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木製のテーブル席の中央には鍋が湯気を上げている。それを囲むようにして冨永美織の右隣に婚約者が腰掛けるのを始め、満子、正樹、京子、晴斗の席が円状に用意されている。普段は五人分だが、いつもより一席多いので両側の隙間は窮屈に感じた。
以前に壮太が初めて両親と顔合わせした時に指摘された。このテーブルがどうも珍しいらしい。彼だけでなく初見の人は中華料理店みたいだ、と必ず例える。
実際に卓子の面は二重構造で設置され、大小と異なる円状の板がドーナツ型に重なっている。ドーナツの空洞に当たる円板は、調味料や料理を皆で取り分けられるようにターンテーブル式になっているし、卓袱台のように地面に直接座る方式ではなく椅子にかける仕組みなので、まさに例の店そのものである。すべての椅子の座面と背もたれは布張りでふっくらしている。夏場は熱がこもりがちになるのが難点だ。冨永家は昔からこの円卓一式を愛用していた。
「じゃあ、改めて壮太君と美織の婚約を祝して、乾杯」
開けたばかりの缶ビールを天に掲げる父の合図で、一斉に鍋をつつき始めた。正樹は酒を喉に流すと、「こんな遠いところまで、ありがとう。長旅で疲れただろう」壮太に労いの言葉をかけた。
「遠かったですが、久しぶりに故郷に戻ったみたいで心が安らぎました」
「壮太君は以前こっちに住んでいたことがあるんだってね。美織に聞いたよ。お母様はお元気なのかい?」
「はい。おかげ様で。現役で介護施設の役員として頑張っています。骨身を惜しまず働いてきた母には、そろそろ楽な暮らしをさせてあげたいのですが、本人が動いていないと気が済まない性分でして」
正樹は、ははは、と大口を開けて品のない笑い方を披露した。「じゃあお父さんとは、あれっきりなのかい?」
「ちょっと、お父さん」父の不躾な質問に美織は鋭い目を向けた。
「何だ、いけなかったか」
「いえ、大丈夫です。隠すことではありませんので」
ずかずかと人の過去に踏み入る父を壮太は寛容に振る舞った。余裕のある紳士的な対応は、彼の善良な人柄が表れていた。その様子を間近で見つめる美織は、付き合い始めてすぐに打ち明けてくれた侘しい家庭事情を想起した。
壮太が高校時代に両親は離別し、卒業とともに母親と二人で上京している。離婚の原因は〝父親の落魄〟とだけ聞いている。底に沈んでいった父は這い上がろうとしなかった。家族への裏切りが許せない、とひどく恨んでいるみたいだった。
壮太の母は婚前に取得していた介護福祉士の資格が役に立ち、都内の介護施設で食い扶持を得ることができた。とは言え、薄給なうえに貯えもなかったから暮らしに余裕はない。新しい生活拠点となった、下北沢駅近くの築二十七年になる2DK。年頃の壮太にせめて自室を与えてやりたいという親心から二部屋以上の条件で探した、決して安くない物件だ。更に、いざという時のための貯蓄への捻出もやっとのことで、貧困に変わりなかった。
ぎりぎりの生活で母親に支えられた壮太は、アルバイトを掛け持ちしながら勉学に励み、警察官採用試験に一発合格を果たし警察学校に入校したのだそうだ。辛酸を嘗める環境下で育った壮太だからこそ、他人に対しての思いやりが深いのかもしれない。その点は母の長所を受け継いだのかまではわからない。けれど、もっとも人の冷たさも温かさも、刑事という仕事を通じて誰よりも肌で感じているだろう。
美織は父に名を呼ばれ、回想から舞い戻った。
「お前に壮太君のような人が見つかって父さんは安心したよ」
奥の台所でうろうろする京子が後に続いた。「高校卒業してから地元を飛びだした時は心配だったわ」
両親は美織が大学に行くものだと信じ込んでいた。当時の担任教諭からも強く進学を勧められていたからだろう。でも本人はその気がなかった。
早く家庭を持つためにはどうすれば良いか、と頭の中は計画的な結婚一色だった。そのためにはさっさと社会人として身を置き、数多くの男性と知り合うのが何よりも近道だ。職場内でもなるべく異性と接する機会が多いことに越したことはない。働きつつ恋愛できるなら本望である。十代の少女なりに捻りだした構想案だった。そこで辿り着いた職業が結婚相談所というわけだ。
家を出ようと決意した頃、美織の野望に断固として反対を示していた父。そんな父親を前にして娘を援護し、説得に荷担してくれた母が優しい口調で述べた。
「東京で結婚相談所に務めて、苦労と努力を積み重ねて何組ものカップルを成立させてきた報いが、こうして壮太さんとのご縁を引き寄せたに違いないわね。あんたの夢が叶ってくれてお母さんも嬉しいわ。みおちゃん、本当におめでとう」
改めて両親からの温かい祝意を受け取ると、美織は嬉しさのあまり表情がほころんだ。都内で両家の顔合わせにいった時にも感じたが、日を追う毎に嫁に行くという実感が湧いてくる。右側の席では未来の旦那が背筋を伸ばし固まっていた。父母の言葉に、彼なりのプレッシャーを感じているのかもしれない。
そうだといいのだが。きっと彼は、別種の緊張に追い詰められているのだ。いつあの話を切り出そうか。どうやって事件の話に結びつけていくか。そんなことを考えているに違いない。
「そういえば美織の高校時代の話になるがな」正樹は上機嫌に舌舐めずりする。「今だから笑って話せるが、あの妙な部活動に入部した時は、お父さん本気で心配したぞ」
「妙な部活? 僕は初耳ですね。美織は何部だったんですか?」間髪入れずに壮太が訊く。
「ちょっとやめてよ、そんな昔話」
「いいじゃないか」父は腕を組んで言った。「確か……アイブだったかな」
「アイブじゃないわよ、『愛』の部活と書いて、愛部よ。お父さんが言ったら違う意味になるし、どこか語音が卑猥よ」
恋愛部、別称〝愛部〟とは、単なる恋に興味津々な生徒の集まりだった。入部した美織は部長を務めた。活動内容と言えば、恋愛小説や漫画を読み漁ったり、その路線で流行する話題のドラマや映画の展開を予想して共感し合う。また、二十代女性情報誌の性行為を特集した記事を部員たちと回し読みするのが醍醐味でもあった。性的な関心があっても異性との密な交流は未経験者だった彼女は、鼻の穴を膨らませ触れ合う男の肌や呼吸の温度をたんまり空想したものだ。思い出すだけで紅潮する美織だった。