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魔蝕のレゾンデートル  作者: 古里古
第三章
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第94話 ぼやけた安心


 暗闇の中で、嗅ぎ慣れない匂いがした。

 なんとなく、薬品かな、と思った。

 今、体が動いているのか、立っているのか寝ているのかも分からない。

 感覚も、何もない世界だった。


「──……え……すか?」


 遠くで、知らない人の声がした。

 バタバタと足音が近づいたり、遠のいたりしている。


 ──俺、何してたんだっけ。


 何も思い出せない。

 思い出したくもない。

 このまま、起きなくてもいい。

 独りぼっちの何の温度も無い世界で、閉じこもったままでいい。


 それでも良かったのに。

 指先に温もりを感じた。


 凍りついていた身体が、その温もり一つでジワジワと溶かされていく。存在しなかった感覚が、ゆっくりと全身に還ってくる。

 身体に僅かな重みと柔らかさを感じ、ようやく瞼の氷も融点を迎えた。


 ──白い天井があった。


「カナメ……!」


 すぐ真横で、聞き慣れた声がした。


 カナメは目だけを向けると、絹のように綺麗な黒い長髪が視界に入った。

 

 ほのかに、薔薇の香りがする。


「……マリア……?」


 だが返事は、彼女の声とは程遠い、知らない男性の声から返ってきた。


「声聞こえてますか? 自分のお名前言えますか?」


「え? カ……カナメ……」


 その声に急かされるように、何も理解していない頭で名前だけを応える。

 

 言葉を発すると同時に、指先に感じていた温もりがするすると離れた気がした。


 頭が回らない。視界がぼやけている。

 そのせいで一瞬、マリアが目の前にいると勘違いしてしまったのだろうか。


「手触りますよ。感覚はありますか? 触られているのが分かったら、このままグーパーグーパーしてみてくださいね」 


 今度は手首を支えられ、手のひらにも微かな温もりが届いた。

 言われるがままそれを握ったり開いたりを繰り返す。


 結局ぼーっとしたまま、何されてるのかもはっきりしない時間がしばらく続く。

 質問には答え、されるがままに体を触られた。

 

 次第に意識が輪郭を取り戻していく。

 男性の動きを目で追っていくうちに、自分の左腕に点滴が刺さっているのが見えた。

 

 カナメは、病室で寝かされたまま検査されているのだと理解した。


「今のところ、大きな問題はなさそうです。今日は無理せず、しっかり休んでください」


 検査を終えた医者は最後にそう告げると、「お大事に」と残してカナメの元を去っていった。


 頭が働かず、一人で天井を眺める。

 天井の斑な模様にピントが合わない。

 合わせるほどの気力もなかった。 

 ただただ目の前のものを視界に映すだけの虚無な時間が流れていく。

 

 しばらくすると、ベッドを囲んでいるカーテンが揺れ、見慣れた黒い長髪の女性が入ってきた。


 マリアだった。


「……検査、終わったみたいだな。無事でよかった」


 マリアはベッド横のパイプ椅子に腰掛けた。

 

 見慣れた顔に安心し、カナメは彼女の顔に目を向けた。

 よく見ると、普段つり上がってる眉が僅かに八の字に下がっている。

 声色も、いつもよりも優しい気がした。

 

「……なんか、珍しい顔してるね……」


 呑気な感想が、そのまま口をついて出た。

 そのせいなのか、マリアの表情はいつも通りの冷たく見える目に戻ってしまった。


「開口一番の感想がそれか。呆れた奴だ」


 彼女の言葉は冷たいが、声色は優しいままだった。


 ふんわりと薔薇の香りがする。

 

 そこでカナメは、目覚める直前に同じ香りを感じたことを思い出した。


「……あれ? さっきもそこにいた……?」


 マリアはさらりと答える。


「あぁ、お前が起きるまでな。検査が始まってすぐに席を外したが」

 

 やはり、勘違いではなかったみたいだ。

 

 目覚めの記憶に僅かな自信がつき、ぼーっとした頭でそのまま記憶を遡ってみる。

 

 正直、検査中の記憶はまるでない。

 ただ、匂いと温もりだけが、ぴたりと記憶に張り付いているようだった。

 

 ──そういえば起きる前、指先に温もりを感じたような気もする。


「……俺の手……握った……?」


 純粋な疑問だった。

 けれどマリアは一瞬言い淀み、言いたくなさそうな顔で、小さく口を開いた。 


「……お前の瞼が動いたのを見て……ほんの一瞬だけな」


「……心配、してくれたの?」


「する時はする」

  

 彼女はぶっきらぼうに答える。

 けれどその答えに、何故か少しだけ嬉しくなった。


 近くに知っている人がいる。

 そんな安心感が心を満たしていく。

 体の緊張も解けて、次第に身体が疲れを思い出したのか、鉛のように重くなってきた。


「……ごめん……なんか、急にねむ……」


 そう口に出すのが精一杯だった。

 つい数秒前まで受け答えしていたはずの頭が、全然回らない。


「今はゆっくり休むといい。また明日も来る」


 マリアの声が遠くなって、視界に闇が広がっていく。

 体が限界を訴え、脳と身体を切り離そうとしてくる。


 ──あれ? どうして、病院なんかで寝てるんだっけ……。


 カナメの脳は最後に疑問だけを残し、意識は沈黙の底へと沈んでいった。

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