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【外伝】侯爵家の”恩寵”

2025年の年末に、思いがけず多くの方に本作第1部をお読みいただくことができました。

ありがとうございました。

折角なのでこの機会に頭の中にありつつも形にできていなかったエピソードを外伝として公開いたします。

第3部の外伝「レディ・グレイスのお気に入り」と対になる話です。

 1891年、レディ・グレイス・モントローズ=ハーコートは、当代のウェクスフォード侯爵の唯一の娘として、サセックスにある侯爵家のカントリー・ハウスで生まれた。

 侯爵夫妻に三番目の男の子が生まれてから7年後、夫妻がこれ以上の子供を持つことを諦めていたときに思いがけず生まれた子だった。

 侯爵が彼女に”恩寵(グレイス)”という名を与えたのは、そういう経緯からだった。


 それから、レディ・グレイスは、侯爵家の家族の愛情を一身に受けて育った。

 侯爵と侯爵夫人は、”恩寵”として迎えた彼女を一般的な貴族の令嬢よりも数段自由に育てた。

 三人の兄たちも、両親にならって、彼女がしたいことには大抵付き合ってくれた――それが上流階級のレディに許容される範囲を多少逸脱していたとしても。

 

 そして、1908年、17歳になったレディ・グレイスは、社交界にデビューした。

 不幸にもその2年前、彼女が15歳のときに母である侯爵夫人は病で亡くなったが、彼女のデビューにあたっては、父や兄たち、そして、親戚の夫人たちが喜んで世話をしてくれた。

 家族や親戚はレディ・グレイスの社交界デビューが成功を収めることを確信していたが、彼女がデビューから半年足らずで十人以上の熱心な求婚者を得たことにはさすがに驚いた。

 

 彼女に多くの求婚者が群がった理由の第一は、もちろん、家柄と財産のためだった。

 名門ウェクスフォード侯爵家の令嬢を妻に迎えれば、莫大な持参金と侯爵家の広い人脈が付いてくる。

 野心家の貴族たちは彼女を放っておかなかった。

 

 第二には、彼女の美しさのためだった。

 ウェクスフォード侯爵家の兄妹たちは、いずれも輝くアッシュブロンドの髪と高貴な青みがかった灰色の瞳を持っているが、レディ・グレイスのそれは格別だった。

 レディ・グレイスの豪華な巻き毛は古典派の画家が描く神話の女神のようだったし、彼女の均整の取れたアーモンド形の大きな瞳に見つめられた紳士は彼女の美しさを称揚せずにはいられなかった。

 

 そして、第三には、彼女の実利的な性格のためだった。

 これまでの二つの理由は求婚者の数に影響したが、この第三の理由は彼らの熱心さに大きく影響した。

 実利的なレディ・グレイスは、結婚相手候補の紳士たちの前では、その自由な育ちを巧みに隠した。

 ただの恥じらいや慎みではなく、確かな戦略に基づく選択だった。

 彼女は一刻も早く侯爵家に栄誉と利益をもたらす結婚をしなければならないと考えていた。

 それこそが”恩寵”として生まれた彼女が侯爵家において果たすべき役割だからだ。

 そういうわけで、彼女は紳士たちの前で理想的な令嬢を演じ、紳士たちはそんな彼女を是非妻に迎えるべく日々熱心に求婚するようになった。

 

 そうして、彼女はデビューから半年の間に十人余りの求婚者を得て、彼らの地位と財産を比較検討した上で、最も望ましい相手であるコーヴェンリー伯爵のプロポーズを承諾することにした。

 大貴族であり年老いてなお議会で影響力を持つ侯爵の令嬢と英国貴族の中でも屈指の豊かな収入を誇る伯爵家の若き当主の婚約は、その年の社交界の羨望の的となることが確実だった。

 二人の婚約はすぐに両家に認められ、婚姻契約が調い次第、正式に発表されることになった。

 これで侯爵家に”恩寵”をもたらすことができるとレディ・グレイスはようやく息をついた。


 ***


 しかし、実際には、そうはならなかった。

 本当に小さなことの積み重ねだった。

 

 婚約が内定した後、レディ・グレイスとコーヴェンリー伯爵は家族に準ずる付き合いを始めた。

 その中で、レディ・グレイスはたくさんの小さなことに気づかないふりをした。

 しかし、どうにも誤魔化せない瞬間が――強いて挙げるとすれば三度あった。


 一度目は、コーヴェンリー伯爵を含めた友人たちと馬で遠乗りをしたときだった。

 乗馬好きで巧みに馬を操るレディ・グレイスは、道中にあった柵を騎乗したまま軽々と飛び越えた。

 しかし、後になって伯爵は言ったのだ。

 「もうあんな危ないことはしないでください」と。

 もちろん、レディ・グレイスは控えめに微笑みながら頷いた。

 しかし、頭の中には、数年前に騎乗して柵を飛び越える方法を教えてくれた長兄ジョンの「君ならできる。諦めるな」という言葉が響いていた。


 二度目は、コーヴェンリー伯爵の前でヴァイオリンを弾いたときだった。

 ある夜、ごく内輪の音楽会でレディ・グレイスはヴァイオリンを披露した。

 それを聞いた伯爵は言った。

 「私は、ピアノやハープを弾くあなたの方が好きだな」と。

 レディ・グレイスは、音楽教育に熱心だった母の影響でピアノとハープ、ヴァイオリンを弾くことができた。

 ピアノやハープに比べると、ヴァイオリンはレディの嗜みとして少し珍しいのは事実ではあった。

 そこで、レディ・グレイスは穏やかに「では、次はピアノかハープを演奏いたしましょう」と言った。

 しかし、音楽会に同席していた次兄のヘンリーが「やはりどの楽器を演奏しても君の感性は一貫しているんだな」と呟いたことが妙に心に残った。


 三度目は、侯爵家のハウスパーティーに招かれた伯爵が侯爵家の屋敷に滞在していたときだった。

 ハウスパーティー三日目の午後、レディ・グレイスは応接間で三兄のアルバートと今後の英国社会のあり方についての議論――二人の間で度々議論されるテーマだ――につい熱中していた。

 そして、彼女が兄への反論を並べていたときに、いつの間にか傍に来ていたコーヴェンリー伯爵が言った。

 「お兄様に敬意を払った方が良いのでは、レディ・グレイス」と。

 やはり、レディ・グレイスは反発しなかった。

 ただ、「おっしゃる通りですわね」と言って口を噤んだ。

 しかし、その場でアルバートが「いえいえ、構わないのですよ。私は彼女の考えをよく知りたいのですから」と伯爵に言ったのを聞いて、胸に重たいものを感じた。


 ***


 小さな違和感が積み重なっていく中で、レディ・グレイスは毎晩のように考えた。

 この違和感を払拭する術はあるのだろうか。

 

 例えば、これまで社交界でそうしてきたように、彼の前では別の自分を演じたらどうだろう。

 貴族の夫婦であれば、相手に見せるべき自分とそうでない自分を選ぶのは何もおかしくない。

 しかし、自分の中の何かが削られていく気がするのは何故だろう。

 

 もしくは、彼ときちんと話し合ってみたらどうだろう。

 しかし、夫の言うことに異を唱える妻を彼は許すのだろうか。

 彼とはどうにも折り合える可能性を見出せないのは何故だろう。


 結局、現実主義者のレディ・グレイスは、これは自分の手に余る問題だと判断した。

 そうなると、彼女が頼れるのはただ一人だった。


 父ウェクスフォード侯爵に婚約を解消したいと申し出たとき、レディ・グレイスは当然その理由をきちんと説明できるよう準備していた。

 しかし、父は何も尋ねず、ただ「二週間待て」と言った。

 そして、父の言った通り、ちょうど二週間後にコーヴェンリー伯爵家から婚約解消の申し入れがあった。

 ウェクスフォード侯爵家はそれを承諾した。

 レディ・グレイスの名誉も侯爵家の名誉も、そして、相手方の伯爵家の名誉ですら傷つかず終わった。

 老練な政治家らしい見事な幕引きだった。


 ***


 婚約解消が正式に決まってから数日経ったある日の夜、家族だけのディナーの後、レディ・グレイスは父の書斎に呼ばれた。

 きっと叱られるのだろうと思った。

 父は”恩寵(グレイス)”と名付けた彼女を叱ったことは一度もないが、今回ばかりは叱られずに済むはずがない。


 レディ・グレイスが書斎に入ったとき、父はまず、彼女に座るよう勧めた。

 彼女は父が座っているソファの向かいの長椅子に腰を下ろしながら、きっと長い叱責になるのだろうと身構えた。

 しかし、彼女に与えられたのは問いだった。


「グレイス、今度のこと、お前はどう考えている?」


 父は手に持っていたブランデーのグラスを傾けながら言った。

 口調は真剣だが重くはなかった。

 レディ・グレイスは、今夜のディナーから引き続き身に着けているシルクのイブニングドレスの青い花模様を見ながら暫し思案した。

 そして、一度ゆっくりと瞬きをしてから口を開いた。

 

「お父様に……そして、お兄様たちにもご迷惑をおかけしました」


 侯爵は少し眉を上げた。


「なるほど、お前はそれが一番に出るんだな。面白い」


 父はブランデーを一口飲んでから続けた。


「ジョンなら『不徳のいたすところです』、ヘンリーなら『とにかく良かったと思っています』、アルバートなら『本当にこれで良かったのか、未だに考えています』と言うだろうに」


 レディ・グレイスは、口元に浮かびそうになった笑みを何とか抑え込んだ。

 まさか三人の兄たちが自分と同じ状況に陥ることはないだろうが、彼らがいかにも言いそうなことだった。


 一方の侯爵はそんな娘を見て僅かに微笑んだ。


「お前は自分の役目は我が家にとって名誉な結婚をすることだと考えていたのだろう?」

「おっしゃる通りですわ、お父様。でも、ごめんなさい。自分のやるべきことはわかっていたのに、直前で怖気づいてしまいましたの」


 レディ・グレイスは、父の背後の壁の侯爵家の先祖たちの肖像画を見ながら、膝の上で両手を握りしめた。


「彼と結婚すれば確実に当家にとって名誉な結婚となったはずなのに、それに合わせて自分を変える勇気が持てませんでした」


 娘の言葉に侯爵は深く頷いた。

  

「なるほど。まあ、結婚でも何でも、人生には自分を変える必要がある瞬間が何度か訪れる。それは覚悟しないといけないことだな。だから、私はお前にも、お前の兄たちにも、議会の若造にも、『ありのままで良い』とは言わないことにしている」


 レディ・グレイスは父を見つめ、彼の言葉一つひとつを噛み締めた。

 

 ――お父様の言う通りね。

 ――私は必要なときに自分を変えることに失敗したのだわ……。

 

 彼女はそう考えながら、微かに俯いた。

 しかし、父は意外なことを言った。


「ただ、よく考えないといけないのは『変わることが楽しみか』ということだよ、グレイス。私はお前の母と結婚して、正直、大きな変化を強いられた。……お前も知っての通り、侯爵夫人は私と正反対の陽気なレディだったからね。しかし、変わることは楽しみでもあった。だから、続けることができたんだよ」


 レディ・グレイスは顔を上げ、数回瞬きをした。

 「変わることが楽しみか」なんてこれまで一度も考えたことがなかった。


「でも、お父様、私は自分の楽しみなどどうでも良かったのです。お父様も亡きお母様も、お兄様たちも、これまで私を随分と尊重してくださいました。だから、私は家族に何かを返したかったのです。でも、私はお兄様たちとは違って結婚することくらいしか……」

「お前の意図はわかったが、そこにお前自身の望みはあったのか?」


 父の鋭い問いに、レディ・グレイスは内心たじろいだ。

 名門かつ裕福な伯爵との結婚――それを望まない女性などいるだろうか。

 自分だってそれを望んでいたはずだと今の今まで信じていた。

 しかし、今となってみると、どこをどう探しても自分の望みに適う要素が見当たらない。

 そもそも、自分自身の望みが何だったのかすらわからない。


「そこにお前自身の望みを見出せないなら、変化は苦痛でしかない。苦痛しかないとわかっていながら、自分を変える覚悟をするのは難しいと私は思うがね」


 そう言って父は手元のグラスに視線を落とした。

 父はブランデーに映る自分の表情を観察するように少し目を細めながら言った。


「グレイス、お前は気づいているか?お前の兄たちは一見自由に見えるが、結局、生まれた家と順番に縛られている。一番かわいそうなのは跡継ぎのジョンだ。どう頑張ってもこの家に残って侯爵になることしかできない。他の二人はまだましだが、ヘンリーはジョンの”予備”という役目を負い、アルバートは責任はあるのに役目がない葛藤を背負わされている」


 そして、父はレディ・グレイスを真っ直ぐに見つめた。


「しかし、お前はこの家に予想外に訪れた”恩寵”だ。お前だけはこの家に何も負っていない」

「でも、そうだとすると、私はお父様やお兄様から与えられるばかりで――」


 レディ・グレイスは言いかけたが、父は首を振った。

 

「やれやれ、どうやら私はお前を甘やかしすぎたようだ。甘やかしすぎたために、お前は余計なものを背負ってしまったらしい」


 そう言って父は深くため息をついたが、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。


「お前はこの家に生まれて以来、私たちを大いに幸せにしてくれた。お前は、ジョンに確かな自信を与え、ヘンリーの感性と調和し、アルバートを唯一理解した。そして、この父と母には人生の楽しみをくれた。まさに”恩寵(グレイス)”だ。誰がこれ以上を求めるものか」


 レディ・グレイスは目を見開いた。

 末子で唯一の娘として生まれた自分は、生まれてこの方、家族から与えられてばかりだと思っていた。

 しかし、自分が彼らに何かを与えることができていたのだとしたら――。

 

「いずれにしてもだ、グレイス。四人の兄妹の中でお前が一番自由だ。正直、老いた父としては、公爵夫人にでもなってくれると有難いのだが、若いお前はそうもいかないのだろうね」


 父の問いにレディ・グレイスは肩を竦めた。

 

「ええ、きっとそうはいかないと思うわ、お父様。自分の望みはよくわからないけど、少なくとも、貴族の夫人になることではないのはわかってしまいましたから」

「おやおや、最近の若い娘ときたら。まあ、お前には時間がある。ゆっくりと自分の望みを見つけるといいさ」


 そう言って侯爵はゆっくりと頷いた。

 レディ・グレイスはそれが話の終わりの合図だと知っていたので、父におやすみのキスをして書斎を後にした。

 

 廊下に出たレディ・グレイスは一度深呼吸をした。

 すると、先ほどまであったはずの胸のつかえがすっと消えていった。

 そのまま前を向いた彼女は少し早足で、いつも自然と家族が集まる場所――亡き母侯爵夫人の居間だった部屋へと向かった。

 そこには思った通り――。


「あらまあ、まだ誰も部屋に下がっていなかったの?」


 ディナーの後で着替えもしなかったらしい三人の兄たちが燕尾服のままで何事か議論していた。

 彼らは一斉にグレイスの方に顔を向けた。

 三人の顔には、それぞれに心配そうな表情が浮かんでいた。


「グレイス!君の婚約解消の件を話していたんだよ。落ち込んでいないだろうね?父上はまさか君を叱ったりしなかっただろう?」


 と真っ先に立ち上がって言ったのは長兄ジョンだった。

 

「もっと遠回しに言えないのか、ジョン。単刀直入に聞くことじゃないだろう」


 と呆れているのは次兄ヘンリーだ。


「やれやれ……我々の意見がまとまってから話そうと決めたばかりだったのに」


 と三兄アルバートがため息交じりに言った。


 そんな兄たちを見てレディ・グレイスは思わず微笑んだ。


「落ち込んでいたけれど、もう大丈夫よ。結局のところ、私にはまだ結婚は早すぎたのよ」


 その言葉に三人の兄たちはそれぞれに頷いた。


「グレイス、君は伯爵夫人に収まる器じゃない。今に私たちの中で最も偉大なことをやり遂げるだろう」

「つまらないなあ。私の妹なら最も面白いことをやり遂げてくれないと」

「いや、偉大でも面白くもなくても、グレイスが納得することが一番だ」

「”納得”?人生忙しいんだ。そんなものいちいちしている暇はないさ――」


 と三人の兄たちはまた議論に戻っていった。

 レディ・グレイスもそんな彼らに加わろうと一歩踏み出した。

 しかし、少しの間彼らを眺めているのも悪くないと思い直し、亡き母のお気に入りだったアームチェアにゆったりと腰を下ろした。

 

 ――家のためでも、家族のためでもなく、私自身の望み。

 ――『変わることが楽しみ』になる……そんな望みがどこかにあるのかしら。

 ――それを知るには、もっと広い世界を見るべきなのかもしれないわ。


 そう思案するレディ・グレイスの青みがかった灰色の瞳は、無限に広がる未来を見据えていた。

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― 新着の感想 ―
 グレイス姫のような自由な魂の持ち主に、自分を偽って鳥籠に適応しようとするのは酷なことだったろうと思います。元婚約者は悪意なく、ただ時代と社会と立場が求める態度をグレイス姫に求めただけなのだろうと思い…
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