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例年通り梅雨入りした六月上旬、夏服が場違いなほど、その夜は冷え冷えとしていた。
あれから数年経つが、ソファの上の血だまりで仰向けに横たわる藍川紗耶子の姿が脳内から消えたことがないという。以前、そのように語っていた美織の落ち込んだ顔を、藤村壮太は忘れたことがなかった。
ひょんなきっかけで殺人現場に居合わせた人物をこれまで何人も見てきたが、彼女みたいな顔をする人はいなかった。
どんな表情だったかを一言で言えば、――絶望的に追い込まれた失笑顔。
空虚を一望できる窓枠から、更に奥の囲い枠の中の空虚を眺めるような無気力な目をしていた。窓枠が幾重にも連なる先は、蛇腹を象った果てしない生き地獄。想像するだけで精神崩壊を引き起こしそうだった。事件を語る彼女は、終始薄ら笑いを浮かべていた。
妖気の漂う顰笑だ。あれは、どういう感情の笑みだったのだろう。自分の見たそれが信頼を寄せる恋人ではなく別人だった、と壮太は思い込みたくなった。美織が体験した惨事は、のちに熱海女子高生強盗殺人事件として世間を騒がせた。
八年前の六月二日午後五時頃、女子高生が自宅の居間で遺体となって発見された。冨永家の隣の住宅で起きた痛ましい事件だ。被害者の紗耶子は今春より熱海高等学校に通い、十六歳になったばかりだった。
死因は鋭利な刃物で胸や腹部を刺されたことによる失血死。胴体の白シャツには、赤子の握り拳くらいの赤黒い斑模様が点々とあった。刺し傷は十数箇所。中には内臓を突き破って背中にまで達するものもあった。辺りは一面、血糊で染め上げられ、被害者の悲痛な叫喚を体現しているような酸鼻の地獄絵だった。
発見時には既に亡くなっていた。犯人と争ったような外傷や着衣に乱れはない。死亡推定時刻は午後四時三十分から五時のあいだ。早期発見だったことで、犯行時刻もここまで絞り込むことができた。状況から見て殺人現場はリビングルームだと断定した。
犯行に使用された凶器は姿を消していた。犯人自身が持ち去ったと考えられる。その後の司法解剖で凶器と思われるのは家庭用包丁だと結論づけられた。
遺体の周囲には丸められた新聞紙が雑然と散らかっていた。その紙の玉には所々に血痕が付着しており、DNA鑑定で藍川紗耶子のものと一致したことがわかった。犯行に及んだ際に返り血を浴びた犯人が拭き取ったのだろう。室内に干していたとされる一枚のタオルにも、血を拭った痕があり床に放置されていた。
丸まった新聞は遺族の証言で、テーブルに置かれていた朝刊だと判明する。が、その日発行された一紙当たりの枚数が、散らばった新聞紙の塊の数では足りなかった。残りの一部を犯人が持ち去ったと考えられる。新聞から藍川一家以外の指紋は検出されなかった。
現場検証の結果、家中の窓にはすべて鍵がかかっており、侵入経路は唯一鍵が開いていたとされる玄関口である。逃走もここからだろう。殺害場所のリビングの戸から抜け、玄関までの一直線上に、被害者の血痕が見つかったからだ。犯人の靴下に付着したものだ。血がついていたのは右足踵の部分だと後の調べでわかった。
外部から押し入った形跡は玄関に集中していた。しかも、家族四人以外に複数種類の足痕跡が発見された。
二階の被害者の部屋がひどく荒らされていた。本棚にきっちり並べられていたという書籍類が床に散乱していたり、クローゼットの扉も開放され、ハンガーにかけられていた衣類は無造作に引っ張り出されていた。侵入者が物色したと考えられる。
尚、同階の別室、――次女の真由子の部屋は無事だった。
更には遺体の側に落ちていた財布の中が空っぽだった。遺族の話では紗耶子本人の持ち物で間違いないとのことで、前日に母親が小遣いを渡したばかりだったという数千円の現金は、被害者の通学鞄や衣服を調べたが見つからなかった。
数々の遺留足跡が広範囲に亘って発見されていながら指紋は一点たりとも残していない。それに犯行における要員の担当割り振りも徹底されている。手抜かりのない綿密な計画性が窺えた。