表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
381/511

第五十三話 忘却の世界 Ⅲ

 ブラド公国の宮殿内には、君主が趣味の茶会を開くために造らせた、美しい花々と噴水、それに彫刻によって飾り立てられた中庭がある。真上から降り注ぐ陽の光を受けて、花は見事に咲き誇り、噴水の水がまるで宝石のように輝く。

 その芸術的な中庭で、一人の男が地面に膝を付き、夢中で花々を愛でている。愛おしそうに花に触れ、花々の香りに心癒される彼は、一人静かに、この安らかな時の中を過ごしていた。

 花と過ごす彼の姿が、白百合のように美しく儚かった少女の姿と重なって見える。今の彼は、あの頃の優しさに満ちたひと時を覚えてはいないはずなのに、亡き少女と同じように花々を愛でていた。そんな彼の様子を見守っている一人の美女が、ずっと花に夢中な彼の名を呼んだ。


「リック」


 彼女は名前を呼ぶが、どうやら本人は自分が呼ばれたと思っていないらしく、何の反応も示さない。仕方なく彼女は、もう一度優しく彼の名を呼んで気付かせる。


「リック。お茶の用意ができたよ」


 二度目で気付く様になっただけでも、大分進歩している。最初の頃は、名前を呼ばれても反応できない事は何度もあった。

 呼ばれたのが自分だと気付いた彼は、優しい声と微笑みを向ける美女へと振り向き、無垢な笑みを浮かべて彼女の名を呼んだ。

 

「リリカさん! ごめんなさい、まだ自分の名前に慣れなくて⋯⋯⋯」

「気にすることはないよ。さあ、花を眺めながら一緒にお茶にしよう」

「はい!」


 リックと呼ばれたその男は、子供の様に純粋な笑顔で、妖艶なる美女リリカのもとに向かう。リリカに付いていき、中庭に用意された茶会用の椅子に座ったリックは、目の前のテーブルに置かれたカップに、リリカが紅茶を注ぐのを嬉しそうに眺めている。

 お互いのカップに紅茶が注がれ、向かい合って座った二人はカップを手に取った。カップを口元に近付けたリックは、先ずは紅茶の香りを楽しんでから、カップにゆっくりと口を付けて茶を味わう。


「美味しい⋯⋯⋯。リリカさんの淹れくれるお茶が、一番好きです⋯⋯⋯」

「口に合って良かったよ。お茶菓子も作ったから、好きなだけ食べなさい」


 テーブルには紅茶の他に、リリカが手作りした焼き菓子なども用意されていた。心の底から嬉しそうに微笑を浮かべるリックは、リリカのお茶菓子へと喜んで手を伸ばす。

 穏やかな時間の中にいる二人の姿は、傍から見れば仲睦まじい姉と弟、もしくは慈愛に溢れた母と子のようにさえ見えていた。










 中庭でお茶会を開く二人の様子を、少し離れて見守っている仲間達の姿があった。楽しそうに笑い合う二人の姿に、四人の仲間達は皆、複雑な心境で様子を眺めている。

 レイナとクリス、それにイヴとシャランドラは、愛する彼の変わってしまった姿に胸を痛め、どう接すれば良いか迷い続けていた。


「あのリリカ様が、自分で紅茶を淹れるなんて⋯⋯⋯」

「僕もびっくり。あのお茶菓子だってリリカ姉様の手作りなんだもんね⋯⋯⋯」

「おい発明女。姉さんが自分で茶と菓子用意してるの、今まで見たことあったか?」

「あるわけないやん。姉御はユリっちにすら自分の茶を淹れさせてた、うちらを支配しとる女王様なんやで? お茶も菓子も実は作れたことにすら驚いてまうわ」


 この光景を見たヴァスティナ帝国の人間であれば、必ず四人と同じ感想を抱くだろう。あのリリカが、自らのためにではなく人のために、お茶の用意をしたのである。ましてや、お茶を用意したのはリックのためだ。普段ならばリックに対して、「私に美味な茶と菓子を三つ数える間に用意しろ」という発言すら、リリカならばあり得る。

 

「それにもびっくりなんだけどさ⋯⋯。僕が一番驚いてるのは、リック君のあの笑顔だよ」


 イヴが言いたい事は、皆同じ気持ちだった。今の彼が見せる純粋無垢な笑顔は、彼の仲間達が初めて見る、悲しみも苦しみもない、晴れやかで澄んだものであるからだ。

 これまで彼が味わってきた、深い悲しみと絶望、憎悪と怒りの炎を燃やし続けた死闘の日々。それらは全て彼を前へと進ませたが、同時にその心を蝕み苦悩させ続けてきた。しかし今の彼は、これまでの全てを奪われ、怒りや苦しみから解放されたのである。

 

 先の戦争で重傷を負い、このブラド公国に運び込まれたリックは、何とか一命を取り留める事ができた。かけがえのない犠牲を払いながらも、命を救われたリックだったが、彼は深い眠りについてしまい、目覚めたのは戦争が終わった後だった。

 誰もがリックの目覚めを喜び、同時に恐れてもいたが、眠りから覚めた彼は信じられない事に、全ての記憶を失ってしまっていたのだ。

 

 自分の名前も、過去も、大切な仲間達や、愛する者達の記憶すら、彼は何一つ覚えていなかった。記憶を失ってしまったリックの姿に、仲間達は誰もが衝撃を受け、戸惑い苦しんだ。

 この事は他言無用とされ、限られた者以外には知らされなかった。一体何故記憶を失ってしまったのか、その理由を推測したのはヴィヴィアンヌである。

 リックは、元アーレンツの精神操作魔法使いであるミッターと交戦した。敵の魔法攻撃を受けたリックは、精神を汚染され、心に強烈な負荷が掛かっていたに違いない。その精神状態の中で、彼は大切な仲間の死を目撃してしまった。

 リックの心は自分自身を守るために、悲しみも絶望も記憶から抹消した。そうしなければ、彼の心は耐え切れずに砕け散っていただろう。それが記憶喪失の原因ではないかというのが、ヴィヴィアンヌの考えだった。

 彼女の考えには、レイナやクリスを始めとした仲間達も納得した。最初は皆、記憶を失ったリックに詰め寄って、思い出させようと色々な話を聞かせていたが、ヴィヴィアンヌの推測を聞いてからは、それもやめて現在に至る。


「ユリユリのことも、メシア団長のことも、セリーヌちゃんのことも忘れちゃったから、あんな笑顔ができるんだって思うとさ⋯⋯⋯。思い出さない方が、リック君にとって幸せなんじゃないかって思う」

「女装男子。お前は本当にそれがリックのためだって、そう思えるのかよ」

「思えるわけないけど、思うしかないよ。だって僕は、リック君には幸せでいて欲しいんだもん」


 誰も言い返せなかった。イヴの言葉は皆の思うところであり、何も言えなくなったクリスは舌打ちすると、楽しそうに笑い合っているリックとリリカを見つめ、我慢できずに二人のもとに向かおうとする。

 それを止めようと、咄嗟にクリスの服の袖をレイナが掴む。両者目が合って、離せと言わんばかりに睨むクリスに向かって、臆せずレイナは口を開いた。


「早まった真似をするな。無理に思い出させようとすれば、拒絶されるだけだぞ」

「⋯⋯⋯心配すんな。初めみたいなヘマはしねぇよ」


 強引にレイナの手を振り払ったクリスは、二人のもとに歩みを進めていく。そう言われても心配なため、レイナ達も彼の後に続いていった。

 クリスはその性格故に、リックが記憶を失ったと聞かされた日、彼に思い出させようと一番強く詰め寄ってしまっていた。目覚めたばかりで、自分の名すらも忘れてしまったリックにとって、焦るあまり強硬に走ろうとするクリスは、恐ろしい人間に見えてしまった。

 結果、乱暴で恐い人と思われる事になり、記憶喪失のリックに怯えられてしまったクリスは、これ以降避けられてしまう事になった。

 加えて、今のリックが怖がってしまった人物は他にもいて、ヘルベルトはその顔の凶悪さで、ゴリオンはその巨体に驚き恐れられ、ライガはあまりの声の五月蠅さで引かれ、ヴィヴィアンヌは鋭利な刃物のような鋭い目付きを恐がられている。リック曰くヴィヴィアンヌの目付きは、「お前を殺す」と言っているようで緊張してしまうらしい。


 クリス本人はその事を深く反省しており、レイナに注意されるまでもなく、今度は慎重に行こうと決めていた。また避けられるかもしれないが、意を決したクリスはリックのもとに向かい、緊張しながらも彼の傍までやってきた。

 気配に気付いたリックがクリスへと顔を向ける。互いの目が合い、現れたのがクリスだと分かると、リックは怯えるように肩を震わせ、その身を後ろに引いた。やはり恐がられたと思ったクリスは、恐い男と思われている印象を少しでも回復すべく、ぎこちない笑みを浮かべて口を開いた。


「よっ⋯⋯、ようリック。けっ、怪我の具合はどうだ⋯⋯⋯?」

(めっさビビっとる⋯⋯)

(だっさ⋯⋯)

(だからやめろと言ったんだ⋯⋯)


 背後の三人から馬鹿だと思われながら、それでも頑張ってリックとの距離を縮めようとするクリス。その頑張りが届いたのか、最初は怯えて戸惑っていたリックも、具合を心配してくれた彼から逃げず、まだ少し震えながらも答えて見せた。


「⋯⋯⋯だっ、大丈夫です。心配してくれてありがとう御座います、クリスさん」

「⋯⋯⋯!」

「どっ、どうかしましたか⋯⋯⋯?」

「あっ、いや! 悪いな⋯⋯、お前にそんな風に呼ばれると、変な感じがしてよ⋯⋯⋯」


 クリスに対する呼び方ひとつで、今のリックが皆の知る彼ではないと分かる。この呼ばれ方が初めてではないのだが、今までのリックを知る者からすれば、呼ばれ慣れない名に戸惑ってしまう。

 

「ヘマかましとるやん」

「かっこつけてそれとか、だっさ⋯⋯」

「学ばない破廉恥男だ」


 三人からは冷ややかな目で散々に言われているが、普段なら怒るクリスも、今回はがくりと肩を落としてしまうだけだった。ある意味玉砕したクリスは無視して、レイナ達もリックのもとに集まった。

 レイナ、イヴ、シャランドラの登場に、まだ彼女達に慣れないせいか、クリスの時ほどではないにしろ戸惑いを見せる。するとイヴが先陣を切って、いつもの人懐っこい明るい笑顔を浮かべ、怯えるリックを安心させようとする。


「恐がらないでリック君♪ 僕達、そこのガラの悪い金髪と違って良い子だから♪」

「そうそう、イヴっちの言う通りやで。だから、うちらもお茶会混ぜて欲しいんやけど」

「⋯⋯⋯お邪魔して申し訳ありません、閣下」


 さっきのクリスよりは、リックの怯えはあまりなく、イヴやシャランドラの明るい笑顔に安心感を覚えている。クリスに散々言ったくせにレイナがぎこちない点を除けば、悪くない反応を示していた。


「イヴさん。シャランドラさん。それにレイナさん、でしたよね? すみません、名前は憶えられたんですが、まだ記憶の方は全然で⋯⋯⋯」

「いいよいいよ! 全然気にしないで!」

「うちらの名前憶えてくれただけでも嬉しいわ。ほんま、今のリックはびっくりするくらい良い子やな」

「そっ、そうだな⋯⋯⋯。今の方が見境なく女に手は出さ――――」


 言いかけたレイナの口を、慌ててイヴとシャランドラが塞ぎにかかる。何事かと思ったレイナが、自分の発言の愚かさに気付いてリックを見た。

 案の定リックは、「俺、本当は女たらしだったの⋯⋯⋯?」という驚愕と不安が入り混じった顔をして、三人にから逃げる様に目を逸らして俯いた。

 何も覚えていないリックからすれば、自分が何者であったかは知りたいだろう。皆の説明によって、自分の名と、自分がヴァスティナ帝国の将軍である事は知ったが、どんな性格であったのかや、どんな趣味嗜好を持つ人物であったかなど、まだ知らない事は多い。

 衝撃の事実にショックを受けるリックは、助けを求めてリリカを見るが、彼女は妖艶な笑みを返して答える。今の話が事実だと悟り、リックは益々落ち込んでしまった。


「俺は⋯⋯⋯、なんて破廉恥な男だったんだ⋯⋯⋯。きっと、皆さんに沢山ご迷惑をお掛けしたに違いない⋯⋯⋯」

「きっ、気にせんでええんやで⋯⋯。うちらやって、リックのそういうところも含めて好きなわけやし。なあ、イヴっち?」


 レイナの失敗を挽回すべく、シャランドラが落ち込むリックを励まそうとして、助けを求めてイヴを見た。しかしイヴは、シャランドラのように励まそうとは考えておらず、悪知恵を働かせてにやりと笑みを浮かべると、落ち込むリックの目の前で彼の手に触れた。


「ねぇ、リック君。実は僕達、結婚を前提に付き合ってたんだよ♪」

「!?」


 リックにっては衝撃の新事実だが、シャランドラ達からすれば衝撃の虚言である。特にシャランドラやクリスは、「やられた⋯⋯!!」と内心大いに後悔していた。

 今のリックの精神は、生まれたばかりの赤子同然。卵から孵った雛が、最初に見たものを自分の親と思うが如く、何を言われても信じてしまう。それに気付いたイヴは、今がチャンスと言わんばかりに大嘘を吐いて、リックの心を揺さぶりにかかった。


「いっ、イヴさん⋯⋯!? でっ、でもイヴさんって確か男⋯⋯⋯⋯」

「そんなの些細な問題だよ。第一、男の娘が好きだって言ったのリック君の方だしね」

「じゃ、じゃあ俺って! 本当は変態⋯⋯⋯!?」

「そうだよ。リック君は僕みたいなのが好きな変態属性さんで、僕を抱いてくれるって約束してくれたし、戦場のど真ん中で大好きだって言ってキスまでしてくれたんだから」


 イヴが語る驚愕の事実の数々に、リックは頭を抱えて混乱状態に陥った。大嘘を吹き込もうとしているイヴだが、シャランドラとクリスが手を出せずにいるのは、今の話に数多くの真実が含まれているせいだ。

 内心「勝った!」と確信したイヴ。果たしてちゃんと騙せたかと、小悪魔の笑みを浮かべてリックの返答を待つ。やがて、気持ちの整理が付いたリックが、意を決したように顔を上げて、優しくイヴの手を握る。


「!?」

「いっ、今は手を握るのがやっとです⋯⋯⋯。でも、俺がイヴさんを弄んでしまったなら⋯⋯⋯!」

 

 緊張で震えながらイヴの手を握り、頬を朱に染めて恥じらっているリックが、手を握られて驚いているイヴに、覚悟を決めた言葉をぶつける。


「責任取って、イヴさんを幸せにして見せます⋯⋯⋯!!」

「こんなキレイなリックくんなんて僕のリックくんじゃないよおおおおおおおおおおおおおおおっ!!! でもこれはこれで好きいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!」

「いや、好きなんかい!!」


 記憶喪失であるが故、いつもなら考えれられない純情なリックの言葉と想いが、悪しきイヴの思惑を打ち砕く。リックの不純なき瞳に見つめられ、我慢できず発狂したイヴは放心状態となってしまう。

 悪知恵が働いたイヴの脅威は去り、安堵したシャランドラが深く息を吐く。次は誤解を解かねばと、イヴの話が嘘だと告げようとした彼女よりも先に、クリスが動いた。


「女装男子の言った事は全部嘘だ。真に受けんじゃねぇぞ」

「えっ!? 全部嘘だったんですか!?」

「全部ってわけじゃねぇんだが⋯⋯⋯、取り敢えず野郎のは嘘だって憶えとけ。なんたって、お前と付き合ってたのは俺だからな」

「はい、わかり⋯⋯⋯、ええっ!?」


 今度はクリスが大嘘を吐き始め、落ち着きかけていたリックが更に混乱する。キレたシャランドラが、「おどれはなにやっとんじゃあ!!」と叫ぼうとするも、彼女の口をクリスの手が必殺の神速で塞いでしまう。


「俺達は相思相愛でよ、他の連中も見とめる仲だったんだぜ。俺にベタ惚れだったのも忘れちまったなんて、悲しくなっちまうな⋯⋯⋯」

「でっ、でっ、でも⋯⋯⋯! 男同士で恋愛なんて⋯⋯⋯」

「関係ねぇな。もう抱き合った仲なんだから、観念して俺のものになれよ」

「!!」


 邪魔者を封じたクリスが、戸惑っておろおろしているリックへと、畳み掛ける様に言葉を続ける。またしても大嘘を吹き込もうとしているクリスだが、シャランドラの口を彼が必死に塞ぐのは、今の話が数多くの嘘で塗り固められているからだ。

 

「わっ、わかりました⋯⋯⋯」

「!」

「俺が好きになったせいで苦しめてしまったなら⋯⋯⋯、クリスさんのものになります!」


 顔を真っ赤にしたリックが、恥ずかしさを隠すために両手で顔を塞ぐ。指の間から瞳を覗かせ、今にも泣きそうな顔をしたリックが、震える唇で言葉を発する。


「男に抱かれた記憶がないので⋯⋯⋯。やっ、優しくしてください⋯⋯⋯!」

「こんなリックは俺のリックじゃねええええええええええええええええええええええっ!!! でも好きだあああああああああああああああああああっ!!!」

「いや、好きなんかい」


 見事に騙されたリックの純粋な気持ちが、またしても悪しき思惑を打ち砕く。我慢できずに発狂したクリスは放心状態となり、イヴ同様戦意を喪失してしまう。今のリックの純粋無垢さは、誰も犯す事ができなかった。

 二人に呆れているシャランドラとレイナが、混乱しているリックに、彼らの話が全部嘘だったと説明する。不図ここで、普段ならこんな状況を愉しむリリカの笑い声がないなと、レイナとシャランドラが彼女へと視線を移す。

 彼女達が見たものは、テーブルに頬杖を付きながら、顔は微笑んでいるのに目が笑っていないリリカだった。恐怖を感じた二人は、あまりの恐ろしさで同時に息を息を呑む。


「イヴ、クリス。次はないよ?」

「「!!」」


 もしまたリックに嘘を吹き込んだら最期、リリカからどんな仕置きを受けるか想像もできない。戦場では無慈悲な堕天使と呼ばれるイヴも、雷剣の二つ名を持つクリスでさえ、リリカが放つ圧倒的な恐怖には敵わなかった。

 もう二度としないという意思を伝えるために、直立不動で緊張した二人が必死に首を縦に振る。それを確認したリリカの視線が、今度はシャランドラを捉えて彼女を恐怖させた。


「それとシャランドラ。もし二人の真似をしたら、わかるね?」

「!!」

 

 内心、「これはうちも狙い目なんちゃう?」と考えていたのを見抜かれ、青ざめたシャランドラが死ぬ気で首を縦に振った。二人の真似をしたら殺されると悟り、改めてリリカへの服従を示すのだった。


「困った子達だ。リック、今の話は全部冗談だから気にしなくていいよ」

「安心しました⋯⋯⋯。じゃあ俺は、見境なく男女に手を出すような男じゃなかったってことですよね?」

「⋯⋯⋯」

「あっ、あれ⋯⋯? リリカさん、どうしてそこで黙るんですか?」


 天下無敵のリリカでさえも、その問いに嘘は付けず、微笑で誤魔化そうとしていた。まさかと不安に駆られたリックが、レイナ達に視線を向けて助けを求めるが、皆一斉に目を逸らして逃げる。

 過去の自分が一体どんな男だったのか、思い出すのが恐ろしいと感じ始めたリック。そんな彼のもとに、任務から戻った眼帯の少女が現れ、宰相であるリリカに報告すべく茶会の席に近付いた。


「宰相、ただいま帰還しました」

「御苦労だったね、ヴィヴィアンヌ。ちょうどリックとお茶を始めたところでね。君もどうだい?」

「遠慮致します。今の閣下は、私が傍にいない方が安心されるかと思いますので」


 宰相リリカの命を受け、任務を終えて帰還した彼女の名はヴィヴィアンヌ。リックの親衛隊隊長であり、かつては互いに死闘を演じた事すらある彼女の事も、今の彼の記憶からは失われている。

 ヴィヴィアンヌが現れて驚いたリックは、彼女を恐がって縮こまり、目を合わせないように俯いた。久しぶりの再会になるのだが、まだ彼女を恐れているのは変わっていなかった。

 怯えるリックの様子には取り乱さず、ヴィヴィアンヌは彼に気を遣い、敢えて挨拶はしなかった。因みに、リックが記憶を失った当初、目付きを恐がられて嫌われたヴィヴィアンヌは、その場で大きなショックを受けて自分の目を抉り出そうとし、レイナ達に全力で止められていた。そんな事もあったせいか、余計に恐がられてしまったのは言うまでもない。


「ブラド公国周辺国に潜伏していた、旧ジエーデル軍残党の処理は終わりました。各方面でも、残党の討伐は順調に進んでいると報告を受けています」

「仕事が早くて助かるよ。何かご褒美を上げたいものだね」

「では、我が同志とのデートの権利を頂けますでしょうか」

「許可しよう」

「感謝します」


 レイナとのデートの権利を得たヴィヴィアンヌが、驚愕しているレイナへと顔を向け、舌なめずりして妖艶な笑みを浮かべる。リリカの許可を得た褒美である以上、レイナは絶対に逆らえない。拒否権がないレイナは、どんな手段を使ってでも獲物を得ようとするヴィヴィアンヌに、最早諦めて従う他なかった。


 ヴィヴィアンヌの登場に怯えていたリックだったが、彼女の左手に何かが握られている事に気付く。それは白い布に包まれていて、中身はよく分からない。リックだけでなくレイナ達も、ヴィヴィアンヌが何かを持ってきた事に気付き、気になったイヴが最初に口を開いた。


「ヴィヴィアンヌちゃん。それ何?」

「⋯⋯⋯例の場所から回収されたものだ。閣下がある程度落ち着くまでの間、私が保管していた」


 そう言ってヴィヴィアンヌは、布に包まれたそれをリックの前に差し出した。まだ彼女に怯えているリックは、緊張しながらそれを受け取って、硬い何かを包んでいる白布を剥がしていく。

 布が包んでいた物は、壊れた金属製の武器だった。大きな衝撃によって折れ曲がり、部品もいくつかかけてしまっている。それを見たレイナ達は、瞬時にそれの正体を悟って目を見開いた。


「眼帯女! まさかこいつは⋯⋯⋯!?」

「察しの通り、閣下がアングハルトに託した拳銃だ」


 リックを命懸けで守り戦場で散った、彼を愛した女兵士。今リックに手渡されたものは、彼が彼女に渡した、かつての愛銃である。

 命を救う代償に、記憶が失われるきっかけとなった存在。その彼女の名は、セリーヌ・アングハルト。


「閣下。これは元は貴方が持っていたものです」

「俺が⋯⋯⋯、これを?」

「貴方はこの銃を、自分を好いてくれた大切な女性に渡しました。これを見ても思い出せませんか?」


 リックを守って戦死した、アングハルトの遺品の一つ。記憶を失ったリックが、かつての記憶を取り戻す起爆剤となるように、皆には黙って、今日までヴィヴィアンヌが保管し続けていた。

 果たして、アングハルトの遺品はリックの記憶を呼び覚ませるのか。それができるかはヴィヴィアンヌにも分からないが、僅かでも記憶が戻る可能性があるならば、それに懸けたかったのである。

 ただ、リックの記憶が戻るという事は、アングハルトの死の事実を知る事を意味する。その残酷な悲劇を知って、リックの心が今度こそ壊れてしまったなら⋯⋯。


「⋯⋯⋯」


 皆の不安な瞳に見つめられながら、受け取った壊れた拳銃を眺め続けるリック。黙って彼は拳銃を見つめ続けていたが、突然彼の手は震え出し、苦しそうに肩で呼吸を始めた。

 驚いたヴィヴィアンヌ達が見たものは、深い悲しみに暮れ、今にも泣き出してしまいそうな顔をしたリックだった。手に持った拳銃を自分の胸で抱きしめ、震える声で言葉を発する。


「どうして⋯⋯⋯、こんな⋯⋯」

「閣下⋯⋯! まさか記憶が⋯⋯⋯!?」

「わかりません⋯⋯⋯。でもこれを見ていると、どうしてか、とても悲しいんです⋯⋯⋯」


 記憶は蘇らなくとも、その身は憶えているのだろう。大切な存在の温もりを、共に過ごした幸せな日々を、自分の想いを、その身は決して忘れてはいないのだ。

 レイナやクリスは目を瞑り、爪が食い込む程に拳を握り締め、怒りと悲しみの心を抑え込んでいた。シャランドラとイヴは、記憶を失っていようとも、アングハルトの死の悲しみに苦しむ彼を見ていられなくなり、堪える事ができず涙を浮かべてしまう。

 そしてリックは、訳の分からない深い悲しみに苦しんで、誰に向けるでもなく苦し気に言葉を続けた。


「こんなに悲しいのに⋯⋯⋯、胸が張り裂けそうなのに⋯⋯⋯、悲しくて泣いてしまいたいのに⋯⋯⋯。どうして、涙が⋯⋯⋯」


 悲しみに暮れたリックの瞳には、一粒の涙すら浮かんでいない。

 愛する者達を失い、自らを憎悪と殺戮の化身と変え、今度こそ守ると誓った大切な存在を、修羅の道に進ませた日。リックの涙は枯れ果てた。あの日以来、どんなに辛く悲しい事があっても、リックが泣いた事はない。


「リック、もういい⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯!」


 悲しみに苦しむリックを救ったのは、震える彼の身を優しく抱擁したリリカだった。彼女の腕に抱かれたリックは、リリカの温もりに懐かしさを感じ、悲しむ己の身を彼女に委ねた。


「何も考えなくていい。何も思い出さなくてもいい」

「リリカさん⋯⋯⋯」

「リックは私が守る。だから安心して忘れなさい」


 それからリックは、深く悲しむ自分の心が落ち着くまで、リリカの腕の中で抱かれ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ