52 怒りと後悔
剣呑な空気を察知してレンとユーゴがほぼ同時に動いたが、ユーゴのほうが一歩早かった。
「シモン、落ち着いてくれ。事情を説明するから」
「ありがとうございます。ですがその前に、――サーシャおいで?」
焦った表情を浮かべるユーゴを気に掛けるでもなく、シモンはサーシャに優しく語り掛ける。そんなシモンの呼びかけに答えようにも気づけばエリアスに肩を抱かれて身動きが取れない状態だ。
更にはそのエリアスも冷ややかな眼差しをシモンに向けていることがサーシャを逡巡させた。
「あのお義兄様、私は大丈夫ですわ。ユーゴ様、ご説明をお願いできますか?」
安心させるように口の端を上げたが、シモンはじっとサーシャを無言で見つめている。
埒が明かないと思ったのか、ユーゴはそのままの状態のシモンに小声で状況を説明することにしたようだ。こちらまで声が届かないが、シモンの顔つきがますます険しくなっていく。
(お義兄様、すごく怒っている)
サーシャのことを想ってくれているこその怒りだが、それがひどく恐ろしい。たかだか子爵家が賓客である他国の王子に対して、本来ならば意見どころか口を利くことさえ許されない。だが過保護であるシモンがどう暴走するか分からないことが、サーシャの不安を煽る。
「事情は分かりました。それでアーサー殿下は私の義妹に何をさせているのですか?」
話を聞き終えたシモンが、満面の笑みを浮かべてアーサーに訊ねた。笑っているのにその目は極寒を感じさせるほど冷え切っている。
その様子に息を呑んだユーゴがすぐさま叱責の声を上げた。
「シモン、下がりなさい。それ以上は不敬に当たる」
アーサーが仕組んだことではない。だがこの場でエリアスを止められるのはアーサーだけだ。それなのにただ傍観しているのかとシモンは回りくどい表現でアーサーを責めている。ユーゴもそんなシモンの心情を理解しつつ、これ以上シモンの立場が危うくならないよう遠ざけようとしたのだ。
「お義兄様、子爵令嬢でありながら恐れ多くも殿下方と同席させて頂く機会を賜りました。私のことでお義兄様を煩わせてしまって申し訳ございません。お義兄様もミレーヌ様とどうぞごゆっくりお過ごし下さいませ」
王族のいる席に乱入し、歓談の邪魔をした狼藉者と捕らえられてもおかしくない。常識的で頭の良いシモンが気づかない訳がなかったのに、サーシャを守ろうとしてくれたのだ。シモンを庇うために少しだけ事実を変えて伝えたが、それがシモンを傷付けることになるとは思いもしなかった。
「……不甲斐ない兄ですまない」
その表情でサーシャは自分が選択を間違えたことを悟ったが、一度口に出した言葉は取り消せない。強く拳を握り締めてシモンは儀礼的に一礼して去っていった。
(お義兄様を傷付けてしまった……)
今までサーシャがどんなことを言っても困ったように笑うことはあっても、あんなに悲しそうな顔は見たことがなかった。以前エマから嫌がらせを受けた時に見た沈痛な表情よりもはるかに痛々しく、見ているのが辛くなるような表情をさせたのが自分であることに激しい後悔に襲われる。今すぐ追いかけて謝りたいのに、理性がサーシャをその場にとどまらせた。
これ以上ガルシア家の人間が不敬を働けば家に迷惑が掛かるかもしれない、そんな打算的な自分がひどく醜悪に思えてくる。
「……申し訳ございませんでした。あの、お茶を準備いたしますわ」
「そんなことを貴女がする必要はない」
込み上げてくる感情を抑えるため、本来の仕事に戻ろうとするがエリアスはそれを望まず、レンに給仕をするよう指示をする。
王族にとってお茶を淹れる仕事など使用人がすべきことで、その程度の認識であることは分かっている。だけど自分の好きなことをそんな風に軽んじられたことが悲しくてたまらない。
大切なものを奪われていくような喪失感にサーシャはひたすら耐えるしかなかった。




