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姉が女友達を家に連れて来るなんて珍しいこともあるものだ。記憶している限りでは、中学時代以来だ。柄物の室内玄関マット横の壁に沿って、トランペットケースをそっと下ろしながら前方に目をやった。
正面の長い廊下はリビングルームの扉まで一直線に伸びている。一階に明かりは点いていない。外光を取り入れる窓がないため、真昼間でさえこの場は薄暗かった。
廊下の途中に階段がある。その先は姉妹の各部屋に続いている。
壁のスイッチを入れた。天井の照明が灯され、真由子が二階に上がろうとした時だ。
突如甲高い女の声がした。真由子は、びくりと体を震わせた。反動で肩にかけていた通学鞄が床に滑り落ちた。
「な、何なの……今の」
奇声に近い悲鳴だった。癒やしと安らぎに満ちていたはずの生活空間が、突然異質な次元へと歪んだ。それまでの眠気が吹き飛んだ。
耳がぞわぞわする。切羽詰まった女の叫びの残響が、しぶとく鼓膜にしがみついている。音の鮮明さからして発生源は外ではない。室内のようだった。それも数歩先の居間からである。
不気味な悲鳴は姉のものではなかった。別の女だ。
となると、玄関にあったもう一足の靴の持ち主、即ち友人と思われるほうであろうか。扉の先で一体何があったのだろう。不吉な予感しかしなかった。
真由子は、その場から動けないでいた。呼吸が荒くなる。額に、ねばついた汗が浮かぶ。固く閉ざされた扉に視線を送るだけで精一杯だった。
急に静まり返ったので何者かが気配を殺して、こちらの様子を窺っているようにも思えた。姉でも友人でもない、別の何者かが室内に潜んでいる。おどろおどろしい風貌なのかもしれない。そんな不確かな想像が勝手に膨らみ、益々臆病にさせる。真由子は恐怖に押し潰されそうだった。
その時、扉の向こうでゴトリ、と何かが床に落下する音がした。真由子は、ひぃ、と小さく鳴いて身を縮ませた。重量を感じる鈍い音だった。
気づけば目から涙が零れていた。頬を拭わず、動悸が速くなる胸に手を当てた。
扉を開けようか。レバーハンドルを凝視した。おずおずと指を広げて、把手を掴もうとする手が止まる。真由子は目をぎゅっと閉じてから思案した。
行く。行け。行くのだ、真由子。行かなきゃお姉ちゃんが――。
自分の尻を叩くように煽った。でも、恐れおののき実行に移せない。膝が震えて脚が自由に動かせなかった。真由子は顔をくしゃくしゃにしながら手の甲を噛んだ。込み上げる怖気と嗚咽を押し殺そうとした。
大切な姉妹を置き去りにして、このまま引き下がれない。姉が助けを求めているなら、救えるのは私しかいない。そう言い聞かせて自らを奮い立たせた。
怯える心情とは裏腹、足は一歩前に出ていた。
中の様子を見て危険だと直感したら一目散に逃げようと心に決めた。再びレバーハンドルをじろり、と見る。真由子は歯を食いしばると、意を決して居間に向かって駆けだした。
体当たりで打ち破るみたいに扉を勢いよく開けた。降りかかる怪異な事態もろとも、突き飛ばそうとした。
扉が限界まで開放され、乱暴な音を立て壁に当たった。真由子は前のめりによろけたが踏ん張った。
最初に目に飛び込んできたのは、暗闇に潜む背を向けたソファ。その下に転がる物体。スカートがまくれた女の太腿だった。彼女はカーペットの上で横向きに体を寝かせていた。
「おねえ、……ちゃん?」
呼びかけたが、人違いのようだ。見覚えのある制服姿だが、姉ではなさそうだ。
床に寝そべる相手の表情を確認しようと首を伸ばして覗き込んだ。すぐに真由子は身を竦ませた。女の手足が血に染まっていたのだ。
「……嘘。何なの、何なの、これ何なの」
真由子は涙声で喚き散らした。そのままよろよろと後ずさりすると、ふとソファの座面に目がいった。
そこに女が棄てられていた。
眉間に皺を寄せた両目は大きく見開かれ、青白い顔でこちらを見上げていた。腹部には数え切れないほどの黒い穴が密集し、赤い液体が噴き零れている。紗耶子の変わり果てた姿だった。
お姉ちゃん、お姉ちゃん、と何度も悲痛に呼びかけた。真由子の慟哭は、夕闇に浸った近所の民家に響き渡った。