰り返して、大切な何かを思い出してみたいという願いだった。
それはきっと、神様を信じる強さでもあるのだ。
それがあれば充分だろう?
私はきっと、この人のことが好きだったのだ。どこか他の宇宙で。
そしてまた、ここで出会えた。
「おはよう! さあ、ここからまた! ぶっ飛ばして行くよ! 君!」
私はルカちゃんに手を引っ張られて、煙を上げながら猛スピードで閉まる校門を乗り越えていった。
──おしまい──