呪歌使い戦記第六十八話
客間のドアを開けようとした瞬間。内開きのドアが急に開いて、ドアノブを掴もうとした指先が空を切った。僕と先生に宛がわれた客間、こんな時間に内側からドアを開ける人なんて一人しかいない。僕が部屋を出る前はぐっすり眠っていたではないか。目が覚めて僕がいないからと探しに出ようとしたのだろうか。それにしては、やけに呼吸が急いているような……?
「……お前……何処に……行って……」
「え……っと……」
先生の目が赤く充血している。酷く取り乱した時のように呼吸が荒い。いつもと違う様子に気圧されてしどろもどろになっていると、怪我をして動かないはずの左手で強引に腕を掴まれて引き寄せられる。何。僕が部屋を離れている間に、先生に何があったと言うの。
「おま……お前がいないから……ま、また失敗したのかと……。嫌……嫌だ……あんな地獄……やっと……やっと……!」
強い恐怖を前にして震えるような声に喉が詰まる。失敗、地獄。そうだ、眠っていた先生からすれば、僕は何も言わずに部屋から消えた。それが、……それも当たり前か。戦場から帰ってきて、僕が客間にいないのは、先生が悪魔の禁忌に触れる直前のこと。先生がここまで取り乱すなんて当たり前なのだ。先生に黙って部屋を抜け出した僕が悪いのだ。
「魔法使い殿、そうご心配召されるな。私めが眠れぬと言う弟子殿をお借りしただけにございます」
「ごめんなさい、先生。何も言わずに独りにしてしまって」
銀の将軍に目配せをすれば僕の言いたいことを察してくれたのか、無言のうちに部屋を後にした。
「嫌……嫌……プイス……僕を独りにしないで……、何処にも行かないで……」
泣いて縋る背中を撫でる。
「大丈夫ですよ。もう何も言わず先生の目の届かないところに行ったりしませんから……」
細く薄い体を抱き上げてベッドへ連れ戻す。いつからだろう、こうして先生を抱きかかえられるようになったのは。十年前は、僕が弟子になったばかりの頃は僕の方が抱き上げられていたのにな。
「プイス……嫌だ……。お前までいなくならないで……。お願い……」
布団の中、涙と共に漏れ出す懇願にどう答えるべきか。そんなもの、わかりきっている。
軽く触れるだけの口づけを一度だけ、額に落とす。相手に幸せのあるように、神の祝福があるように、願いを込めた口づけ。僕がいた孤児院の神父様やシスター達からも、宿場街のカーティスさんやハーゼルからも、そしてほかならぬ先生からも。ここに至るまで、たくさんの人から額への口づけをもらってきた。……今度は、僕の番。今度は僕が、先生に祝福の口づけを贈る側にならなくてはいけない。
「……プイス……」
僕の胸に縋り付いてくる先生を抱きしめる。二度と離さない、離れない。それが伝わるようにきつく、強く。
「……へへ……。苦しいよ……」
へにゃりと笑った目元の涙をぬぐう。
「先生、ごめんなさい。独りにしてしまって。びっくりしましたよね、目が覚めたら隣にいたはずの僕がいないんだから」
「……うん……。夢だったのかなって、プイスと一緒にここに帰ってきたのが夢で、本当は帰ってきたのは僕一人で、また失敗したんじゃないかって……」
「僕はここにいます。大丈夫、僕達は二人揃って生きて帰って来たんです。あの地獄は、悪魔がもたらした地獄は終わりました。僕達はもう、あの戦場に立たなくていいんです」
「……そっか、そっかぁ……。じゃあ、僕達の家に帰れるんだね。二人であのおうちに帰れるんだね」
「ええ。僕達、あの赤レンガの家に帰れるんです。家に帰ったら、何をしましょうか。僕はまず掃除をして……」
「掃除なんかいらない。僕はプイスさえいればそれでいい」
「帰ったらきっと埃まみれですよ。先生の咳に障りますから、僕は帰ったら真っ先に掃除がしたいです」
「じゃあ、僕も一緒にやる。おんなじ部屋で、一緒にお掃除しよ?」
「そうですね。……そろそろ寝ましょう。おうちに帰る前に、やらなくちゃいけないことがたくさんありますから」
「ね、お願い。明日も僕と一緒にいて」
「もちろんですとも。先生を独りになんかさせませんから」
「約束、約束だよ?」
「ええ、約束です」
もう一度強く抱きしめあって、お互いの腕の中で目を閉じる。先生のために子守唄を歌ったら、もう一つのテノールとハーモニーになった。先生のテノールだ。僕の腕の中でくぐもったテノールが、僕の意識を揺れる小舟に乗せる。何回と、何十回と、何百回と聞いて来た先生の子守唄、その効果は身に染みてわかっている。先生には、どうあがいたって敵わないのだろうな。僕が今の先生の年齢になっても、どれほど年を重ねても、先生に敵うことはないのだろうな。結局最後まで歌いきれなかった子守唄、優しい歌声と触れ合う体温の中眠りの大海へと小舟を漕ぎ出した。
翌朝、アスチルベが朝食を持ってきたノックの音で目が覚めた。目を開ければ、ゆうべ抱きしめあった格好のまま先生が眠っていた。穏やかに、幸せそうに眠っていた。
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