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第五十三話 忘却の世界 Ⅳ

「⋯⋯⋯んで、俺の部屋でお前らは何やってんだ」


 昼間の出来事から時間が流れ、今は夜の闇を月明かりが照らしている。

 苛立ちを隠さないクリスが、自らの部屋を我が物顔で占領するレイナとヴィヴィアンヌを見て、心底面倒くさ気に溜め息を吐いた。

 彼らがいるブラド公国の宮殿には、帝国国防軍幹部用に寝室が用意されている。当然ながら、レイナやヴィヴィアンヌにはそれぞれの寝室が用意されているが、今夜はクリスの部屋に揃って押しかけた。

 蝋燭の明かりに照らされた部屋に入るなり、レイナは室内の物色して食べ物や飲み物を探し、ヴィヴィアンヌはグラスなどを準備し始めた。ここで飲み会でも始める気なのは明白だったが、クリスの立場からすれば、「勝手に人の部屋を酒場に変えるな」という気持ちだった。


「破廉恥剣士、食べる物が何もないぞ。あと酒が足りない」

「同志、酒の肴は私に任せろ。この男は期待できんから、塩茹でした豆を用意しておいた」

「人の部屋でもお構いなしか!? 勝手に酒瓶出すんじゃねぇよ! それ俺の酒だぞ!」

「どうせ、何処からくすねてきたものだろう? お前のものじゃないから私にも飲む権利があるはずだ」

「流石は同志、見事な観察眼だ」

「槍女に甘過ぎだろ!? こいつのやること全部肯定するんじゃねぇ!」


 レイナが勝手に持ち出したのは、クリスが自室で飲むために用意している蒸留酒であった。北方で手に入る上物で、宮殿の酒蔵からこっそり拝借していた物である。

 ヴィヴィアンヌは寝室のテーブルにグラスを二個並べ、布に包んできた塩茹での豆を盛り付ける。用意されたグラスにレイナが蒸留酒を注ぎ、一個は自分が持って、もう片方のグラスはクリスへと手渡した。ヴィヴィアンヌは酒を飲まないらしく、準備を終えた彼女は、ソファに腰を下ろしたレイナの傍に座った。

 クリスもまた、彼女達の向かい側のソファに座る。この寝室は一番広く、宮殿の主が愛人などを連れ込む部屋だったという。そのせいで部屋には大きなベッドの他に、客間のように一通りの家具が揃っていた。知っている者が今の光景を見たら、クリスが彼女達を連れ込んだと誤解されるだろう。

 テーブルを挟んでグラス片手に、大体の察しが付いたクリスが、突然部屋に押しかけてきた彼女達を睨む。どちらが話しを切り出すか、一瞬彼女達が目を合わせたが、話を始めたのはレイナだった。


「⋯⋯⋯話したいのは、アングハルトのことだ」

「ちっ⋯⋯、そんなことだろうと思ったぜ」


 セリーヌ・アングハルトの戦死。それがヴァスティナ帝国に与えた衝撃は、想像を絶するものだった。

 帝国国防軍最強の戦力、第一戦闘団の指揮官であり、一騎当千の女兵士。これまで数々の激戦を生き残り、倒した敵の数は帝国随一の存在だった。軍神と呼ばれているレイナや、帝国最強の剣士であるクリスも、彼女には一目置いていた程である。

 アングハルト戦死の報を受け、大勢の者達が深い悲しみに暮れた。第一戦闘団の兵は皆涙し、泣きながら彼女の死を悼んだ。仲間だったイヴやシャランドラ、ゴリオンやライガも彼女の死に涙を流して、二度と会えない彼女の思い出を胸に抱き、泣き崩れた。

 彼女は自らの命を犠牲にして、愛する者のために戦い、壮絶な最期を遂げた。その後はジエーデル軍との戦いや、リックの記憶喪失による混乱などで、彼女の事についてゆっくり話せる時間がなかった。今夜は、リックのために命を捧げた、戦友であるアングハルトの死を弔おうと、クリスのもとにやって来たのだ。


「⋯⋯⋯やっぱり、リックに付いていけばよかったとか、そう思って後悔してんじゃねぇだろうな?」

「違う⋯⋯⋯。もし私が後悔したら、それはアングハルトを侮辱することになる」


 クリスの予想は外れ、レイナは首を振って否定する。少しは成長したなと思ったクリスは、少しだけ表情を和らげてレイナを見つめ、以前までの彼女の事を思い出していた。


(前までのこいつなら、いつまでも情けない面で後悔ばっかしてたな)


 アングハルトは強かった。レイナやクリスも認める強さを持っていた。そんな彼女だったからこそ、重傷を負いながらもリックの命は救われたのである。もしここでそれが誤りだったと言えば、それは勇敢に戦ったアングハルトへの侮辱以外の何物でもない。

 少なくとも、以前までのレイナだったら、何もできなかった己の無力さに後悔していた。彼女もまた成長していると知ったクリスは、ずっと気になっていた戦闘の詳しい話を聞こうと、今度はヴィヴィアンヌへと視線を向ける。


「眼帯女。どうせお前のことだから、大体の戦闘の様子は調べてあんだろ?」

「当然だ。戦闘が行われた村で死体を回収した結果だが、アングハルト達が戦ったのは、元アーレンツ国家保安情報局のミッターと、ジエーデル軍カラミティルナ隊の問題児共と見て間違いない」

「問題児とは?」

「特殊魔法兵部隊カラミティルナの中でも、命令不服従かつ危険な能力を持つ異常者達だ。現地の状態で分かったのは、アングハルトが交戦した敵は、カラミティルナ隊最強と言われた、不死身のギャビットという女だったことだ」


 ヴィヴィアンヌは配下の親衛隊と共に、戦闘が行われた現地の調査を完了し終えている。回収された死体や遺品、戦闘による村の損害などから、あの地で一体どんな戦闘があったのか、情報をまとめて分析していたのである。

 ギャビットの名を聞いても、レイナとクリスには身に覚えのない名だった。二人が知らないと思い、ヴィヴィアンヌはそれも含めて詳しい話を始めた。


「ジエーデル国から取り寄せた情報によれば、ギャビットは特殊魔法を三つも操り、肉体の超回復能力を持つ不死に近い存在だった。更に奴は、同志やレッドフォードが倒したフェイロンとユーシュエンの弟子で、二人が操る波導神拳伝承者にはなれなかったものの、格闘戦でも圧倒的な力を持っていたようだ」

「私達が戦ったあの二人に、そんな弟子がいたなんて⋯⋯⋯」

「ジジババ共は相当強かったからな。その弟子でおまけに不死とか、どうやってぶっ殺したってんだ?」

「色々試したようだが、最終的には爆発物で頭を吹き飛ばした。アングハルト自身も、そこで相当な深手を負ったらしい⋯⋯⋯」


 ヴィヴィアンヌはそれ以上続けなかったが、深手を負ったアングハルトがその時点で、自らの死を悟っていたのは、レイナとクリスにも想像できた。

 消えゆく最後の命を振り絞り、傷付いたその身を引き摺って、リックのもとへと向かったのだ。


「閣下はミッターと、チャムという名の召喚魔法で怪物を生み出す子供と戦った。ミッターの魔法のことは、戦ったことのある同志がよく知る通りだ」

「アーレンツで討ち損じた敵⋯⋯⋯。狙いは私や閣下への復讐か」

「だろうな。奴のせいで閣下の居場所も看破されてしまった。狡猾な奴のことだから、閣下が精神操作魔法を受けたのは間違いない。殺される寸前だった閣下のもとにアングハルトは現れ、恐らくはチャムの怪物との相打ちを狙い、閣下を庇って爆死した。これがあの村で行われた戦闘だ」


 レイナに後悔があるとするならば、アーレンツで戦ったミッターを討てなかった事だろう。あの戦いでミッターを殺していれば、リックが記憶を失う事はなく、襲撃自体がなかったかもしれないからだ。

 あの時の自分をレイナは責めるが、クリス達に彼女を責める事は出来ない。アーレンツで逃がした男が残党となって、ジエーデル軍の暗殺部隊となって襲ってくるなど、想定できる事ではないのだ。

 

「⋯⋯⋯同志、あまり自分を責めるな。危険だと知りながら、奴を野放しにしていた私にこそ責がある」

「ヴィヴィアンヌの方こそ自分を責めるな。こんな結果は、誰にも予想なんてできなかった」

「だが⋯⋯⋯」

「寧ろ誰かを責めるのではなく、誰にも予測できなかった襲撃の中で、閣下を守り抜いたアングハルト達を称えるべきだ。それよりも私は、彼女のことで一つだけ気がかりなことがある」


 手に持つグラス酒を見つめ、レイナは一人思い悩む。こんな話、リックの記憶が戻らなければ分からない事だと理解しながらも、彼女は確かめたかった。


「アングハルトは⋯⋯、閣下にちゃんと想いを告げられたのかと⋯⋯⋯。そう思うと、私は⋯⋯⋯」

「はんっ! なんだお前、そんなこと心配してんのかよ」


 悩み続けるレイナに、不安など一切感じさせないクリスの瞳が向けられる。驚くレイナが見ると、クリスは当たり前の事でも言うかのように言葉を続ける。


「あの純愛全開の恋愛脳な恋文女が、死ぬ前に想いを伝えないわけねぇだろ。そんな女だからリックに直接ラブレターを叩き付けに来れたんだろうが」


 誰よりも愛に生き、愛に殉じた彼女が、自らの想いを告げずに死ぬわけがない。そう断言するクリスの言葉が、レイナの心配を吹き飛ばす。

 きっと彼女は、クリスが言う通り想いを告げて、愛する男を守って死んだ。それがセリーヌ・アングハルトという女だと、自分達はよく知っている。そんな悩みは杞憂であり、自分達が心配する事ではないのだ。

 クリスのお陰で心配がなくなったレイナに、自然と微笑が浮かぶ。安心した彼女の心は晴れ、仕返しとばかりに言葉を返した。


「⋯⋯⋯こういう時だけは的を射たことを言う。その不埒な口の悪ささえ何とかなれば、ほんの少しだけ褒めてやらなくもない」

「そう言ってやるな同志。この男の粗野は今に始まったことではない。これはどうしようもない不治の病だ。一度死ななければ治らん」

「ちっ、好き勝手言いやがる。人の部屋のもの勝手に掻っ払ったくせに、生意気な文句垂れやがって」


 アングハルトがリックに想いを告げ、それがどんな結果に終わったのかまでは、リックの記憶が戻るまでは誰にも分からない。ただ、リックの事をよく分かっているレイナ達からすれば、彼がどんな反応をしたのか見当は付いている。

 きっとアングハルトは、幸せに満ちた心のまま、愛するリックのために死ねた。ならば彼女のためにしてやれる事は、彼女の命を奪った者達への復讐ではなく、彼女が命を賭して守ったリックを、今度は自分達が守る事だ。


「話は終わりか? だったらもう飲んじまうぞ」

「待て破廉恥剣士。最初は乾杯からと決まっている」

「同志の言う通りだ。やはり、今夜は私も一杯貰おう」


 軍人気質で真面目なヴィヴィアンヌの事だから、明日の軍務を考えて酒を控えようとしている。彼女が自分のグラスを用意していなかったのは、そんなところだろうとクリスは考えていた。しかしレイナは、気が変わって酒を飲むと言い出したヴィヴィアンヌに驚き、不安気な目で準備を始める彼女を見ていた。


「ヴィヴィアンヌ⋯⋯⋯。やっぱり、やめておいた方が⋯⋯⋯」 

「案ずるな同志。一杯だけだ」

「一杯だけと言っても⋯⋯⋯」

「今宵はアングハルトを弔う場。我々は彼女の意志を引き継ぎ、これからは彼女の想いも胸に戦うのだ」


 レイナは止めようとするが、酒を注いだグラスをヴィヴィアンヌが掲げ、乾杯の合図を待つ。まだ不安に駆られながらも、仕方なくレイナもグラスを掲げる。何をそんなに心配しているのか、理由はクリスにも見当が付かなかったが、ヴィヴィアンヌの想いには賛成であるため、彼もまたグラスを掲げた。

 三つのグラスが用意され、三人は脳裏にアングハルトを思い浮かべる。彼女に安らかな眠りがあらんことを祈り、代表してヴィヴィアンヌが音頭を取った。


「我らが戦友とも、アングハルトに」

「「アングハルトに」」


 三つのグラスが触れ合って、甲高い音だけが静かな寝室に鳴り響く。三人は同時にグラスに口を付け、中の蒸留酒を煽った。

 少し口に含むだけで喉が熱くなり、身体が温かくなる感覚を覚える。度数が高いこれを三人ともストレートでいったが、上物なだけあって口当たりはよく、この酒を初めて飲んだレイナなど、幸せそうに熱い吐息を漏らしていた。


「⋯⋯⋯っ!」


 それは突然だった。突然何かがテーブルに倒れた衝撃音が聞こえたかと思えば、何とあのヴィヴィアンヌがテーブルに突っ伏して、ピクリとも動かなくなっていたのである。

 

「なっ、なんだおい! いきなりどうしたってんだ!?」

「はあ⋯⋯⋯、だから止めたのに⋯⋯⋯」

「どういうことだって⋯⋯⋯、おいまさか⋯⋯⋯!?」

「そう、ヴィヴィアンヌは下戸なんだ。しかも重度の⋯⋯⋯」


 まさかあの、最強無敵天下無双一騎当千なヴィヴィアンヌに、こんな弱点があったなど一体誰に想像できようか。グラスの酒だって、まだ一口しか飲んでいないのにである。倒れた本人は完全に気を失っており、目覚める気配は一切なかった。


「こうなると朝まで目を覚まさない。破廉恥剣士、ベッドを借りるぞ」

「お前、こいつが飲めないっていつ知ったんだよ」

「⋯⋯⋯前にヴィヴィアンヌと二人きりだった時、果汁と間違って果実酒を渡してしまってな。後で聞いたら酒が苦手なんだと教えてくれたんだ」

「果実酒でぶっ倒れるような奴がこんなもん飲むなよ! こいつ実は阿保なんじゃねぇのか!?」

「どうも本人は、飲んで倒れると記憶が半分飛んでいるらしいんだ。酒を飲んで倒れたことは憶えていても、どれだけ自分が酒に弱いかは忘れてしまうらしい」


 そんな馬鹿なと思いながら、改めて倒れたヴィヴィアンヌを見るクリスだったが、完全に気絶しているのを確認すると、深い溜息しか出てこなかった。

 言われてみれば確かに、今までヴィヴィアンヌが酒を飲んでいる姿を見た事がない。宴の席でも水しか飲んでおらず、てっきり軍務の事を気にしてなのかと思っていた。

 酒に倒れたヴィヴィアンヌをそのままにしておけず、レイナは眠る彼女の身を抱きかかえ、一先ずクリスのベッドに寝かせて毛布を掛ける。


「⋯⋯⋯寝込みを襲うなよ」

「襲わねぇよ!! 俺をなんだと思ってんだ!?」

「前に私の寝込みを襲おうとした」

「あれは誤解だって言ってんだろうが! いい加減忘れろ!」

「お前は信用できない。手を出させないように、今夜はヴィヴィアンヌと一緒に寝る」

「ふざけんな! そこは俺のベッドだぞ!」


 自分のベッドを占領され、寝床を失ったクリス。当然ながら怒る彼に、レイナは人差し指でソファと床を指差した。


「ソファか床。好きな方を選べ」

「ああああああくそおおおおおおおおっ!! もう二度と絶対お前らを部屋に入れたりしねぇからな!!」


 運が無いのか、それとも日頃の行ないが悪いせいか。

 何れにしてもクリスは諦める他なく、毎度お馴染みになりつつある誓いを立て、結局ソファで寝るしかなかったのである。










 同じ頃、リック専用に用意された寝室では、リリカが彼を寝台に寝かせている最中であった。

 昼間は元気であったリックだが、疲れが出たのか、それとも精神的な疲労のせいか、いつもの後遺症に体調を崩してしまった。リリカは熱に倒れたリックを看病し、薬を飲ませ、彼を休ませるべく眠らせようとしている。昼間と変わらず、リックの傍には常にリリカが付いていた。

 

「⋯⋯⋯リリカさん、すみません」

「気にしなくていいよ。自分の身を労わることだけを考えなさい」


 熱で頬を少し赤くしたリックが、身体を蝕む後遺症に苦しみながらも、リリカへと微笑を浮かべる。その微笑は、世話を焼いてくれる彼女への申し訳なさと、彼女を安心させるためのものであった。

 今のリックは、自分が何故苦しんでいるのか、その理由を知らない。ヴィヴィアンヌを救うため命懸けで戦った、死闘の末の代償である事も、今は忘れてしまっている。


「まだ怪我が治り切っていないのに、少し燥ぎ過ぎたせいだね。一晩ぐっすり眠れば熱も引くから、安心なさい」

「はい⋯⋯⋯。リリカさん、出来れば明日も⋯⋯⋯」

「花を見に行きたいんだろう? 明日はお茶用にケーキも焼いてあげるよ」


 母親のように慈愛を込めた優しい言葉。リリカの言葉を聞いたリックは、嬉しそうに微笑んで答える。

 記憶を失い、普段の人格までも変わってしまったリックは、本来彼自身が持っている優しさと純粋さだけが残り、他は失われてしまった。その結果、今のリックは子供に戻ってしまったような、純粋無垢で優しい人間と変わった。

 故に彼は、何もかも憶えていない不安と恐怖に駆られ、誰にも理解されない苦しみに一人襲われている中、自分を守り、優しさの温もりで抱いてくれるリリカだけを、唯一信頼している。だからこそ、子供が自分の母親に甘える様に、今のリックはリリカに甘えてしまうのだ。


「それにしても、リックは花が好きだね。宮殿に咲いている花なんて、もう見飽きてしまったろうに」

「⋯⋯⋯花を見てると、何だか懐かしい気持ちになるんです」

「懐かしい?」

「不思議なんですけど、前も誰かとああして花を愛でていたような、そんな気がするんです」


 例え記憶が失われようと、想いまでは忘れない。その身が、その心が憶えている、守ると誓ったあの愛する少女との幸福な時間は、今も彼の中で生き続けている。

 それを聞いたリリカは、安心したように吐息を漏らして、リックの額に口付けする。これは彼女のおまじない。幸せな夢に抱かれて眠れるように、想いを込めた彼女の口付けであった。


「リリカさん⋯⋯、ずっと傍にいて下さい⋯⋯⋯」

「今夜は寂しがり屋さんだね。どうかしたのかい?」

「昼間、あれを見てから⋯⋯⋯。リリカさんと離れてしまったら、もう二度と会えないような気がして⋯⋯⋯」

「仕方のない子だ⋯⋯⋯」


 あれとは、ヴィヴィアンヌが彼に渡した、アングハルトの遺品を指す。その身が憶えている別れの悲しみが、リックの心を不安にさせているのだ。

 気持ちを察したリリカは、リックと共に毛布を被り、彼をその胸で抱きしめる。リリカの温もりに抱かれ、安心したリックが彼女の体に腕を回す。記憶を失っても、女の胸に抱かれて安心するところは変わらないなと、内心リリカは思っても口には出さなかった。もしそんな事を教えれば、また落ち込みかねない。

 

「⋯⋯⋯いつもみたいに、またお話を聞かせて下さい」

「まったく、注文の多い甘えん坊さんだね。早く寝ないと体に障るよ?」

「⋯⋯⋯お話し聞けたら、よく眠れそうです」

「わかったよ。今日はどんな話がいい?」

「⋯⋯⋯それじゃあ、リリカさんのお話しがいいです」


 リックが記憶を失ってからよくリリカは、彼を寝かし付ける時にお話しを聞かせている。不安を感じている彼の心を紛らわさせ、ちゃんと眠れるようにするためだ。

 聞かせているお話しは、リック達の話だ。但し、それが彼自身や仲間達の話である事は、悟られぬよう伏せている。記憶を取り戻すきっかけになればいいと思いながら、同時に彼をこれ以上混乱させたくないからだ。

 いつもなら、レイナやクリスの話、ヴァスティナ帝国での日々の話を聞かせる。彼が愛したメシアや、ユリーシアの話も聞かせている。ただ、今日彼が求めたのはリリカの話だった。


「⋯⋯⋯私の話なんて、あんまり面白くはないよ」

「リリカさんのこと、もっと知りたいんです。だめ、ですか⋯⋯⋯?」

「はあ⋯⋯⋯、少しだけだよ」


 観念したリリカが、興味津々で話を待っているリックへと、思い出を懐かしむように語り始める。

 それはリリカが、まだ誰にも聞かせた事のない、自分の物語。


「実はね⋯⋯⋯、私には妹がいたんだ。でも、その妹はもう、この世にはいない⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯」

「私なんかより、ずっと可愛らしくて、美しくて、優しさに満ち溢れていて、生きる希望を胸に精一杯生きていた。私は⋯⋯⋯、そんなあの子が大好きで、この世界で一番愛していた」

 

 リックへと聞かせる、彼女の物語。

 彼女は愛した妹の話を聞かせるが、愛おしそうに話す彼女は、瞳の奥で悲しんでいるように見えた。


「私がヴァスティナの宰相になった理由はね、前女王ユリーシアが妹によく似ていたからなんだ」

「そんなにそっくりだったんですか⋯⋯⋯?」

「容姿というよりは、雰囲気といったところだね。初めて彼女を見た時は、あまりに似ているもんだから驚いて立ち尽くしてしまったよ」

「女王⋯⋯、ユリーシア⋯⋯⋯」

「君が一番大切にしていた少女の名だよ。そして私も、その生き方、愛らしさが、妹に似ている彼女が好きだった」


 リリカが語る、帝国宰相になった本当の理由。彼女の口から語られる、ユリーシアという名。

 リリカにそこまでの決意をさせた、ユリーシアという名の少女。リックは、その存在に興味を惹かれると同時に、不思議と懐かしい気持ちが心に奔るのを感じていた。


「そんなユリーシアも、私達を残して死んでしまった。私は、愛する妹を二度も失ってしまった」

「リリカさん⋯⋯⋯」

「辛い別れだった⋯⋯⋯。でもねリック、私には君がいる」


 リックを抱くリリカの腕に、少しだけ力が入る。決して離れまいとする彼女の意志が、リックの心を深く抱いて離さない。


「私の愛おしい子。君だけは、決して失わない⋯⋯⋯」


 その言葉と温もりに、リックは彼女の痛みと悲しみ、そして激しく燃える感情を知った。

 どう言葉を返していいか、戸惑うリックに、微笑を浮かべたリリカが彼の頭を優しく撫でる。


「さあ、これでお話はおしまいだ。もう眠れるだろう?」

「はい⋯⋯⋯」


 初めて知ったリリカの話。初めて触れたリリカの感情。

 聞いてはいけない話。思い出させてはならない話だったかもしれない。そう感じてもリックは、彼女がその胸に秘める感情に、もっと深く触れたいと思ってしまった。


「おやすみ、リック」

「おやすみなさい、リリカさん⋯⋯⋯」


 リリカの腕に抱かれ、温もりに安らぎを得ながら眠りに落ちるリック。

 意識が暗闇に沈んでいきながら、彼は思う。自分を守り続けてくれるリリカのために、彼女の心に触れ、一人苦しんでいるその悲しみと痛みに寄り添いたいと⋯⋯⋯。

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