混乱
「どういうこと?」
「楓……ごめん」
目の前の男は、自分こそが悲劇の主人公だと主張するかのように目を伏せた。
*******
彼氏である辰巳とは、付き合ってもうすぐ2年ほどになる見通しだった。
辰己は取引先の営業で、連携して客先へ向かう時など仕事上付き合いがあるため関係は周囲に秘密にしていた。順調に、でも着実に共に歩んでいると思っていた。それなのに。
スマホの中に、あの時の写真がある。
辰己は久しぶりに私の家へやってくると、ドタンバタンと騒がしく玄関からリビングまで練り歩く。今日、ここに来るまでにどれだけ大変な仕事をこなして、私のために時間を作って来てやったのだと語りながらバサリと上着をソファーの背に投げた。
以前まで真に受けていた苦労話も、どこまで本当なんだか耳に届くのは半分以下だ。
こちらの温度なんて気にもせず、辰己は勝手知ったるとばかりに冷蔵庫の中から缶ビールを取り出し、キッチンに立つ私を背後から抱き寄せた。
甘えるように今日は何を作っているのかと聞く様子には以前と変わりがない。それが一層、不気味だった。
「あーやっぱり、楓が一番癒される。ずっとここにいたい」
いつも聞き流していた言葉の一つ一つの意味が変わって聞こえてしまう。
首筋に鼻先を擦り付け、かかる息が今日は心地が悪い。
「ちょっとやめて。辰己、あのね、聞きたいことが」
「疲れてるのに勘弁してよ」
疲れていることは様子を見ればなんとなくわかる。いつもだったらお疲れ様と労わり、つまみでも出して座って待っているように言っていただろう。
しかし、いつも通りの反応がないことにやっと気付いた辰己が「なに、寂しくて拗ねちゃった?」と機嫌をとろうと、性的な触れあいに移行しようとして来たことで私の我慢はあっけなく決壊した。
「やめて。そういうことよりも、話さなきゃいけないことがあるよね」
ガスを切り、ポケットに入れていたスマホのそれを男に見せ、どういうことなのか説明を求めたのだった。
悲壮感のある顔を見ていると心がざわついて暴れそうになる。
辰己を信じさせてほしかった。納得するだけの言葉がほしかった。
*
辰己と、派手というよりは仕事の出来そうな女性が連れだってスーパーにいた日。
私はその光景を他人事のように見ていた。
なんとなくしっくり来る二人は、はしゃいでいる様子も無く、淡々と買い物をしていた。
その姿は彼らの“日常”のようで、私の中で考えられるだけの可能性がどんどん潰されていった。
咄嗟に二人の写真だけは撮って来たが、勢いのまま辰己に問い詰めるための連絡をすることも出来ず朝を迎えた。
問い詰めて、詰って、責めて、自分の気持ちをぶつけて、そうして。そうして?
結局、私は辰己に何をしたいのか、何をしてほしいのか、全くわからなかった。
そんな私の内情とは無関係に日常は進む。
問題ごとに気を取られてすっかりポンコツになってしまった私を、花田さんは呆れた顔を隠すことなく見下ろしていた。
真上から。デスクが暗いなと思ったら気のせいではなかった。
脅されても直らない昭和のブラウン管以下の私のポンコツ具合は、あの社内弁慶・花田透が、見るに見かねて缶コーヒーをくれたほどだ。ブラックの。
私、ブラックコーヒーは飲めないんですけど……。
今までより長い付き合いの部下の好みのものではないが、あの花田さんが社内の人間を気遣うなどとても珍しいことなので(悪口ではない)幻の缶コーヒーはデスクに祭った。
問題ごとが頭をよぎり気が散りそうになったらご神体となった缶コーヒーを見て、花田さんの神託……じゃなかった、あの一言を思い出すのだ。
───『目標を見失わなければ、判断はぶれない』
本人は覚えてないだろうけど、それは二年前。
中途入社したばかりの花田さんは、最初のうちは社内でも猫を被っていた。
私も皆と同じく、かっこよくて爽やかな人が入ってきたとソワソワしていた一人だ。
花田さんは前職でも能力が高かった、期待の新入りだと二宮部長のふれこみのおかげで他の営業からやっかみの目を向けられていた。顔でとってるだの、体でとってるだの、そういう系だ。イケメンも良いことばかりではないのだなと他人事ながら、そう思った。
しかし、そんなやっかみなんてなんのその。花田さんはしっかり“仕事”で黙らせてきた。
その当時の“爽やか”で“努力家”で“優しい”イケメンの花田さんは、落ち込んでいた下っ端の営業事務の私の話を親身に聞いてくれた上、アドバイスまでくれたのだ。『目標を見失わなければ判断はぶれない』と。
当時は神々しさを感じるほど素晴らしい人格者に見えたものだ。
今の猫の皮を脱いだ花田さんなら、落ち込んで立ち止まっている人間は敷物か何かだと思って踏んずけて進んでいきそうだ。悪口ではない。
あの時から私の行動指針は、遠回りだとしても目標の方へと進むことにしてきた。停滞していたって状況はよくならないのだ。踏まれたくないし。
そう思っているのは本当なのに。
辰己の件は【結婚】という目標を見失った私には、判断が難しかった。
いつの間に目的と手段が混ざっていたのだろうか。幸せになりたかっただけなのに。
だから、こちらが呼び出す前に辰己の方から家に来ると連絡があって。勢いに任せて辰己に写真を突き付けても。私の行動指針はあやふやなままだった。
*
ごめんと言いながら、いまだゆるりと私に腕をまわしていた辰己の胸を肘で押す。それなのに、辰己は反対にしがみつくように抱きついて来た。
ぞわりと鳥肌が立った気がした。
「好きだから、別れたくない、ごめん」
言葉が涙まじりに途切れがちになっている。以前までは絆されていたかもしれないが、なぜか私の心は反応しなかった。反応しないように無視をしていたら、いつの間にか鈍くなったのかなと他のことを考えていたりさえした。
むしろ逆ギレされるかと思っていたので、泣いて縋られる可能性は考えていなかった。
激昂して力任せに暴力を振るうよりはマシなのかと、落ち着かせるように腹の前にある腕を優しく撫でた。
「辰己。教えてほしいの。最近、会えてなかったのって……」
「ごめん、本当にごめん」
少しでも責めるようなニュアンスはだめなのか、ごめんと繰り返すばかりで要領を得ない。
思考の放棄なのか、少しの浮気なら、そうであれば、私のことが好きなら。だんだん許してあげるべきなのかとさえ思えてきた。
この時点では、まだ私の中でずっと思い描いてきた幸せにしがみついていた。
もう悩みすぎて、宙ぶらりんな現状を早く終わらせたかっただけなのかもしれない。楽な方へいけるなら行って、多少のことには目をつぶって、出来るだけ【幸せ】に近い場所にいたかった。
「もういいから。教えてほしい……いつからなの?」
辰己の行動が変わった半年間の疑問を、ただ解消したかった。たぶん私はこのまま波風立てずに、この半年間のことを謝ってもらって元通りだと安心したかっただけ。これからもこの日常が変わらないと蓋をしたかっただけで。
「……三年前に」
辰己の腕を撫でていた手がピタリと止まった。
口からは声にならない、空気だけが短く出た。
私にすがりつく男はなんと言っただろうか。三年前、と。言っただろうか。
私たちは二年前に仕事の打ち上げで知り合い、普通の恋人同士のように仲を深めて来たと、そう思っていたが。
呆然と動きを止めた私を、辰己は更に強い力で抱き寄せ続けた。
「────三年前に結婚、してて」
頭を殴られたように、動けない。耳鳴りがするほど、キッチンが静かに感じた。
これは悪い夢なんじゃないだろうか、そう思ってみても悪夢は一向に醒めない。