第5話 世界の真実
アテネとイリサが、ぱしゃぱしゃと水飛沫を上げながら駆けてくる。魔法で防いだのか、二人とも濡れていなかった。
「勇者様!」
せっかくきれいなままなのに、構う事なくイリサは耕平に抱きつく。
「良かった……良かったです、勇者様……!」
「あの魔物達が一瞬で瀕死状態になってしまうなんて……さすがです、コーヘイさん」
「水じゃないわよね、これ。なあに? 何だか、ヌルヌルする……」
足元の液体を手ですくいながら、ティアナが問う。
耕平は口の端を上げて笑った。
「家庭の友、害虫駆除の神器……中性洗剤さ」
「チューセーセンザイ……?」
聞きなれない言葉に、ティアナもイリサも首をひねっていた。
囚われていた街の人々は、おどおどと辺りを見回していた。暗闇とクモの死骸に怯える者も少なくない。
「いやあっ! 助けて……ママ……!」
パニックを起こし叫ぶ子供に、耕平は歩み寄る。
「もう大丈夫だよ。君達は、助かったんだ」
「おにーさん、だれ……?」
キョトンとする子供に、耕平は微笑みかけた。
「アテネの友達だよ。おれたちを連れて、彼女は君達を助けに来たんだ」
「アテネ……エルフさんの……?」
女の子は、目を丸くして、アテネを見上げる。他の人々も、耕平の話を聞いてさざめき合っていた。
「アテネが俺達を助けただって?」
「本当に? 人間なんて他人事の、あのエルフが?」
「私、彼女の姿を見たの初めてだわ。おばあさんから聞いた話ばかりで……」
「あのエルフのねーちゃん、アテネって言うの?」
困惑の言葉が飛び交う中、助けられた住民の一人が言った。
「あのエルフが、街に穢れを持ち込んだんだろう。俺達まで巻き込みやがって」
「な……っ」
耕平とティアナの声が重なる。
しかし、二人が言葉を発するよりも早く、幼い声が彼を咎めた。
「助けてもらったら、お礼言わなきゃいけないんだよ」
先ほどの、小さな子供だった。その子は立ち上がり、アテネに向かってぺこりとおじぎした。
「助けてくれてありがとう、エルフのお姉ちゃん」
顔を上げ、にっこりと笑う。その子に続くようにして、他の者達もアテネにお礼を言い始めた。
「俺も、ありがとう。もうダメかと思ってたよ」
「私、エルフって誤解してたかも。優しくて勇気のある種族だったのね」
「俺も。もっと気難しくておっかない魔女みたいなものが住んでるのかと思ってた」
「ありがとう、アテネ」
「アテネさん、ありがとうございます」
街の人々はアテネを取り囲み、口々に礼を述べる。
耕平は大きくため息を吐き、ヘロヘロとしゃがみ込んだ。
「コーヘイ?」
「良かった……あんな無責任な事言っちゃって、アテネを傷付ける事になったら本当にどうしようかと……」
中には助けられてもなおアテネや廃墟の街へのイメージをぬぐい切れない者もいるようだが、それは決して多数派ではなかった。
誤解を続けている者達も、アテネが人々と関わるようになれば、アテネの人となりも分かるだろう。和解まで、きっとそう長くはかからない。
耕平に合わせるように、ティアナが正面にしゃがみ込んだ。
「……ありがとね、コーヘイ」
耕平は首をかしげる。
「なんでティアナが礼を言うんだ?」
「だって、あんな風に言ったの、アテネさんのためだけじゃないでしょ? 私やイリサのためでもあったんじゃないの?」
「え……」
周りと異なる存在だから、居場所を失った。思えばそれは、ティアナやイリサにも当てはまる事だった。
イリサも、ティアナの隣にしゃがみ込む。
「ありがとうございます、勇者様」
「そんな……俺はそんな、たいそうな人間じゃないよ。アテネの事だって、自分のためだったんだ」
アテネと街の人々は、アテネの遺跡研究について話していた。
廃墟の街は決して穢れなんかではなく、ただの古代文明の遺跡なのだとアテネは熱く語っている。研究について話すアテネは、生き生きと輝いて見えた。
「かつての文明には、文字もあったんですよ。看板の文字はほとんど剥がれて読めなくなってしまっているのですが……。あ、そうだ。同じ文字が書かれた紙を、この街で拾ったんです。恐らく、私と同じように研究に来た人が落として行った物だと思いますが……でも、一部が人間ともエルフとも違った技術で書かれていて……」
そう言ってアテネが取り出したのは、くしゃくしゃに丸められた紙だった。
広げると、紙は二枚に重なっていた。四角い枠と、その上にある二行の文字が見える。
「え……?」
耕平は目を見開き、立ち上がる。
「コーヘイ?」
耕平は、アテネを取り囲む人々の輪に割って入った。
アテネが気付き、振り返る。
「ご紹介が遅れましたね。この方々は――」
「アテネ、その紙を見せてくれ!」
「は、はい」
耕平に気圧されるように、アテネは紙を差し出す。
この世界ではなかなか見かけない、真っ白できっちりA4くらいのサイズに切り分けられた紙。二枚は同じ内容だった。広げられた中央にあるのは、真っ白な四角い枠。
そして、その上にある『文化祭看板デザイン案』と『柴田耕平』の文字。
「なんで……これが、ここにあるんだ……!?」
チクチクと、脳の奥を何かが刺激する。
一定に連なる窓枠。
屋根の向こうに見えた背の高いシルエット。
狭い階段と天井の低い通路。吹き抜けを貫くように設置された金属製の箱。
トンネルのように細長く、中央だけが高い台になったこの空間。
看板に残っていた小さい四角と、「リ」のような形――あれが、文字の一部だとしたら。
「まさか……!」
「コーヘイさん? どうなさったんですか?」
アテネの問いかけにも答えず、耕平は人垣を掻き分けて駆け出した。
「あ、戻って来た。いったい……」
声をかけようとしたティアナとイリサの横を走り抜け、階段を上って行く。二人の呼び止める声が聞こえたが、構いはしなかった。
あのプリントは、耕平が学校で貰ったものに間違いなかった。文化祭の看板のデザインを任され、提出用紙として渡されたもの。
ホームの端にある階段を、耕平は駆け上がる。
階段を上ると、すぐに左へ。元来た道へ。
改札はない。
エスカレーターも、日本語で書かれた看板も、ここがどこだかすぐに判るようなものは、片っ端から粉々になるか剥がれ落ちるかしていた。
大グモは皆、息絶えていた。
すぐにまた短い階段があって、狭い通路を抜けると、外へと繋がる広場に出る。
地上と吹き抜けになった道路。円を描くようにして地上へ出る広い道。いたる所にある地上への階段。
手近にある階段の一つを、駆け上がる。
息が上がる。足が重い。
空はもう、白々と明け始めていた。
目の前に広がるのは、廃墟の街。窓も液晶も割れ、壁や地面もあちこちでヒビ割れ崩れている。
ぐるりと回るような広いロータリー。その向こうに見えるのは、大きなビル群。特に目立つのは、手前の建物よりも一際高く、細長い卵のような特徴的な形のビル。
「ウソ……だろ……?」
廃墟となったのは、古代文明などではない。
耕平の生まれ育った世界だった。
そして、アテネの持っていたプリント。シャーペンで書いた文字が、何十年何百年と残っているはずがない。
『転生したこの世界、存分に楽しむがいい』
男の声が、脳裏をよぎる。
耕平はトリップした訳でも、タイムスリップした訳でも、ましてや転生した訳でもなかった。
「転生したのは……世界の方だったんだ……」
誰に迷惑がかかる訳でもない。この新しい世界でなら、何でもできる。
――そう、思っていた。
耕平が希望を抱いたこの世界は、多大な犠牲の上に作られたものだった。




