2-6話:日曜のカフェで東北行きが決まった時点で、だいたいもう引き返せない
日曜日。
午前十時過ぎ。
駅近くのカフェに、マナトとコハルは並んで座っていた。
距離はある。
けれど、空気は妙に近い。
レンマはそれを見た瞬間、だいたい察した。
(……何かあったな)
決定的な何かではない。
マナトが酔ったコハルに手を出した、という意味でもない。
それはない。
そこは、レンマも疑っていない。
だが、距離は変わっていた。
コハルは落ち着かない様子で、マナトはいつも通り真面目な顔をしている。
ただ、その顔が妙に穏やかだった。
そして二人とも、レンマを見る時だけ、わずかに気まずそうにする。
(ふうん)
レンマは口元だけで笑った。
「いやあ、来てもらって悪いね」
「用事って、何ですか?」
マナトが即座に聞いた。
「何でしょうか?」
コハルも続く。
声は揃っていない。
けれど、反応の速さは妙に近い。
レンマは二人を見比べた。
「昨日はよく眠れた?」
「寝ました」
マナトが即答した。
「マナトには聞いてないのに、答えが早いなあ」
「寝ました」
「二回言った」
コハルが横で固まっている。
耳が赤い。
レンマはその反応を見て、肩を揺らした。
「コハルちゃんは?」
「えっ」
「昨日、大丈夫だった?」
「あ、はい……薬局の袋、ありがとうございました……」
「二日酔いは?」
「ちょっとだけ。でも、だいぶマシです」
「そっか。よかった」
レンマは頷いた。
言いたいことも、聞きたいこともある。
だが、今日の本題はそこではない。
レンマはコーヒーを一口飲む。
ぬるかった。
それから、声を落とした。
「じゃあ、本題に入ろうか」
空気が変わった。
マナトの表情が切り替わる。
コハルも背筋を伸ばす。
日常の顔から、非日常の顔へ。
完全ではない。
けれど二人とも、もうただの平和な日常だけにはいない。
レンマは言った。
「実はお二人に、東北に来てほしいんだよ」
「東北……?」
コハルが小さく繰り返す。
マナトの表情が曇った。
「リンカさんに何かあったんですか?」
「お、察しがいいね」
「その言い方をする時点で、悪い話ですよね」
「まあね」
レンマは否定しなかった。
否定できなかった。
コハルが、不安そうに二人を見る。
「リンカさんって……暁光の勇者さんですよね?」
「そう。コハルちゃんも会った、めちゃくちゃ強烈なあの女の人」
「一体、何があったんですか?」
コハルの声が低くなる。
以前なら、もっと単純に驚いていたかもしれない。
けれど今の彼女は、状況を読む。
勇者。
帰還者。
襲撃。
血と肉。
自分が狙われる理由。
そこまで知ってしまった人間の反応だった。
「十日くらい前からね、実は連絡が取れてなくて」
「十日……」
マナトが眉を寄せる。
「そんなに前からですか」
「うん」
「なぜ今まで共有されなかったんですか」
静かな声だった。
だが、明らかに責めていた。
レンマは苦笑する。
「俺も一昨日、ヤバいって知ったから」
「一昨日?」
「リュウスケさんに呼ばれた」
マナトの目が変わった。
「リュウスケさんが?」
「うん」
「……リュウスケさんが、自分からですか?」
「そう」
マナトは黙った。
その沈黙だけで、コハルにも何かが伝わったらしい。
「あの……リュウスケさんって、そんなに珍しい人なんですか?」
「珍しいどころじゃないよ」
レンマが答える。
「表に出てこない人。異世界関連の揉め事には基本関わらない。リンカさんが呼んでも普通に断る人。氷塊の勇者って呼ばれてるよ」
コハルが微妙な顔をした。
「なんか、私と同じ感じの人っぽいですね」
「まだ会ってないのに?」
「はい。なんとなく」
レンマは吹き出しそうになった。
やはり、合いそうだ。
マナトは真面目な顔のまま言う。
「リュウスケさんが動いたなら、相当まずいですね」
「そういうこと」
レンマは指を組んだ。
「リンカさんは十日前、リュウスケさんに会ってる。その時に、もし自分と連絡が取れなくなったら動けって頼んだらしい」
「……連絡が取れなくなることを、予想していたということですか?」
「たぶんね」
「東北で何をしていたんですか?」
「それは分からない。リュウスケさんも詳しい場所は知らない」
「知らされていない?」
「うん」
「それで、俺たちを東北へ?」
「そう」
マナトの顔が険しくなる。
コハルは黙って聞いていた。
ただ、膝の上の手は握られている。
レンマはそれを見た。
本当は、言いたくない。
この先の名前を。
けれど、言わないといけない。
「五年前の事件、って言われた」
マナトの顔色が変わった。
「……まさか」
「そのまさか」
レンマは声を落とす。
「月船の探究者が動き出した。例の、最悪の六人組」
コハルは、その名前を知らない。
だが、響きの嫌さは分かったらしい。
「……何ですか、その人たち」
レンマは間を置いた。
さらっと言うべきか。
重く言うべきか。
迷った末に、軽すぎない軽さを選んだ。
「勇者を狙う組織。勇者の身体や力を研究対象として見てる連中。正確に言えば、勇者の身体に宿っている女神の加護が目的だけどね」
「……」
「人を人として扱わないタイプの、かなり嫌な人たち」
「……勇者の身体」
コハルの顔が強張った。
思い出したのだろう。
勇者の血や肉が、魔力を増やすという話を。
マナトが息を吐く。
「コハルさん」
「はい」
「大丈夫ですか」
「……大丈夫ではないですけど」
コハルは正直に答えた。
「でも、聞きます」
その返事に、マナトが黙る。
レンマも目を細めた。
強くなっている。
まだ震える。
まだ怖がる。
でも、聞くことを選べるようになっている。
レンマは続けた。
「五年前、勇者になりたての少女が一人、その組織に狙われた」
コハルの喉が動く。
「その子は、まだ力の扱いに慣れてなかった。現代に戻ってきたばかりで、周囲も警戒が甘かった。そこを突かれた」
「……それで」
「捕まった」
レンマは、言葉を選んだ。
「そして、殺された」
コハルは何も言わなかった。
だが、顔色が悪くなる。
マナトが静かに補足した。
「当時、俺はまだ勇者ではありません。ただ、記録は見ています」
「……記録」
「詳細は、今ここで話す必要はありません」
マナトの声は硬かった。
珍しく、レンマを牽制する目をしている。
レンマは頷いた。
「うん。俺も、そこまで話す気はないよ」
コハルは息を吐いた。
「……つまり、その人たちがまた動き出して、リンカさんがそれを追っていた可能性がある、ってことですか」
「そういうこと。だから、勇者が全員必要」
「……私も?」
その声は小さかった。
マナトがすぐに言う。
「コハルさんは、行く必要ありません」
即答だった。
レンマは苦笑する。
「マナト、言うと思った」
「当然です」
「でも、まだ説明の途中」
「説明されても、俺の意見は変わりません」
「早いなあ」
「コハルさんはまだ巻き込まれたばかりです。能力も安定していない。戦闘経験も少ない。狙われる理由があるなら、なおさら安全圏に置くべきです」
「うん。分かるよ」
「分かっているなら」
「でも」
レンマはコハルを見た。
「俺たちが勝手に決める話じゃない」
マナトが口を閉じる。
コハルは、ゆっくり顔を上げた。
「……本人の意思、ですか」
「そう」
レンマは頷く。
「リュウスケさんも、そう言ってた。無理やり連れてくるつもりはないって」
「リュウスケさんらしいです」
「会社員だから、指示の文言は正確に扱うらしいよ」
「急に会社員……」
コハルの口元が緩んだ。
かなり無理のある表情だったが、それでも空気は軽くなる。
マナトは苦い顔をしている。
レンマは表情を戻した。
「一週間後、迎えが来る手筈になってる。東北で全員合流。詳しい場所はまだ不明。リュウスケさんから後で送られてくる」
「全員ということは、他の勇者も?」
「たぶんね。ジュンタさんとクニヒロさんも来るんじゃないかな」
「……まさに、全員集合ですね」
マナトが眉を寄せる。
コハルがそちらを見る。
「ジュンタさんとクニヒロさんって?」
「残りの勇者のメンバーです」
「強いんですか?」
「強いというより……」
マナトが言葉に迷う。
レンマが代わりに言った。
「この二人はかなりの変わり者だよ。バーサーカーじゃないけど、バトル大好きお兄さんって感じ。勝手に暴れさせるのが賢い使い方かも」
「それは否定しません」
「否定しないんだ」
「ジュンタさんは多少マシですが、クニヒロさんに関しては事実なので」
そのやり取りで空気が緩んだ。
しかし、長くは続かなかった。
コハルがぽつりと言う。
「……リンカさん、生きてますよね」
また、空気が沈む。
レンマは黙った。
マナトも答えない。
簡単に「生きてる」とは言えない。
言いたい。
だが、それは保証ではなく願望だ。
だから、レンマは正直に言った。
「生きてると思う」
「……思う」
「うん。あの人は、そう簡単に死なない。強いし、しぶといし、性格も悪い」
「性格も」
「かなり悪い」
コハルの強張った顔が崩れた。
「でも」
レンマは続ける。
「リンカさんが、万が一の時はリュウスケさんにヘリオス・サービスの副社長を任せるって言ったらしい」
「……副社長?」
コハルが目を丸くした。
マナトも、そこで初めて明らかに驚いた顔をした。
「リュウスケさんにですか?」
「うん」
「リンカさんが?」
「うん」
「……それは」
マナトの声が低くなる。
「かなり悪いですね」
「でしょ」
コハルは困惑していた。
「そんなに大変なことなんですか?」
「大変」
レンマは即答した。
「リンカさんにとって、ヘリオス・サービスはただの会社じゃない。彼女の人生そのものだと言っていい」
「……それを、任せるって言った」
「そう」
「じゃあ、自分が戻れない可能性を、本気で考えてたってことですか」
「たぶん」
コハルは黙った。
膝の上で、指をぎゅっと握る。
「……嫌ですね」
「うん」
「そういうの、すごく嫌です」
「俺も嫌だよ」
レンマは軽く言った。
けれど、声は軽くなりきらなかった。
マナトが静かに言う。
「俺は行きます」
迷いはなかった。
「リンカさんが危険な状態なら、行かない理由がありません」
「会社は?」
「調整します」
「できるの?」
「俺は勇者です。それに、福岡に二週間も行ったんです。多少の融通は利かせてもらいます」
「そっか。なら、コハルちゃんも勇者だよ」
「コハルさんは、まだ――」
「マナトさん」
コハルが遮った。
マナトが口を閉じる。
「守ってくれようとしてるのは、分かります」
「……」
「それは、分かるんですけど」
コハルは息を吸った。
「私、何も知らないまま守られるのは、嫌です」
マナトの表情が固まる。
レンマは何も言わなかった。
「行きたいかって聞かれたら、行きたくないです」
コハルは正直に言う。
「怖いです。会社もあるし、普通に困ります。東北とか急に言われても、何を持っていけばいいのか分からないし。戦える自信もありません。皆さんの足を引っ張るかもしれません」
「……」
「でも」
コハルは顔を上げた。
「私が狙われる理由があるなら、逃げてても安全じゃないですよね」
マナトの目が揺れる。
「それは……」
「あと、リンカさんが危ないかもしれないんですよね」
「……はい」
「なら、何も聞かなかったことにはできないです」
声は震えていた。
けれど、言葉は逃げていなかった。
レンマは、心の中で息を吐く。
(やっぱり、こういう子なんだよな)
巻き込まれたくない。
普通でいたい。
怖い。
嫌だ。
でも、必要なら動く。
リュウスケと似ている。
本人たちは否定するだろうが、根っこが似ている。
マナトは、しばらく黙っていた。
それから、低く言う。
「……俺は、反対です」
「はい」
「でも、コハルさんが行くと決めるなら、俺は全力で守ります」
「……はい」
「ただし、一人で勝手に動かないでください」
「はい」
「俺の目の届かない場所に行かないでください」
「はい」
「危険だと判断したら、俺の指示に従ってください」
「はい」
「あと、無理をしたら怒ります」
「そこはいつも通りですね……」
コハルは表情を和らげたが、マナトは真顔だった。
「いつも通りです」
レンマは、息を抜くように肩を落とした。
「じゃあ、決まりかな」
コハルは迷ったあと、頷いた。
「……行きます」
小さい声だった。
でも、はっきりしていた。
レンマは頷く。
「分かった。じゃあ、一週間で準備。仕事の調整。荷物。連絡先の整理。万が一の時の共有。あと、コハルちゃんはカイリくんにも連絡しておいた方がいい」
「カイリさんにも?」
「うん。結界の調整とか、持っていける護符とかあるかもしれないし」
「分かりました」
「あと、マナト」
「はい」
「コハルちゃんに、怖い言い方しすぎないでね」
「……必要最低限にします」
「それ、する気ない人の返事だよ」
「善処します」
「本当に?」
コハルが二人のやり取りを見て、ようやく笑った。
レンマは、その顔を見て胸が痛んだ。
この笑顔を守りたい。
そう思った。
同時に、この子を戦場に連れていくのかとも思った。
正解はない。
連れて行けば、危険に晒す。
置いていけば、何も知らない場所で狙われるかもしれない。
そして何より、本人の意思を奪うことになる。
レンマは、カップの中の冷めたコーヒーを見た。
平和な日曜のカフェ。
隣の席では、学生らしき二人が課題の話をしている。
店員は穏やかな声で注文を取っている。
窓の外では、家族連れが歩いている。
その中で、自分たちは東北へ行く話をしている。
五年前の亡霊を追う話をしている。
死ぬかもしれない準備の話をしている。
(ほんと、嫌になるな)
でも。
行かないと、もっと嫌なことになる。
レンマは顔を上げた。
「じゃあ、改めて共有するね」
マナトとコハルが、こちらを見る。
「一週間後、俺たちは東北へ行く」
言葉にすると、もう戻れない感じがした。
「目的は、リンカさんの捜索。月船の探究者の動向確認。必要なら、交戦」
コハルが息を呑む。
マナトは静かに頷いた。
「そして、できれば」
レンマは口角を上げた。
「全員で帰ってくる」
コハルは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく頷く。
「……はい」
マナトも言う。
「当然です」
「うん」
レンマは頷いた。
当然。
そう言えるのは、正直羨ましい。
だが今は、そのくらい強く言っていいのかもしれない。
五年前の亡霊が、また動き出した。
リンカは消えた。
リュウスケは表に出てきた。
マナトは行くと決めた。
コハルも、自分の意思で頷いた。
もう、日常は動き始めている。
静かに。
けれど、確実に。
終わりへではなく。
戦いの方へ。




