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神崎に呼び止められると、別の二人の主婦が近寄ってきた。全員四十代半ばくらいだ。
「神崎さん、お知り合いなの?」
「ええ、この道の先に赤い屋根の立派なお宅があるでしょう。あの家のお嬢さんよ」
「まあ、藍川さんのところの」
彼女は最近になってこの地域に越してきたらしい。神崎以外は初対面だったが、藍川という名を出せば勝手に境遇を結びつけてくれる。無論、有名なのは近隣の中でも外観が一際目立つ我が家にあると踏んでいる。工務店を営む父が知り合いの大工の協力を仰ぎ五年前に建てたものだ。
「あらやだ。あなた脚から血が出てるわよ」
言われてからスカートの裾を少し上げた。膝を擦りむいている。指摘されて患部がじんじんと痛みだした。最悪だ、と心中で吐き捨てた。
「っていうか何よ、あの車」一人の主婦が鼻を鳴らした。「やあねぇ、人に怪我させといて逃げるなんて」
「ひどいわね。せめて車から降りてきなさいよって感じよね」
「ねえ、誰か運転手の顔を見た人いる?」代表して神崎が訊いた。
「私、見たわ」体の線が細い女が挙手した。「帽子に、髭面だった」
「違うわよ、奥さん」自信ありげな指摘が入る。「帽子じゃなくて、タオルだったわ。薄汚いタオルを頭に巻いてた」
「ナンバー見たわよ」手を挙げた女性の横で、丸顔の女が「あれは余所者だったわ」と断定的に言った。
この地域で多く見られる伊豆とは別で静岡ナンバーだった、とまでは認識できたそうだが、肝心の自動車登録番号までは覚えられなかったようだ。
「助手席にも人が乗っていたわね。あの二人、警察に通報しましょうよ」細い女が胸の前で拳を握った。
「ナガタさん、二人じゃないわよ。後ろに若い男が乗ってたわ」
「やだ、ごめんなさい」ナガタと呼ばれた女が口元を押さえた。「じゃあ、全部で三人ってことかしら?」
「私も見たわ。確かに三人だった」
「男ばかりだったし、あの車と言い、どこかの業者かしらね」
推理合戦に熱が入る主婦たちの声量が次第に大きくなる。事故の目撃情報を摺り合わせるうちに高揚しているようで、それを煽り立てるように豆腐屋の移動販売車がラッパを吹いて通りかかった。あちこちから見物人もわらわらと寄ってきて、辺り一帯は奇異なざわめきに包まれた。
「あのう」真由子は窺うように言った。「私、そろそろ……」
「もう帰っちゃうの? まだ警察が来てないわよ」と神崎が言うと、だみ声の主婦が後に続いた。「そうよ、これは立派な交通事故よ。ちゃんと事故のことを伝えて、きちんと処理してもらわなくちゃだめよ。怪我もしているんだし」
「でも、大した怪我じゃないんで」真由子は自転車を押して進行方向に体を向けた。
「本当にいいの?」
「はい。御迷惑をおかけしました。さようなら」
真由子は負傷した膝を庇いながら帰路に就いた。
自宅前まで来ると、一抹の不安が押し寄せた。姉が家にいればきっと眠れなくなるからだ。もし姉が部屋にいたら、小っ恥ずかしいよがり声が聞こえてくるだろう。今の真由子にとって膝の痛みよりも悩ましかった。
紗耶子は頻繁に男を連れ込んでいた。それは決まって学校帰りで、連れの男は両親が帰宅する少し前まで居座る。
錬り和がらしを塗りつけたみたいな色をした姉の自転車がある。その時点で少しがっかりしながらも、どうか一人で家にいて欲しいと願った。
真由子はガレージの横に自転車を止めるあいだ、頭がぼうっとした。眠いせいなのか、事故の弊害なのかわからないが、とにもかくにも睡眠を欲していることは確かである。
玄関の扉に手をかけた。中に入り、後ろ手でドアを閉める。立ったままで履き物を脱ぐ真由子が、ふと動きを止めた。
靴脱ぎ場に革靴が二足並んでいる。いずれも通学用で片方は姉のもの。もう一方は彼氏……ではなく、その大きさからすると女物だ。