26.【解決編】誤った責任感①
アメリアの問いかけに、名指しされた執事、ミスター・リーは答えなかった。
沈黙を守っている執事にヘイスティングス警部を始めとした警察はもちろん、侯爵家の家族と使用人も驚愕と疑いの視線を向けた。
彼が10年前に下級執事として侯爵家に仕え始めて以来、特に深く関わってきたウェクスフォード侯爵と元乳母の家政婦長ミセス・モースは明らかにショックを受けている。
また、先ほど今回の犯罪の一部を担っていると指摘されたフットマンのケンの脚はいよいよカタカタと震えている。
しかし、それでもミスター・リーは何も答えなかった。
依然としていかにも執事らしい厳めしいたたずまいを崩していない。
アメリアは彼の態度をさして気にせず話を先へと進める。
「ミセス・モース、改めて伺いますが、<王女の涙>は侯爵夫人がご存命中は侯爵家のお屋敷の金庫で管理されていて、侯爵夫人が亡くなった後にアッシュコム銀行の金庫に移されたのでしたね?」
「はい、おっしゃる通りです、女男爵様。3年前に侯爵夫人が亡くなるまでは当家の金庫で管理されていましたが、侯爵夫人が亡くなった直後にアッシュコム銀行の金庫に預け始めました」
ミセス・モースは淀みなく答えるが、その目には未だにショックの色が浮かんでいる。
「ウェクスフォード侯爵家も世間の例に漏れず、宝飾品の管理は執事の所掌でしょうか?」
「はい、当家でも執事の所掌です。侯爵夫人がお亡くなりになった3年前にはミスター・リーが既にその職にありました」
「ありがとう、ミセス・モース」
アメリアはミスター・リーに視線を戻して言う。
「侯爵家の宝飾品の管理責任者であったあなたであれば、どこかのタイミングでダイヤモンドを偽物とすり替えるのは簡単でしたよね?」
問われたミスター・リーは初めて口を開いた。
「なるほど。犯罪の機会があったという意味ではそうかもしれません、女男爵様。ただ、私は一介の執事に過ぎません。どうやってダイヤモンドに見えるくらい巧妙にカットされたガラスを手に入れることができましょうか?」
ミスター・リーは肩を竦めて見せる。
「それはあなたが侯爵家に仕える前まで就いていた職業に関係しています」
「……というと?」
続きを促すミスター・リーの声には警戒の色が滲んでいる。
「あなたは10年前にガラス職人を辞めて侯爵家の下級執事に転身したのではないですか?」
「まさか私がガラス職人だったなんて……証拠はあるのですか?」
ミスター・リーはアメリアに鋭い視線を向けるが、彼女は身じろぎ一つせず、彼を見つめ返した。
「アルバート卿が働き始めたばかりのあなたと使用人のクリスマスパーティーで交わした会話を覚えていましたよ。まだ少年だった彼が初めてのビールに当てられていたせいで、記憶に不完全な部分がありますが、あなたは下級執事の主な仕事である銀器磨きにはうんざりだが、以前の職業柄ワイングラスなどのガラス磨きであればお手の物だと言ったのではありませんか?」
「――ああ!」
アメリアの背後にいたアルバート卿が不意に叫んだ。
これはアメリアも想定外だったので、彼女の肩は大きく揺れ、思わず彼を振り返った。
他の面々も同じようで、皆アルバート卿を驚きの視線――もしくは、怪訝な視線――で見つめている。
「私は今この瞬間まで、なぜかそのときのミスター・リーとの会話の詳細が思い出せませんでした。どうしてもラテン語の一節と記憶が混じってしまっていたのです。しかし、今わかりました。彼が『ガラス』と言ったからだったんです。だって、私が思い浮かべてしまうラテン語はカエサル伝の一節、"Veni, vidi, vici!"――来た、見た、勝った!――なんですから」
アルバート卿はアメリアを含めて一同を置き去りにして一人で笑っている。
アメリアはこんなに楽しそうな彼を見たのは初めてだった。
「わかりませんか?ラテン語の"vitrum"『ガラス』は『見る』と同じ語源なのです。だから、あのときミスター・リーから『ガラス』という言葉が出たのを聞いて、ビールで酔っていた私は『ガラス』という言葉から、カエサル伝の"vidi"『見た』を連想して記憶の混交が生じたわけです」
アメリアは論理的には彼の言わんとすることがわかったが、ラテン語の素養があるように見えるのはレディらしくないと考え、ただ彼に向けて一瞬視線を送るに留めた。
ただ、理屈はわかっても『ガラス』という単語がそのままカエサル伝に結びつく彼の思考回路は全く理解不能だった――非常に興味深くはあるが……。
つい余計なことを考えてしまったところでアメリアは話の途中だったことを思い出した。
いずれにしても、アルバート卿の記憶が蘇ったことで、アメリアの仮説による推理が補強されたのは良いことだった。
そのとき玄関ホールに速足の足音が響いた。
一人の制服を着た巡査が外から戻ってきたのだった。
巡査は警部と一同に敬礼すると、エヴァレット巡査部長に近づいて行って彼の耳元で何事かを囁いた。
「今、巡査が近所のファーンリー伯爵家まで走って行って、執事のミスター・カルウィックに話を聞いてきてくれましたよ」
「カルウィック?10年前まで当家の下級執事だったあのカルウィックか?ファーンリーの若造に引き抜かれたあの?」
エヴァレット巡査部長が言及した「カルウィック」の名に記憶力に優れた侯爵が反応して声を上げた。
「ええ、そのミスター・カルウィックです。ミスター・リーの母方の叔父で、今はファーンリー伯爵家の執事を務めていらっしゃいますね」
エヴァレット巡査部長は侯爵に向かって丁寧に説明した。
しかし、すかさずヘイスティングス警部が指摘する。
「エヴァレット、どうして勝手に捜査しているんだ?」
「先ほどあちらの女男爵様に頼まれましたので、巡査に運動がてら頼みました。結果的に有力情報を得られましたよ」
アメリアはエヴァレット巡査部長に感謝の視線を送る。
先ほどアルバート卿が皆を集めている間にエヴァレット巡査部長を捕まえて、近所の伯爵家の執事に甥っ子について聞いてきてくれるよう頼んだのだ。
「ミスター・カルウィックによると甥っ子のミスター・ゴードン・リーは元ガラス職人でガラス製品の販売事業にも手を出していたのですが、10年前に負債を抱えてやむなく事業を畳んだそうです」
エヴァレット巡査部長は嬉しそうに報告し、続けて見解を述べる。
「なるほど。それで彼はガラスで精巧な偽物のダイヤモンドの指輪を作って本物とすり替えることができたのですね。それから、ガラスの<王女の涙>を破壊するのに使われたハンマーがガラス職人用だったのもそのせいですね。お屋敷の道具箱は下級執事の管理下にあるので、怪しまれるリスクを冒すよりは自分のものを持参したのでしょう」
アメリアはその見解に微笑みながら頷いた。
「やはり予めダイヤモンドをガラスに擦りかえることができたのはあなたしかいないようですわ。ミスター・リー」
「しかし――」
ミスター・リーは反論しようと口を開くが、アメリアに封じられる。
「ミス・ジョーンズが事前に見破っていなければ、誰もが<王女の涙>は今日盗まれたと思ったでしょう。あなたはそれを前提に警察に<静かなる猫>の犯行だと思い込ませようとしていました。警部はショーケースの鍵の内の1本を侯爵家側の警備責任者であるあなたに預けていましたが、その鍵をわざと大ホールの床に捨てたのもそのためですね?〈静かなる猫〉が鍵を入手できたと考えられる状況を作りたかったのです。ただ、これは犯罪捜査の専門家である警部の目には、かえって不自然に映ったようですが……」
これで状況証拠は揃った。アメリアはいよいよ確信的な口調で話を続ける。
「あなたは一貫して自分のやったことの責任を取りたがっています。今回のことは自分で抱えてしまった負債を自分の手で何とかしようとして引き起こしたのではないですか?」
アメリアは亡き父の言葉を思い浮かべた。
――私は法廷弁護士の職務の中で、自分に課せられた責任から逃げ出す者をたくさん見てきた。
ミスター・リーはある意味でこの彼女の父の経験に反して、自分の不始末に自分で責任を負おうとしている。しかしながら――。
「――でも、他人の宝石で自分の失敗を埋め合わせるなど誤った責任のとりかたと言わざるを得ませんわ」
ミスター・リーは黙り込んでいる。
「そして、同じ論理でフットマンのケンも共犯に引き込んだのではないでしょうか。あなたの言葉に影響されたケンも自分で作った賭け事の借金を自分の責任で返済しようと計画に加担してしまった。そうではないですか?ケン?」
今まで震えているだけだったケンは恐る恐る言葉を紡ぐ。
「……はい、おっしゃる通りです、女男爵様。賭け事で作った借金で首が回らなくなっていた私は、ミスター・リーに自分の行動には自分で責任をとるべきだと諭されました。それで、自分の責任でお金を取り返さなければならないと思い、彼の指示に従いました。ケーキの台座の脚を切って氷を仕込んだのは私です。大量のグラスを持ったまま転んだのもわざとです」
ケンは目に滲んだ涙をお仕着せの袖で乱暴に拭った。
ミセス・モースが同情のこもった視線で彼を見ている。
「そして、逆に責任を回避したいアッシュコム銀行に対しても、『責任』という言葉を巧みに使い、責任の重大さを強調して<王女の涙>を金庫から出すように誘導した。私はそう思っていますわ」
銀行員のミスター・ブルックは黙ったまま神妙に頷いた。
「なるほど……状況はすべて私を指し示しているようです。ただ、女男爵様はご存じないかもしれませんが、状況だけで有罪にすることは難しいと言わざるを得ません。はっきりとした物的証拠がないと英国の陪審員は納得しないでしょう」
ミスター・リーはまだ執事らしい厳めしい表情を崩さないながらも、口元だけで微笑む。
しかし、法廷弁護士の娘でもあるアメリアは静かな微笑みを浮かべた。
「もちろん、存じていますわ。ですから、あなたのポケットをすべて見せていただけませんか?」
その言葉にミスター・リーの表情が一瞬固まった。
「あなたは<王女の涙>が実はガラスだったことを隠すためにハンマーでガラスを割って証拠を隠滅しました。ガラスはその後に作られたガラスの海に紛れ込ませることができましたが、台座についてはそうはいきません。おそらく、台座も元々の指輪のものではなく、似せて作った質の悪い模造品だと思います。しかし、後でガラスのかけらが残っている台座が見つかったらどうでしょうか?すべての計画が露見するおそれがあります――」
アメリアが言葉を続けている間に素早く動いたのはヘイスティングス警部だった。
固まっている執事に「失礼」と声をかけて、彼の上着を脱がせるとありとあらゆるポケットに手を入れた。
そして、警部が取り出したのは――。
「ありましたよ!ぺちゃんこになった台座だ!おっしゃる通りガラス片が少し残っているようだ」
警部の大きな声が玄関ホールに響いた。
「――だから、あなたはこうして今まで持っているほかなかったんです。賢明な警部がこのタウンハウスを封鎖して、警官たちがずっとお屋敷の中や敷地内を捜索しているので、迂闊に捨てることもできなかったのですから」
ミスター・リーはがっくりと膝をついてうな垂れている。
もはや侯爵家の厳粛な執事の彼はいなかった。
「リー、どうしてなんだ。10年間よく仕えてくれただろう?」
侯爵が執事に問いかける。
「複利のせいでございますよ。借用書をよく読まなかった私は、複利で金を貸す悪徳高利貸しから金を借りてしまったのです。負債が膨らみすぎてお給金だけでは返しきれず、自分で何とかしようと、"役得"として認められる範囲でワインの空き瓶やコルクを売りましたが、それでも足りなかった……」
「なんということだ……しかし、こうして今当家の執事を続けているということは、まだ本物の<王女の涙>は手元にあるんじゃないのか?あんな大きな宝石を不用意に売ることはできないから、結局は職に留まるしかなかったんだろう?せめてそれを返してもらえないだろうか?」
侯爵は威厳を保ちつつも、執事を優しく問いただした。
「――ああ!」
しかし、声をあげたのは家政婦長のミセス・モースだった。
「口を挟むことをお許しください、侯爵様。しかし、ミスター・リーはつい一か月くらい前から"役得"を若者たちに譲っています。それは、つまり……」
「ミセス・モースの言う通りですよ。つい先月ようやく闇市場で売る算段がつきまして、売ってしまいました。そして、執事の職も今回の盗難事件の責任を取る形で退職する計画でした……」
ミスター・リーは皮肉に言うが、その表情は後悔に沈んでいた。
侯爵は絶望したように椅子に座り込んで頭を抱えている。
「侯爵様、諦めないでください」
ミス・ジョーンズが侯爵の下に歩み寄って元気づける。
「私の父は宝石業界の表にも裏にも通じております。かならずや、<王女の涙>を見つけ出して買い戻し、それを持参金にしましょう。早速、父に電報を打ちます」
ミス・ジョーンズがそう言ったのを聞いたロスマー子爵は、「下級執事かフットマンを捕まえて電報を打たせよう」と言いながら彼女と共に大ホールに向かっていった。
「さて、ミスター・リー。警察本部まで来てもらいましょう。こうなった以上すべて正直に話すことが今のあなたの一番重要な『責任』だ」
警部に指示された二人の警官がミスター・リーを屋敷の外へと連れ出していった。
その後からケンも自分の意思で後に続いていく。
ミスター・リーは一度だけアメリアを振り返ると、そのヘーゼルの瞳を見て苦笑した。
なぜなら、その瞳にはもはや断罪や非難の色は浮かんでおらず、ただ今度こそ正しく責任を負ってほしいという祈りだけが見て取れたからだった。




