64 軽率
「少し匂いが変わったな」
その言葉にシモンとサーシャは身を乗り出した。
「それはどの程度の変化ですか?番と認識ができるのか、もしくは特定の匂いが薄れたということでしょうか?」
ペンを片手に追求するシモンにエリアスは苦笑しながら言った。
「番と判断したサーシャの匂いは変わらないが、抑えられているようだ。以前はかなり強く香っていたのだが、隣に立たなければ気づかない程度だろう」
「複数のハーブの調合が良かったのかもしれませんね。シュバルツ王太子殿下、週末は王宮でお過ごしになりませんか?サーシャと離れても異常がなければ、番の効果が薄れていることを証明できそうです」
番に反応しなくなれば、エリアスがここに留まる必要もなくサーシャとの婚約も白紙に戻してシュバルツ国に帰ることができる。
「……そうだな。試してみよう」
淡々と答えるエリアスに番の効果が薄れているのだとサーシャは実感した。少し残念だと思うのは一緒に過ごす時間が長かったからだと結論づけて、サーシャはお茶の準備に取り掛かる。最初は複雑そうな表情を浮かべていたエリアスだったが、今ではサーシャが淹れる紅茶を美味しそうに飲んでくれるようになった。
「サーシャの紅茶が飲めないのは寂しい」
その言葉にエリアス自身もサーシャが番でなくなることを前提に考えているのだと分かり、胸の奥がざわざわと落ち着かない気分になった。
「サーシャ?」
「……何でもありませんわ。こちらの茶葉はソフィー様の領地で採れたものです。開封したもので良ければお持ちになりますか?」
「……いや、大丈夫だ」
やんわりと断るエリアスに、社交辞令を真に受けてしまったと恥ずかしくなる。
(エリアス殿下が望めば茶葉なんていくらでも手に入るのに……)
「また戻ったらサーシャに淹れて欲しいから」
「畏まりました」
多分その機会は来ないだろう、そう思いつつも今度は冷静に受け止めることが出来た自分に安堵した。
放課後、重い気持ちを抱えてサーシャは図書館にたどり着いた。放課後の人の気配が少なくなった棟内に憂鬱な気分が増す。
(明らかに嫌がらせをされるための呼び出しよね)
挙動不審な下級生から渡された手紙を突き返せなかったのは、彼女がひどく怯えていたからだ。サーシャに対してなのか、命じられた上級生に対してなのか判別がつかなかったが無下に扱うことが躊躇われた。その結果受け取る形になり、封を開ければ場所と日付だけが書かれた手紙。
普段だったら応じない手紙の指示に従ったのは、収まらない噂のせいだ。それなりに親しくしていた同級生たちに声を掛けてもぎこちない表情で返されるのも、遠巻きに囁かれることにも不快感が募っていく。わざわざ呼び出すぐらいなら直接言われたほうがましなのではないか、そんな投げやりな気分になっていたとその時は気づかなかった。
図書館の扉を開ければカーテンが閉じられているせいで薄暗い。電気を付けようと手を伸ばしたところ、頭に何かをかぶせられて視界が真っ暗になった。
「っ!」
扉の閉まる音と背中を強く押されたことで、サーシャは自分の迂闊さを悔やんだ。
膝を打った痛みよりも何をされるか分からない恐怖感のほうが強い。これまで嫌味や嘲笑、閉じ込められるぐらいの嫌がらせだったため、そこまで警戒していなかった。だがそれは貴族令嬢の嫉妬によるものだったからだ。ぼそぼそと囁く声に男性の声が混じっていることで、今までの嫌がらせとは程度が違うのだと気づいてももう遅かった。
「目隠ししたから安全なんだよな」
「あとは魔女の印を傷付ければ力を失う」
明らかに暴力行為を振るわれようとしていることが会話の一端から分かり、恐怖が一気に加速する。何も見えない状態が怖くて顔に被せられた袋に手を掛けると、両手を押さえつけられ悲鳴が漏れた。
恐怖が限界を超えようとしたとき、何かを叩きつけるような荒々しい音が響いてサーシャは身を竦めた。
「貴様ら、何をしている」
冷たい怒りを含んだ声に涙がこぼれた。ぎゅっと抱きしめられて一瞬身体が強張るが、知っている匂いと優しい声に力が抜ける。視界が明るくなって紫の瞳が飛び込んできた。
「サーシャ、もう大丈夫だ」
安心感から涙が止まらずしがみついたまま、サーシャはただ子供のように泣きじゃくった。




