脳内検索
あれは、入社三年目のことだった。
仕事を覚えることに手一杯だった一年目。
自走できるようになった二年目。
そして三年目には、自分もそうしてもらったように後輩の教育係も任されるようになった。
この間まで大学生だった新入社員は三年しか違わないとはいえ、最近の子という印象だ。デジタルに強いと言っても、もちろん実務でのExcelやWordは未経験とのことで、これからといった様子だった。時間がかかっているものの根気よく頑張っていた。その様子を見て、私も今一度頑張ろうとやる気をおすそ分けしてもらっていた。
教育係を担うことになった私のやることと言えば、仕事の流れを説明・出来そうな仕事を与えて・サポートして・進行度を管理して・指導の報告書を作成して……と、そこに自分の業務も入ってくる。意外とやることが多いなと頭を抱えた。
これを諸先輩方はこなしていたのかと頭が上がらない。
このような感じで三年目となり、それなりに充実した日々だったと思う。
勤務時間外には勉強の時間に充てたりして、すっかり恋愛からは遠ざかっていた。
だから正直、プライベートの付き合いは悪かったと思う。
それに加え、そういった自分の気持ちや状況に関して伝え方が上手くなかったのかもしれない。
『───頑張る必要ないんじゃない?正直、森田ちゃんはそこまで期待されてないでしょ』
そう笑って言ったのは、一年目に自分の教育係だった先輩の流川彩さんだった。
付き合いが悪い!!と指摘され、初めて説明が足りなかったと気付く。
改めて最近の教育係で刺激をもらい私も新しいことにチャレンジしたくなったこと、昇格試験に興味があること、頑張りたいことがあるのだと彩さんに説明した。
この時は、説明すれば理解を得られると信じ切って疑ったことも無かったのだ。
そして期待とは裏腹に、彩さんは一瞬不愉快そうに鼻に皺を寄せたと思ったら綺麗に笑って上記の『期待されてない』と、そう言った。
「ね、だから息抜きに合コンに行こう!それに早く彼氏つくらないとヤバいよ。もう三年目なんだからさ」
と、私の腕にしがみつく彩さんは普段通りの”明るく優しい彩さん”だった。
「……はは、そうですよね」
私は咄嗟に作り笑いで返した。
その場では、なぜこんなモヤモヤした気持ちになったのか理由がわからなかった。だって彩さんは私を心配して声をかけてくれたのだ。勝手に期待したのは自分だし。欲しい言葉じゃないから傷つくなんて、子どものようだ。
それに私を一年目から見守ってくれた先輩がそう言うなら、そうなのかもしれないと少し思ってしまったし。
*******
「──なるほど。そういう経緯で、森田さんは非常階段で泣いてたわけだ」
「泣いてませんよね。花田さんは泣いてましたけど」
「いやいや。上から森田さんが滑り落ちてきたから、驚いてむせただけだけど?」
「社屋は喫煙スペース以外禁煙ですよ」
「……お互い、ここであったことは内緒にしよう」
ね? と、危険な雰囲気でほほえむのは先日中途で入社したばかりの花田さんだった。
時系列的には、気遣ってくれる彩さんに申し訳ないが、モヤモヤが晴れずお昼の誘いを断る。断ってしまった手前、誰にも顔をあわせず昼食を入手するために非常階段を使ったら滑って落ちたのだ。慣れないことはするもんじゃない。
うぅうう……!と、強打したお尻と肘の痛みに、うめき声を出しながら踊り場を這って進んだら、階下で不良のごとく喫煙をしていた爽やかエース花田さんがポカンとこちらを見ていて。
激しい物音と呻き声とジャパニーズホラー的な登場に、随分と驚かせたらしく。
次の瞬間、花田さんは盛大にむせて涙を流していた。
私は心のモヤモヤは霧散したが、身体の痛みと恥ずかしさで後から少し泣いていたかもしれない。
花田さんとはこの非常階段が初めての会話だった。
なにせ花田さんは営業部長の肝いりで、かつ俳優のような出で立ちから入社早々”時の人”となっていたからだ。
営業部内外の女子社員は花田さんのご尊顔を拝みに集まるし、歓迎会なんて過去一の集客人数だった。
まるで都会の動物園に来日したパンダのような状態の花田さんに、しがない営業事務が近寄れるはずもない。普通に忙しかったし。新人ちゃんも花田さんの虜になっていたのには驚いた。花田さんの残像より私の説明を見て。
あの頃のパンダ状態の花田さんは、いつでも人の輪の中心で爽やかな笑顔を保っていた。
そして、二宮部長を始めとする周囲からたくさんの期待を寄せられてキラキラとしていた印象だった。
だが、非常階段で遭遇した花田さんは遠くで愛想を振りまいていたパンダというより、もう少し人間に見えた。お互い、取り繕っていないところを見せあった衝撃からだとも言う。
だから、あれよあれよと花田さんの上手い営業トークに乗せられお悩み相談することとなったのだ。期待を寄せられる側の人の視点が聞きたかったのもある。
「うるせーって言っちゃえば?」
「そんなこと言えないですよ……!」
「それは嫌われたくないから?いい子ぶってるとナメられるよ。俺みたいに」
「花田さん、いい子ぶってるんですか?だから隠れて喫煙と。なるほど。ブランディング大変ですね」
クスクスと冗談を交わしているうちにだんだん心が軽くなってきた。
作り笑いが消えて、肩の力が抜けて、モヤモヤが抜けていった気がした。
そのタイミングで花田さんが視線を流した。
「うーん。『期待してない』か。それ言ったの彼氏?」
「違いますよ。いませんし」
急な視線に驚いて、聞かれていないことまで口が滑った。
「彼氏いないんだ、意外だね。モテそうなのに」
「モテの次元が違う花田さんに言われても響かないです」
「はは、次元ってなに。俺モテないよ、一緒だね」
ほらね。モテる人はこのくだりにも慣れてるからサラッと流しちゃうんだよ、という気持ちが顔に出ていたのか花田さんが吹き出して顔を伏せていた。
この会話中。花田さんにうっかりトキメキを覚えていたことは伏せておきたい。
当時は花田さんが二枚も三枚も猫を被っていると知らなかったので無罪である。
「まあ自分にとって、そんな言葉も響いちゃうような存在の人ってことかな」
確かに。自分にとってなんでもない人に言われても、たぶんここまでモヤモヤしなかっただろう。
「仲いい人に相談してみたら?流川さん、だっけ。良いアドバイスくれそう」
「……さすが、もう覚えてるんですね」
「一応、部内の人の名前はね。なんて。忘れたら合図送るから教えて」
ビクリと、彩さんの名前に今度はときめきでは無い方で胸が跳ねた。
まさか悩みのきっかけになった人物に相談できるはずもなく、誤魔化すように「あー、まぁ、彩さんとは、そんな関係じゃないので」と口をついた。
ははは、と誤魔化すように空笑いをして。一拍。
「たくさんお世話になったから。その人に認めてほしかったんですかね」
花田さんは私の言葉を待ってくれていた。
「だから、自分の大切にしたいことや見てる方向が正解なのか迷っちゃって。ぶれぶれで情けないです」
困っちゃいますね、と眉を下げて花田さんの方を見上げれば真剣な視線とぶつかった。
「迷うことはないよ。目標を見失わなければ、判断はぶれないんだから。そのまま進めば、その人も認めるしかなくなる」
弱音を口にした時は笑って消化できれば良いと思っていた。
言語化できないような小さなわだかまりはそのまま捨ててしまえと。
だから、たまたま話の流れで付き合わせてしまった花田さんがこんなに真剣に耳を傾けてくれるとは思わなかった。
こうして助言をくれるとも思っていなかった。
「森田さんは期待されてるし、期待に応えようと努力してると思うよ」
そう花田さんは軽くほほえみながら言った。それは見ようによっては作った愛想笑いのように見える。でも私はそうは思わなかった。きっと私にプレッシャーを与えないようにしているのだとなんとなく思った。
ぐっ、と喉の奥が詰まった。
「あ、入社したばっかりのくせにって思ってる?」
「そこまでは思ってません!」
花田さんはカラカラと笑った。この人は私が受け入れやすい雰囲気と言葉を作って励ましてくれるような優しい人だ。
「じゃあ、これから森田先輩の素晴らしいご活躍を見せてもらおうかな」
「馬鹿にしてますよね?」
もうすっかり胸のモヤモヤは無くなって、折れかけていた心も戻っていた。
「まあ、花田さんに見られて恥ずかしくない程度には、足掻こうと思います」
「はは、楽しみだな。また今度、進捗聞かせてよ」
私に向き直った花田さんは、そう言った。
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回想終了。
ってことがあったことは覚えている。回想しても『見てろ』とは言っていないはずだが???記憶にないだけで、私にはそんな女王様的人格が隠れているんだろうか???
回想の中の花田さんとは打って変わって、パンダというより野生をとりもどした熊のように凶暴性を滾らせる花田さんはお酒に頬を染め色っぽい溜息をついた。やめなさい。
「あの後、食事に誘ったら『彼氏ができたから二人はちょっと』って言われて展開の速さに驚いたな」
そういえば、ちょうどその頃に辰己と距離が縮まり付き合うことになったのだった。
花田さんは非常階段での一件に気を遣って親切心でアフターケアをしてくださったと思うが、当時の辰己はとてもヤキモチ焼きで仕事関係とはいえ異性と二人きりは断固NGだったのだ。
「純情を弄ばれた俺は、あの日から”いい子ぶる”のをやめたんだ……」
待望の冷麺をシェアしてくれるらしく、小さく盛られた冷麺が目の前にコトリと置かれた。
「またまた。交際を望む待機列があるような方が何をおっしゃいますか」
「お前の中の俺の好感度を回復したいんだけど、間に合いそう?」
しかしまあ。
当時も今も根本的な面倒見の良さとかそういうのは変わらない部分もあるのかもしれない。目の前の冷麺に感謝しながら箸をつける。
「……そのうち、彼氏に弁当作っただの結婚するから貯金するだの惚気ていたのに、その彼氏とやらが既婚者だったわけだが」
「今この瞬間に花田さんへの好感度が下がりましたが大丈夫そうですか?」
人の傷口をわざわざ触る悪魔に恐れおののく顔がお気に召したのか、花田さんは吹き出して笑った。あの日の非常階段で見たような笑顔で。
「何はともあれ。こうして飯に誘えるようになったのは、よかったかな」
今、ドキッとしたのはきっと回想したからで。
変に意識していると思わないように、言葉の意味を深く考えないように目を逸らした。
「よっぽど一人飯が寂しかったんですね……独身貴族の道は険しそうです」
「おい」




