真綿を詰める
気がつけば、周りは真っ白だった。綿のようなそれは辺り一面を覆っていた。
他に何もなく、白いだけで、奥行きも分からない。部屋ではない、出口も窓もない四角い場所だった。音もなく、無理に口を開いても、すぐに白い綿のようなものに音は吸い取られていく。
着ている服は白い術後服に変わっている。頭には白い布が何重にも巻かれていた。しかも髪はなくなっているようだ。他に怪我はない。元より怪我などなかったようだった。
不安がゆっくりと色彩を埋めるように彼の中にこみ上げてくる。
壁をひっかくとぼろぼろと綿のような物がちぎれて白い地面に落ちた。するととけ込むように綿は地面消えた。その度に乳幼児が放つような芳香があたりを包んだ。八つ当たり気味に何度も何度も白い壁を掻いて掻いて掻き続ける。白いカスが粉雪みたいに落ちていく。しかし、削った白は地面から消え去り、壁は盛り上がり修復していく。
「落ち着いてくださいヨ」
すぐ横の壁が蠢くように開いた。そして赤い三日月の男が彼の前に現れる。後ろには医師が表情もなく立っていた。
「なに、した」
彼は言葉を引き出したが、自分の言葉とも思えないほど呂律が回らない。まるで幼児でもあるみたいに。三日月は深く笑い、指を鳴らした。彼の足下が盛り上がり、蠢きながら進んでいく。彼は必死に振り向くが、部屋は遠ざかっていく。
だが、あたりも同じような白い壁で部屋のプレートだけが黄色く浮いて見えただけだ。プレートの名は知らない言葉で書かれていて、読めなかった。異国の言葉だろう。まるで知らない形をしていた。
「アレは、精神患者を閉じこめる場所でしてネ。ナノマシンによって修復ができるようにしてあるんですヨ。ここは矯正院でして。他の壁もそうなっていますから、どうしようと無駄ですヨ。まあ、私は楽しいですけど、ネ」
音もなく笑う。そして三日月と医師は床の蠢きに乗り、彼とともに移動を始めた。
矯正院は啓蒙局の保有する人道的な施設として知られていた。
社会不適合者、アンチ・エコロジストと真っ当な人間へと変える施設。中では怖気立つような実験がされ、拷問が日常だと噂されている。だが、彼の目には行きすぎた病院のようにしか見えなかった。これから何が待っているのだろう。不安という感情が沸き上がってきたが、うまく思いにならない。それがまた、彼には不安だった。違和感が身体を駆けめぐっている。
「着きました、ヨ」
そこは白い棚のようなものがいくつも、並んでいる部屋で中には絵が描いてある本がいくつも並んでいる。
「さあ、存分に読書を楽しんでください。貴重な、あなたにとって大切な本ですから、破かないでくださいネ」
何を考えているのか、分からない。ここで何をさせようというのか。
医師がさっと出てきて、押しつけるように絵本を渡す。先ほどと違い随分楽しげだった。彼はページをめくる。失明した青年の絵だった。パラパラとめくれば、中身はラプンツェルのようだが、文字は異国の文字で読めたものではない。
「できない」
適切な言葉が見つからず、彼はそうとだけ言う。
「読めませんか」
医師が次に取り出したのは人魚姫のようだったが、やはり表紙の文字からして読めたものではない。
彼は苦しげに声を出す。「読めない」とだけ言いたかったが言葉に成らないで思考の中へ消えてしまう。
「できない」
医師は満足げに頷くと、二つの本を淡々と読み上げた。
ラプンツェルは青年が失明するところまで。人魚姫は泡になる、最後まで。
「この本は異国の言葉で出来ている。そうお思いですか」
彼は医師に頷く。楽しげに医師は、否定した。横では三日月が深く笑っている。数少ない赤を不気味に主張していた。
「言語簡易化と文字の非認識、ナノマシンによる代替脳。いやぁ、よくやってくれました」
「いやいや、いつも通りです。これだけうまくいった個体も少ないですが」
彼がその会話から感じ取ったのは、自分は二度と本は読めないということだった。
その後、何日たっても、無気力という言葉ですら浮かべられなかった。
思考が形にならない、その苦痛がじんじんと脳の中で回った。回るだけで、口にも声にも出せず、意味もなくあーあーと唸り叫び、ナノマシンの壁や床を引っ掻き、そして千切った。それが無駄だと知っていてもこうして壁を壊さなければ、自分の肌を引き裂いてしまそうだったから。
時折退屈しのぎなのか、観察に来る医者だけが彼の一方的な話し相手だった。軽蔑や尊敬以前の、実験動物に対するような態度で接してくる。そのくせ、声を荒げ、殴りかかるような動きをするとすぐに逃げてしまう。
食事は壁から盛り上がる。中身はスープだけだった。壁が変化してスプーンと皿になった。出されたスープがなんなのか、なんという材料なのか、見ては取れたが分からない。固有名詞が喉に突っかかって出てこない。それが、青い色の丸い葉物の野菜であることや、いくつかのの料理法だって思いつくというのに。
皿にのっているから食べられるのだろう、としか分からない。それは緑色のスープで嫌に苦かった。けれども、文句をどういうのか、料理の仕方を間違っていると指摘すべきなのだが、言う気力があっても言葉がでない。
ただ白い部屋の中で過ごし、日数を刻むことも、食べた日の数を数えることもままならない。
日を数える度、あーあーと叫ぶ回数も減ってやがってなくなっていく。髪や髭ようやく生え始めたがすっかり色の抜けて白くなっていた。
白い時間と緑色のスープは彼を無気力という思いを放逐するまで続いた。
医師は目から光が失われたのを確認すると、啓蒙局へと連絡を取った。退院が決まったことを連絡されたが、彼は医師のように喜ぶことはなく、天井ばかりをぼうっと見つめていた。
「社会復帰はできそうですかね」
いつからいたのか、もう彼にはどうでもいいことだったから気にしなかった。三日月は声のない張り付いた笑みを浮かべ、彼を眺めていた。
医者はもはや興味なさげに頷いている。そわそわとしている様子から、新しい患者がきてそれどころではないらしい。
「では、そのように。ああ、場所はいつものところへ送ってあげてください」
医者は何度も頷くと、さっと去っていった。壁は閉まらずいつまでも、開いているようだった。彼はあーあーと叫ぶ。伝わらない感情をぶつけ、失ったものを返せと呪う、単音の声だ。
三日月の笑みが赤く開いた。得物を食む悪魔の顔、愛しげに心臓を食べる時のような笑い方のようだった。だが、それは細い身体には大きすぎて倍率を間違えたように大きかった。
「では身だしなみを、どうぞ」
三日月の笑みが赤く開いた。獲物を食む顔、愛しげに心臓を食べる時のような笑い方のようだった。だが、それは細い身体には大きすぎて倍率を間違えたように大きかった。
「では身だしなみを、どうぞ」
鏡とシェービングクリーム、そしてカミソリを、彼は手渡しされた。私からの気持ちです、あなたには大変申し訳ないと思っていますよ。笑みが深まると、満ちるように三日月のように赤い口が広がっていく。その赤い中にいくつも心臓があるように、彼には見えた。




