三日月は歪む
小さくて狭い、人がほとんどいない区画の2階。崩れかけた生体素材の元高層マンション。彼の住む部屋はそこにある。
「ただいま」
習い性と惰性で言った言葉をつれて、彼は誰もいない暗い部屋に入っていった。マップや誘導小機が付いたケータイならば、もっと短い時間で付いただろうが、それを使う気はさらさらなかった。ただでさえ、合成素材があふれている部屋にそんなものを持ち込むなんてことはしたくなかった。
張り付くような暑さ、冷房の付く前のわずかな苛立ちが彼の顔を歪めた。都市そのものが適温に保たれているとの宣伝文句だったが、こうした低居住率の区画には他方から生み出された熱や、汚染された空気などが廃棄されることが少なくなかった。自然を汚さないため、という支配者達の名目は守られているらしい。
頭を鈍重に巡らせたあと、彼は顔をしかめた。いつまでたっても明るくならない。
「自動照明が壊れているのか」
人が入ってくれば自動で付くはずなのに。邪魔になって消したままだっただろうか。仕方なしに、手探りで照明と冷暖房のスイッチを探す。もう模造太陽光は天井からは差していない。月は元々作られておらず、階段の明かりがほんのすこし照らしてくれるのがせいぜいだった。
カチッ。電気の火花を散らしながらスイッチが入った。わざわざ骨董屋に頼んで買った蛍光灯は付きはよくないが、模造太陽と同じ光を発生する陽光棒は嫌いだった。支給されている陽光棒だけで照明の心配はしなくて済むし、すぐさま明るくなる。だが、その光を浴びた後は、とても眠れないのだった。なんといっても彼の大切なものは、偽物であっても、太陽の光が嫌いだった。
もう少しまともな照明を作ってくればいいものを、と愚痴が浮かんだ頃、白色の光があたりを照らした。
照らされたのは雑多に本が積まれた、寝室のような場所だった。家の機能をすべて詰め込んだ場所で、キッチンもクローゼットも付いている。きれいに整理されている訳ではないが、別段汚いものはない。
一人暮らしの男性にしてはまだましな方かもしれない。
自画自賛しながら、小説を一冊取り、寝床に座る。
『2001年宇宙の旅』の文庫版だった。
小説というのは彼にとって特別なものだった。
祖父が残した遺産である、という一面は確かにあった。だが、それを除いても、それはきっと確かなことだった。
テレスクリーンのように画面や音などない。ネットワーク上に作られた疑似世界のように自分が干渉しなくても、ヘッドホンから伝わる音もスクリーンの映像もなくても、その世界が見えるのだ。時に少年が活躍する冒険譚であり、時に人の苦悩とえげつなさに切り込んだものであり、ただ悪の世界を事細かに描くだけのこともあった。書き手の人物がうっすらと見えて、挨拶してくることもある。コーヒーを飲んでいる時に、ふと描かれた人物が質感を持ったものとして、現実よりよっぽど深く、脳に焼き付くこともあった。
つまらない道楽と故郷でもあまりいい目見られなかった。一ヶ月前にこの閉鎖都市に引っ越した時には、だれも本の存在を知らなかったほどだ。多大な量の情報、ただの資源の無駄であり、また在りすぎる知識は人を堕落させる。政府はこの主張に乗っ取り、活動を開始し、インターネットはすべて掌握されて、規制された。
電子書体は規制され、抹消させられた。だが、逆に本が残った。本というものの影響力がほとんどないため、規制することなどなかったのだ。もっとも紙そのものが使用規制されているため、新しい本ができることは、もはやないのだけれど。
ふう、とため息をつくと、彼は『2001年宇宙の旅』の文庫本を開く。この年から何年も未来だというのに、宇宙進出は環境保護のため開発は進まなかった。
そう聞いたら作者はなんていうのだろう。そう思いながら随分と焼けた表紙を開こうとする。
しかし、その旅は開始されなかった。タイミングを合わせるようなノックの音。やっと落ち着けるというのに、だれだろうか。呻きながら、鈍重な足取りで玄関を開けた。
「すみませんねぇ、夜分失礼します。啓蒙局監査部のものです」
彼はゾッと毛が逆立つ思いだった。啓蒙局といえば情報規制や人格矯正の権限を持つ公務員どもだ。とりわけ清掃局と並んで質が悪い。
両者ともノルマ達成のためには、隣人を陥れることも少なくなかった。もしくは真にエコロジストで、人間を抹消しようとしている、という噂も聞いた。噂を公言した人間は心を抜かれたようになって戻ってきたが。
その悪名高い奴らの一人、玄関に立つ男はチャシュ猫を思わせる笑いをにたにた浮かべていた。目も身体も細い分、口だけが妙に大きくて、彼は震えた。アリスのようにはなれないらしい。
「なにか」
彼はかすれきった声を何とか絞り出した。
「おやおや、何を緊張していらっしゃるのですか、いや、大丈夫。ご心配はいりません。あなたに危害を加えに来た訳ではありませんよ。私はあなたが真のエコロジストだと知ってやってきたのです」
スラスラとおきまりの台詞を読むような口調。不安を煽ることにかけては清掃局よりも上手だ、と彼の理性がぽつりと呟いた。
「なぁに、あなたがね、ちょっとばかり、本をお持ちだというので」
にたにたとした笑いを崩さず、男はずいっと彼の方によった。狭い玄関口では顔をつきあわせるしかない。
彼は緩慢とした動作でつばを飲み込み、意を決した。
「法律では非公認の電子書体のみの規制のはずでしたが? 私は規制関わる品は一つも持って、いませんよ」
男の顔が歪んだ。
三日月のように開かれた口は気味の悪い赤い色をしていた。大仰な動作で、懐から電子端末を引き出し、手首を一周させてから、ボタンを押した。羽虫が飛んでいるような音だ。もっとも羽虫が飛んでいる姿も音も二人とも久しく聞いていないが。
気味の悪い笑いを維持しながら、男はボタンを何度も押していく。その度に羽虫が飛び立った。彼は目を泳がせて、駕籠に捕まったネズミのように、世話しなく、そして意味なく思考を巡らせる。その様子に嫌らしい三日月が鋭く裂けた。満足げに頷くと、ボタンを手首を一周させてから押した。
電子端末から壁に光が投射され、文章が浮かび上がる。忌々しい“緑の平和”法だった。
第四百五十一条・改訂案
児童書を除くあらゆる本を製造し、販売し、又は読書の目的で所持した者は、更生のために適合の手術に処する。
理解しがたい、理解したくない法だった。彼は喉に冷めたきったコーヒーを流し込んだような痛みを感じた。
「これで、おわかりですか? もう本なんてものは害毒として扱われます。
まあ、順当でしょう。これまで規制されなかったのが不思議なぐらいですよ。まあ、本なんて非効率的なものは、なくなっていいじゃありませんか。
エンターテイメントはテレスクリーンと疑似世界だけでこと足りますもの。そして哲学と思想はすべてエコロジズム以外不要です、そうでしょう。それさえ在れば純文学も必要ありませんよネ。なにも悩むことなどありませんから」
楽しげに歪む三日月の笑みが、彼の目に写った。他がどうしようもなく貧弱な分だけ、そこだけがその男のすべてで、嫌らしさだけがこいつなんじゃないか。
そんな考えが彼を支配して、無気力を苛立ちと怒りがかき回した。
「待て! ここに来る条件はこの本を所蔵していいってことだ! 僕をこんな所に連れてきた担当官は確かにそういったぞ!」
吹き出した不満を唾にのせながら、彼は叫ぶ。ほとんどだれもいないこの区画に遠吠えのように響いた。戸惑う人も答える犬もいない。ただどこかでカーテンを締める音だけが聞こえた。
張り付いた三日月のまま、男は続けた。
「その時は問題なかったのですよ、あなたが連れてこられた一ヶ月前までは、ネ。でも、これは公正な投票によって決定したことです」
「ふざけるな。投票権を持ってる奴なんて、この都市じゃたったの三人じゃないか」
まだ三日月に笑っていた。男がすべきことはこの他には一つもないのだ。
「三年もすれば、投票権がきちんと与えられます」
「三年もこの街にいる奴がどこにいる! いつだって投票によって、別の都市に写されるじゃないか!」
「ええ、それが法律です。そして、どう反論しようとも投票権、および意見書作成の権利のないあなたが何を言っても無駄なのです。そしてそういった騒音による公害は裁かれてしまうかもしれませんよ。この地の市民は皆エコロジスト、公害は許されざる罪ですから」
穏やかに、優越の笑みを浮かべながら、男は口を閉じる。顔には切れ目を入れたように三日月の後が残っていた。手をただ握りしめる彼に背を向けて、もう一度だけ男は振り返った。三日月と閉じてあった目をぎょろりと見開いて彼を睨めつけていた。
「適応は明日の夜時間です。それまでにきちんと処分しておいてください、ネ」
玄関扉を閉める音だけが、部屋に残った。木槌を打ち付けるような音だった。
音に押されたように彼はふらふらとベッドに座り込み、ぼうっと蛍光灯を眺める。男の目には白く歪んだ光だけが見えた。




