誠実
「最低ね。よく恥を晒しに来れたものだわ」
個室の飲食店を指定され、席につく前に頭を下げれば冷たい声が突き刺さった。
もうすでに相手側には、あの日スーパーで見かけた女性と、弁護士と思しき男性と、辰己が座っていた。
「……今回、このような謝罪の場を設けて頂き、感謝しております」
頭を下げたまま、用意していた言葉を口にする。
本来なら私の顔なんて見たくもないはずだ。それなのに、こうして時間をつくって会ってもらえたことに目の前の女性の強さを感じる。
私なんて、半年も辰己の変化に気付いていながら、見て見ぬふりをしたのだ。
辰己と揉めるのが嫌で、このまま変わりたくなくて。
「この度は、辰己さん───」
そう、口にした瞬間。
頭の先からぬるいような感覚が流れ落ち、思わず顔を上げてしまう。
ごとり、と湯呑が足元に転がる。
あぁお茶をかけられたのだと遅れて理解する。
慌てる弁護士と辰己の声を耳が過ぎ、私は目に入りそうになったお茶を手で拭った。
女性を抑えようと背を向ける辰己の向こうから、奥さんの顔が見える。
その表情は、あの時の穏やかな顔じゃない。怒っている顔なのに、泣いていた。
「なに?悲劇のヒロインぶるのに不倫だけじゃ足りなくなったの?だからこうしてのこのこ出てきたんでしょう!こんなくそ男、ほしかったらあげるわよ!!もうほっといて!!!」
声が揺れていた。
身を切るような叫びに、膝から力が抜ける。
どこか、ここに来るまで現実味は無かった。
しかしこの目の前の女性の様子を見て、逃げてはいけないのだとやっと理解した。
「……いえ。三山さんとのことを許してもらおうとは考えておりません。すでに関係は解消しました」
「解消?」
私の言葉を聞いた辰己が聞いていないと責めるような顔で振り向くが、もうそちらは見なかった。
辰己の奥さん───三山夫人は、眉を寄せ少し言葉を切ったが次の瞬間に顔を怒りで染める。
「都合が悪くなったら消せると思ってるの!?」
こうして謝罪が済めば夫人の気持ちが癒えるかと言ったら、それは全く違うだろう。
「今回は知らなかったこととはいえ、奥様には不誠実なことをしてしまったことは事実です。本当に、申し訳ございませんでした」
「知らなかった……? 白々しい嘘はやめて!!あの写真だってッ」
「裕子、落ち着いてくれ。こんなことになってすまない。もっと早く話し合うべきだったと思う」
「皆さん、落ち着きましょう。森田さんも席にご着席ください」
混沌を極めたこの場は、弁護士の男性が納めた。
弁護士が鞄から出した書類がテーブルの上を滑る。
その書類に手を伸ばそうとするが、手が濡れていることに気付きハンカチで拭う。
コトリ、と弁護士が書類の右横に万年筆を置いた。
それを辿って視線を目の前の三人に移す。
「……慰謝料、請求させてもらうから。あんたのことは絶対に許さない。あんたが死ねばいいのよ」
夫人は全身で私を憎んでいるのに、目の奥はとても悲しそうだった。
「はい。この度は、本当に、申し訳ありませんでした」
***
三山夫人との会合から時間は流れ。
花田さんからの差し入れがブラックコーヒーから栄養ドリンクになった。
そんなに疲れているように見えるんだろうか。
また祀ろうと思ったら、わざわざ会議室に呼ばれ「選べ」と言われた。
選ぶのは処刑方法ですか?と考える私の横を通り過ぎ、花田さんは呆れたような顔でひとつ空けた椅子に腰を下す。考えが口から出ていたらしい。末期だ。
最近のポンコツ具合についに産業廃棄物認定され、お情けで制裁の方法を選ばせてもらえるのかと思いきや、どうやら選ぶのは目の前の大量のドリンクからのようだ。
「なんでしょう。これ」
「さっさと選べ」
「な、なぜと……理由を伺っても……?」
私の質問に、珍しく表情筋が動いた。社内の人間に有料級のご尊顔を動かしてもらえるとは今日はサービスが良い。どこに課金すればいいですか?
「お前が……しょぼくれた犬みたいな顔してるから」
「ドシンプルに失礼ですね」
と、またもや餅つきのスピードで言い返してしまった。プライベートの問題事で私の猫の皮もハゲかけているのかもしれない。
「お前の陰気さで営業デスクの空気が葬式みたいになってる。さっさとその情けない顔を直して仕事に戻れ」
「たぶんもしかしての可能性の話なのですが、元気づけようとしてますか?だとしたら、もうひとさじ分の優しさを入れられませんかね」
「優しくしたら惚れるだろ」
「花田さんって意外とギャグセンス高いですね」
今日の社内弁慶・花田透は寛大なご様子で、いつもの仏頂面だが冗談を交わすサービスまでつけてくれるらしい。
寛大なご厚意に甘え、野菜ジュースを選んだ。何か選ばないとこの圧迫押し売り会議室から出してもらえ無さそうだったからだ。条件で言えば監禁罪に相当するのでは?でも普通に嬉しい。
「ふふ。下々の様子なんて視界に入らないのかと思っていました。見えていたんですね」
「お前、俺のことをそんなやつだと思ってたのか。花田さんに優しくフォローしてもらいましたって二宮部長に言っとけよ」
まさか私の反抗的な態度を軽く流す理由は、巡り巡って二宮部長へのアピールだったのか!と愕然とした表情で花田さんを見上げると、悪そうな顔で笑いながらさっさと出て行った。
……残ったドリンクの片付けは、私でしょうか。
私物のエコバックを広げ、首を回す。
デスクに向かっている時は気付かなかったが、とっても肩が凝っているようでゴリゴリと音がする。
先日。プライベートの問題事である、慰謝料の振込が終わった。
結婚資金として貯金していたものは慰謝料に名を変えた。
辰己とも今回のことで一度関係を解消し、身ぎれいになったらまた考えようと連絡を絶っている。
事実を知った日から、どうして気付かなかったのかとどうしても考えてしまう。
今まで辰己が注いでくれた優しさを思い出しては、どれが嘘で真実だったのか繰り返し思い出しては都合の良い夢に溺れてしまいそうになる。
空しくて仕方がなかった。私には何も残っていない。
辰己が中心だった生活から、辰己がいなくなったのだ。自分を構成していた、たった一つだけ自分から居なくなっただけだというのに。自分自身がいなくなったような気になるのは、思っていたより辰己に依存していたからなのだろう。
つまり元より不健全な関係性だったのだ。
きっかけは最悪なものだが、清算出来て良かった。そう思うしかない。
悲しくてもお腹は減るし、眠たくなるし、働かなければいけない。
悲しみにびしゃびしゃに浸る時間も無いまま、自分の痛みを無視して動いていた。痛みのない大人なんてきっといない。
みんな痛みと付き合って、きっと平気な顔をして生きていくのだ。
無人の会議室の椅子に腰をおろし、野菜ジュースにストローを刺す。
心機一転、仕切り直そうと野菜ジュースを飲み込んだ。
*
会議室の片付けも終わり、営業部へと戻ろうと振り向けば彩さんが心配そうな顔で迎えに来てくれた。
「彩さん、お疲れさまです。体調は大丈夫ですか?」
彩さんは日に日に弱っているようで、今なんて顔に血の気が足りない。
「それは大丈夫なんだけど、森田ちゃん……花田主任となにかあったの?」
「いえ、別に……仕事のことで」
先ほどの花田さんとのやり取りを思い出すと、なんだか肩の力が抜けた。
「────笑うんだ」
「え?あぁ、笑ってましたか」
どうやら久しぶりに笑っていたらしく、野菜ジュースの糖分をチャージしたからだろうかと頬をさすってみる。反対に彩さんはハンカチで口元を抑え、しんどそうだった。
「彩さん、本当に大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だから。ねぇ、そういえば三山さんの件どうだった?」
「あの件は一応解決した……んですかね。奥さんにもお詫びの席をもらいました」
「えっ、修羅場だね!?慰謝料とか請求されちゃったりして!」
「え、あ、はい。なんとか受け取ってもらえました。結婚資金貯めててよかった、です」
ははは、と私の空笑いが空気を震わせたが、だんだんと小さくなっていく。
「大変だったね……騙されてたのはこっちなのに慰謝料払うなんて」
「えっと……まぁ、話すと長くなるのですが……」
と、そこで会議室の方へバタバタと走る音が聞こえ口を閉じた。よく考えたら職場で話す内容では無いからだ。
会議室の扉がノックされ、ひょっこりと見知った顔が見えた。
「あ!いたいた、森田さん。Y社から連絡があってさー」
「わー、ほんとですか!」
同じ営業部のパート事務の佐田さんが私を探していたらしく、慌ててドリンク類を持ち上げた。地味に重い。バタバタと会議室を後にする時、彩さんの方を振り返る。
「すみません、彩さん。また後ほど」
「うん、まあ大体わかったから」
もういいかな。そう呟いた彩さんの笑顔が、やけに気になった。




