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交通課の調査報告によれば、自転車で走行していた真由子は、見通しの悪い交差点の出会い頭で事故を起こしたのだが、接触したのは車ではなく家々を仕切る壁だった。
相手側は白いバンだったそうで、中には三人の男が乗車していたという。事故現場に居合わせた主婦らからも話を聞けた。見慣れないナンバープレートだった。念のため不審車両としてその後の行方を追った。
「……ですが、顔見知りの犯行であることも否定できないんです」壮太は姿勢を正して、彼なりの見解を説明した。「被害者は前方から襲撃に遭っています。つまりどういうことかと言うと、先程も美織から説明がありましたが、犯人は堂々と玄関から侵入し、二手に分かれています。一人は二階へ。そして残りは紗耶子さんのいる居間まで一直線に向かい犯行に及んでいます」
父が自信なさげに答える。「素人意見だが、玄関から侵入できるほど手慣れた泥棒だったんじゃないかな、……と思うがね。用意した凶器も現場に残さずに持ち去っているわけだろう」
「それが、犯人は丸腰だった可能性があります」
「何だって? しかし、確か凶器は包丁だと」
「いえ、正しくは凶器と思われるのは包丁としか報道されていないはずです。これは遺体の刺創部分の形状から見た結果でした」壮太は正樹だけでなく、周囲に聞かせるように視線を順に散らした。「これまで多くの事例を見てきましたが、何も道具を持たずに家を襲撃する強盗犯なんて殆どいません。まず強盗目的の犯人がとる行動と言えば、家に人がいないかどうかの確認作業です。だから家に押し入る前に入念に点検したはずなんです。空き巣のとる行動の共通項は、狙おうとする家に少しでも在宅の気配がある場合は、見送るということが犯罪心理学の観点からも明らかにされています。人を襲ってまで金品を盗もうなどというリスクは毛頭考えていないからです。しかし、例外もあります。それは殺しや強姦目的の人間です。ただもし、それが最大の目的であれば、被害者を脅すための凶器を用意するでしょう。ところが被害者に性的暴行を受けた形跡も見受けられなかったので、そういったケースではないようです。でも紗耶子さんは殺害された。それも執拗に傷つけられて……」
それ以上言葉を続けることができず、壮太の声量が急に落ちた。事件を思い起こすうちに感傷的になった。
それでも彼は理知的な口調を貫き、ここからは個人的な見解ですが、と継いだ。「本件は強盗殺人を前提とした犯行と言えます」
つまり、あれかね、と正樹が言った。「犯人は最初から強盗と殺人の両方を目的としていた、とでも言うのかね」
「ええ、そういうことになりますね」
「どうして、そう言い切れるのですか」母親が興味深そうな目で訊いてきた。
「実は後々捜査員の調べで、凶器は包丁だろうという意見が浮上したからなんです。その根拠は、……これも非公開なんですが、藍川家の台所にあった包丁が二種類、行方不明になっていたんです」
「に、二本も?」美織の顔が引きつっている。声は少し震えていた。
まあ、と満子が口をあんぐりと開けた。人形のような小さい鼻の上を老眼鏡が滑り落ちる。祖母の驚きの表情には目もくれず、正樹は発言する。
「要するに何かね。犯行に使った凶器が藍川宅の包丁だというのかね」
「おそらくは」壮太は深く頷いた。
「ちょっと待ってくれ。それならさっきの話に矛盾が生じるな」
「それ、どういうこと?」
即座に京子が反応した。壮太には、夫を見つめる妻の目が一瞬だけ好奇に輝いたように見えた。
「だって、ほら。壮太君の話からするとだな、強盗殺人が狙いなら凶器を持っていて当然なんだろう? でも、台所の包丁を使用したとなると……」ここから先は自信がないのか、正樹は周囲に訊ねるように言葉を並べた。「持ち込んだ凶器は殺傷能力が低かった?」
「その矛盾点の問題が、実は犯人が丸腰だったのではないかという一説です」父親が投げかけた疑問はまさに警察も辿り着いて頭を悩ませた、と壮太はつけ加えた。「ご遺体が台所と隣接した居間のソファで倒れていた点も含め、これらの不審点を併せて考えると、紗耶子さんは一度、犯人たちを家に招き入れ、そこで何らかのトラブルに巻き込まれたのではないか、という見方もできるわけです。少なくとも犯人は、台所までずかずかと上がり込んでいるわけですから、顔見知りだという考えを捨てきれないのです」
「そこまでわかっているのに、犯人は捕まっていないのだろう」父は酔いが回ってきたのか、興奮気味に問う。
壮太は無言で顎を引いた。
「はい。今も尚、全力で捜査に当たっていますが、目立った進展はありません」
「では、なぜ今そんな話をするんだ」正樹は視線を横にずらして美織をとらえた。「お前の言う犯人の目星とやらはどういうわけだ? 犯人は誰なんだ?」
「それをこれから皆で話し合うのよ」
「話し合うだぁ?」正樹は鼻で笑う。「警察が調べてもわからないことを素人の俺たちが殺人犯を特定しようというのか?」
「そうよ。何か不満?」
「馬鹿馬鹿しい。身の程をわきまえろ」正樹は厳めしい顔で言い捨てた。赤く染まった切り株のような首を掻き、京子に顔を向けた。「なあ、母さん」
母親は黙っている。夫を一瞥する素振りも見せなかった。宝くじの話題を持ちだした時の元気はとうに消え失せていた。
なかなか意見を述べないことに苛立ちを覚えた父が、箸で生肉を鍋に放りつつ「お前からも何か言ってやれ」と急かした。京子はようやく口を開いたかと思えば、「そうですね」と、浮かぬ顔つきで生返事しただけだった。
大袈裟に嘆声を漏らした満子が、「困ったもんだね」と低い声で切り込んできた。「正樹の言う通りだよ。美織、またどうしてこんな時に昔の事件なんて蒸し返すんだい。犯人捜しは壮太さんたちの仕事だろうに。あなたからもこの子に何か言ってあげてくださいな」
壮太は困惑した。動揺して鼻の下を指で拭った。大粒の汗をかいていた。
「は、はい。僕も何度か反対意見を提示しましたが、話を聞くところによると、何でもこの家に事件解決の手掛かりが眠っているかもしれないと言うものですから……」
突如室内に鈍い衝撃音が鳴り響いた。一人を除いて全員が同時に肩を震わせた。正樹が円卓に向かって勢いよく拳を振り下ろしたのだ。
「壮太君、君の言っていることがよくわからんのだがね。美織、お前もお前だ。何を言い出すかと思えば、八年前にお隣で起きた、あの忌々しい殺人事件を解くヒントがこの家にあるだと?」彼は缶ビールを大きく傾けて、空になったそれを片手で握り潰した。「それはどういうことなんだ。わかりやすく説明したまえ」
壮太はたじろいだ。「……お、お父さんどうか落ち着いてください」
「この状況で落ち着いてられるか」正樹は誰に対してでもなく、くそがっ、と悪態をついた。太い腕を組むと美織を睨みつけた。「つまりあれか、お前は家族の中に殺人犯がいるとでも言いたいのか」
ひしゃげた空き缶に注意を向けていた母が小声で言う。
「あなた、おかわりは?」
「もう一本だぁ!」
怒り任せに吐き捨てた。がなる父親の迫力に、壮太はぴんと背筋を伸ばした。力を入れた尻に汗をかいている。椅子の座面が焼けるように熱い。