入り口の酒
《灰樽亭》の前の路地は、夜の湿気と安酒の匂いでぬめるように満ちていた。
中へ入っていったテオとソフィアの背を見送った後も、レンはしばらく暖簾の揺れから目を離せなかった。
「さて」
セリーナが静かに言った。
月明かりの下でも、その横顔は妙に冷えて見える。
「ここから先、何が起こるか。一端の情報屋なら、もう少しまともな答えを出せるでしょう?」
その問いを向けられたシオンは、本当に借りてきた猫のように固まっていた。さっきまでの軽口はどこへ行ったのか、背筋まで妙に伸びている。
「ええと……その、はい。たぶん、ですけど」
「“たぶん”はいらないわ。見えているものだけでいいから言いなさい」
シオンは小さく喉を鳴らした。
「この店、表向きはただの安酒場です。でも、最近消えた人間の知人から話を拾うと、ここに通っていた名前が何度か出てきます。だから……入口、なんじゃないかと」
「入口」
セリーナはその言葉を繰り返しただけだった。
驚きも、感心もない。ただ確認を取っているだけの声音だった。
レンは横目でその様子を見た。
やはりだ、と思う。シオンの説明を聞いても、セリーナはほとんど反応しない。既にかなりの部分を知っていて、抜けている箇所だけ埋めている顔だった。
「神隠しの線とも繋がってるのか?」
レンが低く聞くと、セリーナは少しだけ視線を動かした。
「繋がっているわ。この店が直接、というわけではないでしょうけど」
「じゃあ全部わかってるのか?」
「全部ではないわ」
そこは即答だった。
「この店が神隠しと粉に関係していること。ここが選別か受け渡しの入口であること。それは把握している。でも、高い方の白い粉の正体も、消えた者たちの最終的な行き先も、まだ確定していない」
「だから現場を見る、と」
「ええ」
シオンが、恐る恐る口を挟む。
「でも、そこまでわかってるなら、なんでわざわざここまで?」
セリーナはその問いに、少しだけ考えるような間を置いた。
「そうね。気になる動きをしている方がいて。少しだけ、その行き先を見ておきたかったの」
シオンはわかったような、わからないような顔をした。
レンだけが、妙に嫌な納得をした。
(「方」・・・俺の動きが気になったか)
セリーナが敬語を使う相手はほとんどいない。
「活性水も、高い粉も、別に王国で禁制ってわけじゃないんですよね?」
シオンはさらに続ける。
「そこまで大事になる理由が、いまいち見えないのですが」
「粉そのものだけなら薄いわね」
セリーナはあっさり答えた。
「ただ、連邦から流通停止の強い要請が来ているの」
それだけ言うと、彼女はもう話は終わりとでも言いたげに《灰樽亭》へ目を戻した。
「連邦から・・・?」
その頃、店の中ではテオとソフィアが、ぎこちないまま席についていた。
「……何飲む?」
テオが小声で聞く。
「そうね。せっかくなら、聞き慣れないものを頼みましょう」
壁に貼られたメニューには、ザヴィルではあまり見ない酒の名がいくつも並んでいた。連邦風の甘い酒、香草を混ぜた蒸留酒、強い苦味のある濁酒。ソフィアは店員を呼び、適当にいくつか注文する。
「ずいぶん挑戦的だねえ、お二人さん」
店員が笑う。
「聞いたことないのを頼んでみたくて」
ソフィアが曖昧に返す。横でテオはできるだけ口を開かないようにしていた。喋ると、恋人というより緊張した新兵みたいになる自覚があったからだ。
酒が運ばれてくる。
甘いもの、苦いもの、強いもの。二人は少しずつ口をつけながら、店の空気を探った。
客層は普通だ。仕事帰りの労働者、若い冒険者、日雇い風の男たち。笑いながら飲んで喋っている。
そして、三杯目だった。
店員が「こっちもおすすめだよ」と出してきた、少し甘く、香りの強い酒を口にした瞬間、ソフィアの表情が変わった。
「……これ」
「どうした?」
「似てる」
「何に?」
「活性水」
テオも少し飲んでみて、目を瞬かせた。
「あ、本当だ。昨日飲んだやつにちょっと似てる。疲れが少し軽くなる感じ」
「ええ。ただ、あれより薄い。酒に混ぜてあるのかもしれない」
つまり、この店では活性水そのもの、あるいはそれに近いものが、酒の一種として自然に流れていることになる。
ふと見渡すと常連らしき客に、大きな徳利が運ばれていた。
「あれ、メニューにないよな」
テオが小さく言う。
店の奥の棚から出されたそれは、明らかに特別扱いの酒だった。量も多く、器も少し良い。店員は慣れた手つきで、それを特定の客にだけ出している。
「常連専用って感じね」
ソフィアが言う。
「ねえ、あの酒何?」
ソフィアが店員に話しかける。
「ああ、あれは常連にだけ出している酒だよ。数がなくてね。限定にさせてもらっているんだ」
「へえ、そんな美味しいの?なんていうお酒」
「”マスジャ”だよ。と言ってもウチで名付けただけだけどね。混ぜているんだけど調合が難しくてね。味は保証する!」
「この酒より美味しいのか?」
テオが活性水を感じさせる酒を指す。
「ああ、それ気に入った?もっと美味しいと思うよ。というかそれをもっと味にこだわったやつだね」
「こだわった?」
「そうそう。それ、ちょっと疲れ取れる感じだろ?ただ薬っぽくなりがちでね。よりおいしくするようにブレンドしたんだ」
二人は顔を見合わせた。活性水らしき効能を持つ酒。さらに、常連専用の“大酒”。
ただ疲れが取れる、という発言からすると活性水が混ざっているのは違いなさそうだ。
しばらくして、テオとソフィアは会計を済ませて外へ出た。
「で?」
路地に出た瞬間、レンが聞いた。
ソフィアがすぐに答える。
「活性水みたいな効能がある酒があったわ。かなり自然に混ざってる」
「それだけじゃない」
テオも続ける。
「常連向けの、大きい徳利の酒がある。メニューには出てないがその酒をより混ぜているらしい」
「ちょっと疲れ取れる感じだろ、と店員は言ってたわ」
セリーナは静かに頷いた。
「十分ね」
レンは少しだけ眉をひそめた。
「もう少し見た方がいいんじゃないか?裏へ回る客を追うとか――」
「必要ないわ」
「活性水の流れは確認した。後は押さえるだけよ」
テオが思わず口を挟む。
「押さえるって、今から?」
「今から」
セリーナは当然のように言った。
レンは一瞬だけ黙った。
「騒動にならないか・・・?中は普通の客でいっぱいだぞ」
テオが聞くと、セリーナは冷たく答えた。
「活性水があるだけで十分よ」
「でも、正式に動くには――」
「何か言われたら、私の指示だと言えばいいわ」
あまりにも簡単な答えだった。
「付いてきなさい」
セリーナはもう決めていた。
すぐに役割が振られる。
「二人は逃げ道を押さえなさい。表口と裏口、路地の分岐。誰も逃がさないこと」
「は、はい!」
二人は反射的に返事をした。
「情報屋。中の構造は?」
「だいたいなら……」
「案内しなさい」
「はい」
借りてきた猫のまま、シオンはうなずく。
「貴方は」
セリーナが呼ぶ。
「貴方は一緒に来なさい」
レンは小さく息を吐いた。
入口を見つけた時点で、セリーナの中ではもう終わっていたのだ。自分たちが“普通の冒険者らしく”探っていた時間は、彼女にとっては最後の答え合わせに過ぎない。
テオとソフィアが持ち場へ走る。
シオンは嫌そうな顔のまま、店の脇の細い通路を指さした。
レンは、その背中と《灰樽亭》の看板を見比べる。
ただの安酒場に見えた場所が、今はもう別の顔をしていた。
セリーナは迷わず歩き出す。




