序幕(2)
朝、というには少し遅い。施設の子供達が食事を終え、部屋に戻る時間。エマは人の流れに逆らって、食堂の先にある医務室へと急いでいた。
「ごきげんよう」
すれ違う子供達が養育係の彼女に次々と挨拶するも、その耳には届かないようだ。険しい表情でスカートを持ち上げ、これ以上ない大股で廊下を猛進する様は、焦っているというより、怒っていると形容する方が相応しい。
--まったくもう、何で歩き回ったりするのよ!?
誰かが廊下で気を失って倒れている、と騒ぎになったのは少し前、エマが食堂で給仕をしている最中だった。慌ててジルの部屋へ戻ったものの、ベッドはもぬけの殻。
--付き添ってる間は目を覚ます気配もなかったくせに、ちょっと離れた隙に部屋を出るなんて! 私がどれだけ心配したか分かってんのかしら!?
……ダンッダンッダンッダンッ……。
妙に自分の思考と調子が合う足音に、エマははた、と立ち止まった。いつの間にか食堂の前を通り過ぎ、辺りには誰もいない。
「え、やだっ!」
ここへ来て初めて、スカートを持ち上げたはしたない姿に気がついた。急いで乱れたスカートの裾を整え、今度はできるだけしとやかに歩き出す。
医務室の前。ノックをしようと手を上げた時、聞き慣れない男の声が耳に入った。
「それは……あの、しかし--」
「ならば問題ない。儀式は明後日の夜だ。それまで現状を維持するよう」
バルデン先生の反論を遮って、一方的に会話を切る。バタン、とドアを閉める音が続いた。
--あら?
何かがおかしい。ひとまず一呼吸置いて、目の前のドアをノックする。
「失礼します」
開けざまに素早く医務室の中を見回す。簡素な机と診察台、向かいの壁に窓が一つ。やはりドアはここしかない。先ほど先生と話していた男は、一体何処に消えたのか。
「やあ、連日ご苦労様。随分早かったね」
バルデン先生は普段と変わらぬ口調で声をかけながら、机に向かい必死にペンを走らせる。
『会話を続けて。盗み聞きされている』
「部屋に戻ったら、ジルがいなかったものですから」
走り書きのメモに頷きつつ答える。
「彼女が起きた時には部屋にいなかったのかい? 残念だな、目を覚ましたきっかけでも分かればと思ったんだが」
『ジルを連れてすぐに逃げろ。明後日の儀式でジルは殺される』
「!? ……あの、ジルは?」
「そこだよ。また眠り姫に戻ってしまった」
バルデン先生は診察台を振り返る。彼女はそこに、静かに横たわっていた。
枕に散る長い黒髪。本当に血が通っているのかと心配になるほど色をなくした肌。昨日の夕方ここへ運ばれた時と……一晩中エマが付き添っていた間とまるで変わらない姿。
「ジル……」
傍らに跪いて手を取る。冷たい手。触れても彼女は何の反応も示さない。
不意に背後から、エマの両肩をフワリと大きな手が包んだ。独り言のようにバルデン先生が呟く。
「何もできなくて、すまない」