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海岸沿いから脇道に入り五分も歩けば馴染みの路地が見えてきた。母親と手を取り合って歩いた幼少時の頃もあったし、学生時代は通学路で幾度となく通った道だった。自宅兼居酒屋の〝万次郎の隠れ家〟という看板を掲げた先を美織が指差した。
「もうすぐそこだよ」
日光によりてらてらと輝く赤い屋根の家屋が見える。その一軒先の木造建てが冨永家だ。
「そうか」壮太は言った。「で、家はどっちなんだい」
「さっき海辺で説明したじゃん。私の家忘れちゃったの? あれだよ。古めかしい建物が見えるでしょう」
「違う。そうじゃなくて」彼は冨永家の左右に建つ家を交互に見た。「確か、君の家の隣だと言っていたよな、被害者の自宅って」
「しっ」美織は鋭い息を吐き、唇の前に指を立てた。無遠慮に声を張る相手を黙らせるつもりで睨めつけてやった。
丁度、赤色屋根の住宅玄関から恰幅のいい中年男性が出てきたからだ。門扉を開ける男の後から同年代の女性が姿を現した。対照的に女の頬は痩けており、首や鎖骨辺りがやけに筋張っている。二人は藍川家の夫婦だ。
「やあ美織ちゃん、こんにちは」
主人の声かけに美織は会釈して答えた。追従して壮太も頭を下げた。
「久しぶりだね。東京から帰ってきたのかい?」
正月に挨拶したきりだから帰省するのは約半年ぶりだった。
「はい、これから家族で食事を」
「そいつはいいな。ご両親もさぞ首を長くして待っていることだろうね」藍川忠義が背後にいる妻の美和子に親指を立てた。「これから家内と墓参りに行くところなんだ」
誰の墓参りなのかを言われなくても美織には見当がついていた。
「紗耶子ちゃんの命日が近いですしね」
「あれから八年、早いもんだね。過ぎてみればあっという間だったよ。次女の真由子も紗耶子の享年を追い越し、去年の成人式も無事に迎えてね……あの子も生きていれば美織ちゃんと同じ二十四歳。結婚でも考える年頃だったのかね」亡き娘を思い出しながらしみじみと語る父親の口元は笑っていたが、目はもの哀しげだ。「犯人のやつは今頃何をしているのかね。逮捕されていれば私どもの心は幾分か救われただろうに」
「ちょっと、あなた」軽はずみに家庭の事情を口外する夫を見かねたらしく、美和子が窘めた。
「ああ、すまない」注意されてから自分がうっかり余計なことを口走ってしまったと気づいたそうだ。失言を取り繕うつもりなのか、額に汗を浮かべ微笑みかけてきた。「美織ちゃん、結婚したんだってね。お父さんに伺ったよ。おめでとう」
「ありがとうございます。あ、でも厳密に言うと婚約だけで入籍はまだなんです」
「そうなのかい? どうして?」
「ちょっと、まだやり残したことがあって……」美織は横の婚約者に意味深な視線を送った。「お仕事が落ち着いてからだよね?」
「もしかして、彼がそうなのかい」忠義が壮太に向き直った。
「どうも」
壮太は短く返すと、サングラスをかけたまま鳥みたいに首を前に突きだした。内気な面があるとは言えども、この受け答えはどうかと思う。美織は開いた口が塞がらなかった。
「これから両親と会ってもらうところなんです」
「ほう、それは一世一代の大仕事だな」忠義が顔を引き締め、壮太に向かい激励を浴びせた。「しっかり、決めてくるんだよ」
藍川紗耶子とは小さい頃からの遊び仲間だった。姉妹で家に遊びに来て、食卓を囲んだこともあった。中学を卒業するまでは仲が良かったが、別々の高校に通うようになってから接点を失い、二人の距離感は隣同士に住んでいるにもかかわらず疎遠化した。
十六歳の六月、約三ヶ月ぶりに紗耶子と話す機会があった。近況報告ができたらと思っていたが喧嘩してしまった。学校帰りに激しく口論して別れた後に、海岸で独りになってから自分に落ち度があったと思い直し、美織は素直に謝ろうと彼女の家を訪ねた。だが、目的は果たせなかった。
当日の夕刻、紗耶子は自宅のリビングルームで変わり果てた姿で発見された。のちに判明したことだが、美織が現場に駆けつけたのは事件直後のことだった。
ついさっきまで活発だった同級生の体はソファに投げ出され、生命が完全に抜き取られていた。言わば人のかたちをした抜け殻だった。その暴力的な記憶は、八年経った今でも美織の脳裏にしっかりと焼きついていた。紗耶子は何者かによって無惨にも殺害されたのだ。