失っていく記憶
もしかしたら、いま目の前の光景は全て夢なのかもしれない。
そんな現実を呼び起こす思考を無理やりに振り払い、母と一分一秒でも長く過ごせればよかった。できればこのまま……という考えが芽生えないはずもなく、親子の水入らずの時間はヨムカにとって至福なものだった。
「お母さん。お父さんはいつ帰ってくるの?」
「そうねぇ。もうじきかしらね」
母は時計を確認して答える。
「どう、クッキー美味しい?」
「うん、とても。お母さんの作るクッキーが、一日で何よりの楽しみだったから……また食べられて……その、嬉しいよ」
「お母さんも嬉しいわ。でも、本当にごめんなさい。貴女にはひどく辛い思いをさせてしまって……」
「もう、気にしなくていいって。私は、今こうしてお母さんと過ごせてるだけで幸せだから」
頬が熱く赤くなっていくのを感じると、照れ隠しのように視線を窓の外へ向ける。
緑豊かな自然が広がっている。
「おーい、ただいまぁ」
玄関から男性の声がリビングに届く。
これもまた懐かしく優しい声音。
「おかえりなさい、貴方。ヨムカが来てるわよ」
「えっ!? それは、本当かい!」
ドタバタと忙しない足音を響かせてリビングに躍り出た男性。
「お父さん……」
「あ、ああ……ヨムカ。どうして、どうして……」
威厳なんてこれっぽっちも持ち合わせていない優しい顔付きの父は、その眼にいっぱいの涙を溢れさせいた。今にも抱きしめに飛び掛かりそうな彼の表情を察した母が、まずは風呂に入るよう諭す。
「ふふ、お父さんもヨムカの事が大好きなのよ。次はお父さんといっぱいお話ししてあげて、ね?」
「うん!」
「ただいまっ!!」
烏の行水みたいな早さだった。髪も乾ききっておらず、彼の歩んだ跡には水滴が飛び散っている。それほどまでにヨムカとの邂逅が嬉しかったのだろう。
「ほら、貴方。ちゃんと水気を取らないと風邪を引くわ」
手のかかる子供のように、母が父の髪をタオルで拭き取る微笑ましい光景は、ヨムカの心の内を温かくして、笑みがこぼれる。
「それはそうと、ヨムカはどうやってここに来たんだい?」
「ここに……? あれ、どうやって来たんだっけ。そもそも、私は今まで何処にいたんだろう」
顎に指を這わせて深く考え込むヨムカだったが、思い出せないならそれでいいかと、父の胸に駆け寄り抱き着いた。力強く、もう離したくない、もう離さないで欲しい……ヨムカの気持ちを察してか、父親も優しく、そしてもう離さないよと抱きしめ返す。
「思い出せないなら、それでもいいだろう。ゆっくりと思い出せばいいさ。それより僕はお腹が空いちゃったよ」
「ふふ、お仕事お疲れさまでした。直ぐ夕飯にしますね。ヨムカ、昔みたいに手伝ってくれる?」
「あっ、手伝う! なにをすればいいの」
「そうねぇ、じゃあ野菜を一口サイズに切ていってくれるかしら」
台所の加護の中には色とりどりの野菜がある。その一つを取り出しまじまじと見つめていると……。
「もう、ツナパンだけの生活じゃないんだ……ツナパン? なんだっけ?」
「ヨムカ、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
愛する妻と娘の後ろ姿を満足そうに眺める父親は、嬉しそうではあるが、何処か少しだけ寂しそうにしていた。
こんばんは、上月です(*'▽')
親子水入らずの時間を過ごすヨムカは、元居た世界の記憶が少しずつ失われていく。このまま全ての記憶を失い、濃霧の世界に囚われるのか……。
次回の投稿も明日の夜になります!




