2
「は……じゃあ、私が浮気相手ってこと……?というか、これって不倫じゃない」
掠れたような声が自分のものじゃないような心地だった。
どこかドラマを見ているようだったが、背中に感じる生温い体温が現実を知らせる。私を抱き寄せる辰己が、急に見知らぬ他人のように思えて嫌悪感でもがいた。
出来るだけ強く肘を背後の男にぶつけるがびくともしない。
こんな乱暴なことをしたら痛い思いをさせてしまうかもしれないと無意識に力が抜けているのか、本気で抵抗しても男にはじゃれ合う程度にしか感じないのか、男の手は緩まない。どこかで気遣っていた心も恐怖に染まっていく。
かすれるようだった声もだんだんと叫ぶように、はっきりと出せるようになってきた。
「離して!触らないで!!」
「ごめん!本当に、俺、後悔してて……!!」
何度目かの攻撃が効いたのか腕の力が緩んだ隙に距離をとった。振り向けば辰己は泣いていた。綺麗に。
それでもまだ近づいて来ようとする男に「触らないで」と言うと、辰己は悲劇の主人公かのように膝をつき「いやだ、別れたくない」と繰り返した。
「結婚、してて、なんで……」
結婚しようと話し合っていた彼氏が既婚者だった、そんな話があるだろうか。
最初こそ土日だって会えていたし、平日はうちに頻繁に泊まりに来ていた。だからこそ私以外に親密な異性なんて、想像もしなかった。
辰己との思い出や言葉が蘇る。付き合うきっかけになった出来事も、あんなに言葉を交わして、笑って、泣いて、一緒に過ごしてきた時間が浮かんで来て、苦しくなる。
───全部、嘘だったんだ。
しかも、私はいつの間にか加害者の立場だった。
事実に気付くと、頭の中の混乱が増していく。
恋人がもしかしたら浮気しているのかもしれないと不安だった半年間、あの気持ちを味わっている人が他にもいるのかと愕然とした。
「楓、聞いて」
「聞きたくない!」
お願い、と縋って来る男の力が強く、また抱きこまれたらと恐怖で押し黙る。それを許しだと思ったのか、聞きたくないと言っているのに辰己は上目遣いでこちらを見た。
「嫁は、結婚してすぐ海外に赴任してたんだ。家より仕事って感じで、寂しくて。楓と知り合って家庭的でほっとできて。それで、甘えてずるずる……」
辰己の声が耳を上滑りしていくように流れていく。
「俺、楓とのことは本気だから、楓となら温かい家庭が作れるって思って。嫁が赴任先から戻ってきたから離婚の話をしたんだ。好きな人がいるって……。まだ納得してもらえなかったけど、理解してもらうから。待っててくれないか」
「なに言ってるの?私に、不倫相手になれって言ってるってわかってる?」
固い声しか出なかった。
「順番が違うってわかってる。でも、もう嫁には本当のことを伝えた。あいつは気が強いから、謝りに来いって取り乱してて、もしかしたら嫁が勝手に楓のところに来るかもと心配でここにもなかなか来れなくて……」
重いため息が吐かれる。それがまるで被害者かのような仕草に思えて、気味の悪さが増すようだった。
「ちょっとアイツ、おかしいんだ……」
あのスーパーで見かけた女性の、凛とした姿を思い出す。
海外赴任していたと聞いても納得する、自立した女性だった。
「順番が狂ったけど、本当は離婚して、準備が整ってから言うつもりだったんだ。もし嫁がここに来ても守るから。楓には待ってて欲しいんだ。俺の心のためにそばにいてほしい」
「そんな勝手なこと……」
「弱い男でごめん。もう嫌いになったか」
嫌いになったか、と問われて。すぐには答えられなかった。
だって数分前まで結婚する予定の恋人同士だった。しかし変わらず好きだという気持ちは、見えなかった。
「ちょっと混乱してる。でも、このまま何も無かったことにも出来ないよ」
自分の気持ちはわからなかった。
けれども、奥さんの気持ちは痛いほどわかるような気がした。
「奥さんに、謝りに行こう」
「え……っ、楓が?なんで?」
辰己は悲壮感でいっぱいだった顔をぎょっとさせ、慌てたように身体を起こした。
「今の気持ちはさておき、好きで結婚したんでしょう。一生を共にするって誓ったなら一番誠実でいなきゃいけない相手だよ」
私も、そういう存在になりたかった。




