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家に着いたら少し寝よう。仕事に出ている母が帰宅して、夕飯が食卓に並ぶまで数時間はある。いや、今夜も弁当かピザのデリバリーかもしれない。どちらにしろ仮眠を取るとしよう。起きてから考えればいいのだ。
真由子は今にも閉じかかろうとする重たい瞼をこじ開けた。正面に丁字路が見える。あの角を左に曲がれば、自宅までの距離は数百メートルだ。
もうすぐベッドに横になれる。ふかふかの布団の上に倒れ込む姿を想像した。睡眠欲を動力にしてペダルを踏む足に力を込めた。一定の速度を保ち交差点に進入しようとした。
その時だった。前方の左側から白い物体が勢いよく飛び出てきた。真由子は直感的に車だと認識した。
ブレーキレバーを思い切り握った。直後、急停止する車輪から金属音が鳴り響いた。
しかし、それだけでは車体にぶつかってしまう。真由子は目を閉じてハンドルを右に切った。
次の瞬間、全身に衝撃が走った。同時に味わったことのない激しい横揺れに襲われた。
うっ、と真由子は小さく唸ると、目を見開いた。バランスを崩して自転車から引き剥がされそうになっていた。
ヤバイ、と思った時には体が宙に浮いていた。指からすり抜けるハンドルがスローモーションに感じた。目の前の景色が残像化し、ひっくり返る。彼女は背中から落下し、跳ねるようにして地面に叩きつけられた。
意識がはっきりしているので頭は打たなかったらしい。その点は冷静に分析できたが、うずくまる体勢のまま真由子は起き上がることができなかった。呼吸ができないのだ。頭を守った際の犠牲に背部を強打したらしい。
ようやく息苦しさから解放された時、「……いったあい」と真由子は苦痛で頬を引きつらせた。
どのようにして転倒したのか、一瞬の記憶が途切れてしまっている。身悶えながら自分の乗物を探した。目に入ったのはカラカラと音を立てて回る後輪だった。自転車は足下で横倒しになっていた。
前輪は無傷で走行に問題なさそうだが、前籠は原形を留めていないくらいひしゃげている。それを見て上半身を素早く起こした。
ない、ない。あれはどこっ――。
真由子は辺りを見回した。自分の体のことよりも宝物の状態のほうが断然気になった。
「おい、大丈夫か」
頭上から男の声が降ってきた。その方向に目をやると、茜色に燃え立つ夕焼け空と重なった。瞬きをして目を細めた。
声は白いバンの運転席側からだった。汚れで黄みがかったタオルを頭に巻いた三十代くらいの男が窓から顔を出して、心配そうにこちらを見下ろしている。黒い顎髭が剛毛で野性的だった。
真由子は敢えて返事しなかった。目の前の大人の男が非常識だったからだ。か弱い女子中生を車で轢いておいて、その態度はないだろう。
「そんな怖い顔、しないでくれよ」髭の男は言った。「急に出てくるもんだからびっくりしちゃったよ」
眩しさで眉間に皺を寄せているのを勘違いしたらしい。ただし、不機嫌に変わりない。