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引き戸を開けると、上がり框に晴斗がいた。彼は頭頂部をこちらに向け、大股開きで座って靴を履いていた。
「そんなところに座っていたらお父さんに怒られるわよ」
美織が注意を促すと、晴斗は壮太に挨拶して素早くそこから退いた。父親の大事な釣り道具であるクーラーボックスの上に腰掛けていたのだ。二十二歳になろうとも癖が抜けないようだ。父が目撃していたら容赦なく怒鳴り散らしているところだろう。
美織は外に出て行こうとする弟に呼びかけた。
「ちょっと待ちなさい」
「何だよ」
「あんた、どこか行くの?」
「ちよみのところ」ちよみとは、一つ年下の彼の恋人だ。「姉ちゃん、母さんに御飯はいらないって言っておいて」
「今晩は予定を空けておきなさい、って約束だったはずよ」
「え、マジかよ。それ、今日じゃなきゃだめなの」
「当たり前じゃない、今更何を寝ぼけたことを」美織は腕を組んで目つきを凄めると否応なく言い放った。「こうして壮太にもわざわざ時間を作ってもらったんだから。ちよみちゃんと遊ぶのは、また今度にしなさい」
「わかった、わかったよ。そんな大声出すなよ」晴斗は露骨に嫌そうな顔を作ったが、降参だ、と言って携帯電話を操作し始めた。「ちよみに断りを入れてくるよ」
弟には悪いが、今回だけは恋人とのデートを諦めてもらうしかほかない。
「他の皆はいるのよね?」
「ああ、いるよ。母さんは台所、父さんはソファで寝てるよ」
背の高い父はソファに体がおさまらず、端から足首をはみ出して寝ている。母さんは独り言が多く、料理する時は鼻歌を口ずさんでいる。目で確認しなくとも、日頃の二人の姿を容易に想像できた。
「おばあちゃんは?」
晴斗は小首を傾げた。「さあ。部屋にいるんじゃない。俺はずっと自分の部屋にいたから朝から見ていないよ」
今晩の食事会はあらかじめ美織が提案し、五人家族全員に日程調整を指示したのだった。この家では父方の祖母と同居しているが、彼女もその場に不可欠だ。誰一人として欠けてもらっては困る。今後の冨永家の生活環境に大きく影響するからである。
美織は、どういう理由で予定を立てたのか、具体的な名目は伏せておいた。持ち出す話題の反応をじっくり観察したかったし、全員の目を見て話したい、という強い意志があったのだ。
「だから、ごめんって。いや、姉ちゃんの彼氏も来ててさ。この埋め合わせは絶対するから機嫌を直してくれよ」
晴斗の約束をキャンセルする電話の声を背後で聞き取りながら、壮太と二人で居室まで続く廊下を歩いた。
扉の隙間から昆布だしの仄かな匂いが鼻腔をくすぐった。美織の要望通り夕飯の献立は、しゃぶしゃぶだ。鍋料理を家族皆で囲んで味わうのが彼女は好きだったし、大人数での食事には打ってつけだと思った。
扉を開けて中に入ると、誰に対してでもなく「ただいま」と慣れ親しんだ空間に声をかけた。
これが家族揃って最後の晩餐になるかもしれない。美織は曖昧でありながらも、それでいて鮮明な胸騒ぎを覚えた。
母親の京子に台所から呼びつけられた美織は、準備された野菜の盛りつけ皿を食卓まで運んだ。うたた寝していた大黒柱の正樹は半身を起こし、晴斗と壮太の三人でテレビを観ている。
冨永家の男どもは、生前の祖父の多大な影響力により家事全般を一切手伝わない。昔からの風習で祖母がそうさせなかった。夫に仕えて敬うことこそ美徳であるらしい。古典的な振る舞いが美織には理解できない。一方、京子は違う。寧ろそれが生き甲斐とでも言うように、召使いの如く雑務をこなしている。
冷蔵庫の中から牛肉や豚肉のパックを出す母が鼻で音符を奏でながら話しかけてきた。
「みおちゃん。お母さんね、宝くじ買ったの」
「宝くじ?」
美織が訊くと、京子は電話機を設置した棚の抽斗を開けて声をひそめた。
「お父さんたちにはまだ言ってないの。試しに二十枚買っちゃった」母の手には未開封の宝くじが二束あった。「一等はなんと六億だよ。もし当選したら何が欲しい? 嫁入り道具を一遍に揃えてあげようか」
母親の台詞は男の厚い胸板くらい頼もしかった。どこからそんな自信が湧いてくるのか不思議なほど凜々しい表情だ。当たる確率なんて高が知れているだろうに。それでも夢心地にもしも事を語る親が笑顔になるのは美織としても微笑ましかった。
「京子さん、あたしは電動マッサージ器を頼むよ。あの、リク…りくないにんちえあを頼むよ」
いつからそこにいたのか、祖母の満子が〝つ〟の字に曲げた腰を拳で叩き、眼鏡を鼻にかけて不敵な笑みを浮かべていた。座っていながら全身マッサージを堪能できる大型の椅子のことを言っているのだろう。横で母が、「お義母さん、リクライニングチェアでしょ。もちろん、いいですよ。当たればの話だけど」と、くすくす笑った。
家族が食卓についたのは午後六時半頃。空腹に勝てなかった正樹の一声で予定よりも一時間前倒しで晩餐が始まった。
母から受け取った缶ビールを早速開けて、正樹が和やかに言った。
「さぁ、壮太君」グラスを持ちなさい、注いであげるから。という顔をした。
「せっかくですが、僕は結構です」
「何だ、飲めないのか」父の口角が下がった。
「いえ、そういうわけではありませんが」
「今日はうちに泊まっていくんだろう?」
「はい、その予定です。お世話になります」
「だったら構わんじゃないか、ほら」
待ちぼうけをくらう手元の缶ビールを小刻みに揺らし勧めてくる。丁重に断る彼にどうしても飲ませたいようだ。
「でも……」
瞬時に壮太が美織に目配せしてきた。これから大事な話の前に飲酒は良くないのではと危惧したのだろう。あなたに任せるわ、という信頼も込めた意味で美織は小さく頷いた。
「遠慮しなくていいぞ」
言い淀む壮太がもう一押しされるのを待っているのだと父が誤った解釈をしたらしく、冷えてるぞ、と添えた。
「では、一杯だけ」
渋々グラスを手に持った壮太は、強引な持てなしを受け入れた。