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1. 【プロローグ】継承①

 1909年、6月のある日の夕方――。

 

 メラヴェル女男爵ことアメリア・グレンロスは、ロンドンのウェクスフォード侯爵家のタウンハウスの荘厳な玄関ホールで、侯爵家の先祖の立派な肖像画を背にして立っていた。

 彼女の目の前には、ある事件の関係者たちが揃っている。

 

 彼らはこれから彼女が語る推理に耳を傾けてくれるだろうか。

 それとも、警察でも探偵でもない若い女性の想像だと一笑に付されてしまうだろうか。

 

 鼓動はいつもより早かった。しかし、そのヘーゼルの瞳はいつも通り知的に輝いていた。

 彼女が一度だけ目を閉じると、何故かその瞼の裏には、今後ろから彼女を見守ってくれている彼の瞳の色が映った。

 彼女は一つ息を吐いてから口を開く。


 「紳士淑女の皆さま、お集まりくださりありがとうございます」


 彼女が語るのは、彼女自身のためでもあり、彼のためでもあり、ここにいる全ての人のためだった。

 そして、何より真実のためだった――。


 ***


 ――全ての始まりはアメリアがまだただの"ミス・アメリア・グレンロス"だった頃にさかのぼる。


 メラヴェル男爵家の事務弁護士ミスター・ラドラムがまだ19歳のミス・アメリア・グレンロスとその母ミセス・グレンロスを彼女たちが住むケンジントンの屋敷に尋ねたのは年が明けクリスマス休暇も明けた1909年の冬のことだった。

 

 そのケンジントンの屋敷はミス・グレンロスの亡き父でミドル・テンプル所属の勅撰弁護士だったミスター・グレゴリー・グレンロスが妻子に遺した屋敷だった。

 ミスター・グレンロスは、アメリアが15歳のときに流行病で亡くなったが、彼の存命中からグレンロス家はずっとこの屋敷に住んでいた。

 この屋敷は故ミスター・グレンロスが相当に成功した法廷弁護士――しかも勅撰弁護士――だったことだけでは説明がつかないほどに立派な屋敷で、中産階級のグレンロス家には不相応なほどだった。

 しかし、ミスター・ラドラムは、その理由はミスター・グレンロスの職業ではなく出自にあることを知っていたので、広い玄関ホールにもさして驚きもせず、出迎えたグレンロス家の家政婦長兼料理人であるミセス・ボウルに続いて廊下を応接間へと進んだ。


 「ミスター・ラドラムがいらっしゃいました」


 ミセス・ボウルが開いていたドアから応接間の中に呼びかけると、2人の女性の視線が応接間の入り口に向けられた。

 

 先ほどまで室内を歩き回っていたように見えるのが、ミセス・グレンロスだった。

彼女は40代半ばで明るい栗色の髪をきつめに頭の後ろにまとめ、濃いブルーのゆったりとした午前用のドレスを着て暖炉のそばに立っていた。

 対して、彼女と亡きミスター・グレンロスの一人娘で今年の誕生日で20歳になるミス・アメリア・グレンロスは、母のドレスよりも薄いブルーの自宅用のデイドレスに身を包み、落ち着いた様子で椅子に座っている。

 

 「ミセス・グレンロス、ミス・グレンロス、午前中からお時間いただきありがとうございます」


 ミスター・ラドラムは職業柄身に着けた自然な礼儀正しさで挨拶をする。


 「ミスター・ラドラム、ご足労いただきありがとうございます」


 ミセス・グレンロスが少し彼の方に歩み寄って応じる。


 「ミスター・ラドラム、お会いできて光栄ですわ」


 アメリアもその場に立って自然に挨拶する。

 ミスター・ラドラムは軽くお辞儀をしながら、さり気なく彼女を観察した。

彼女のやや暗い栗色の髪はその優雅なウェーブを生かすようにまとめられており、好奇心に輝くヘーゼルの瞳がその珍しい客人に向けられている。


 ――男爵の見込みはあながち外れてはいないのかもしれない。


 ミスター・ラドラムは少し微笑む。

 それを合図に一同は席に着くと、まずは世間話を始めた。

 最近の天気のこと、国王陛下のご健康のこと、博物館の工事の進捗のこと、それから、昨年からロンドンを騒がせている窃盗団〈静かなる猫〉が今度は銀行の金庫からある子爵家のルビーのティアラを盗んだこと――。

 

 間もなく侍女と思われる黒い服の女性が紅茶を運んできた。ミスター・ラドラムは少し眉を上げる。

 いくら経済的に恵まれているグレンロス家とはいえ、専門職階級の家で侍女を雇っているのは珍しいことだった。

 しかし、記憶力に優れた彼は、すぐにアメリアが准男爵家の跡取り息子と婚約していることを思い出し、未来の准男爵夫人のためにグレンロス家が多少無理をしてでも侍女を付けたのだろうと思った。

 

 侍女からティーポットを受け取ったミセス・グレンロスが全員のカップに適度な量の紅茶を注ぐと、ミスター・ラドラムは一口だけそれに口をつけ、すぐに話を切り出した。


 「さて、早速本題に入ることをお許しください。あなた方のご親戚であり、我が雇い主であるメラヴェル男爵は今重病で伏せっておいでで、医師の見立てによるとあまり時間が残されていないのです」


 彼の向かいに座る母子は神妙に頷いた。

 その件は既にミスター・ラドラムから事前に受け取った手紙の中に書かれていたことだった。


 「ミセス・グレンロス、ご主人はご親戚筋であるメラヴェル男爵家についてどれくらいあなた方にお話になっていましたか?」

 

 「正直申しましてあまり……。生前、貴族の親戚がいるという話は聞いていましたが、主人の代になってから親しい交際はないようでしたので」


 ミスター・ラドラムは頷く。ミセス・グレンロスは改めて戸惑いの表情を浮かべていた。

 彼女はミスター・ラドラムから受け取った手紙で夫の言っていた親戚の貴族がメラヴェル男爵のことだったと知り、おとぎ話のような話が現実だったと知ったばかりだった。


 「お手紙にも書きました通り、当代のメラヴェル男爵には跡取りの一人息子ミスター・ピーター・グレンロスがいらっしゃいました。ただ、彼は数か月前にインドでの不幸な事故により亡くなりました」

 「お気の毒に……」


 自分の娘と同じくらいの歳の若者の不幸にミセス・グレンロスは思わず呟く。

 ミスター・ラドラムも少し沈んだ表情を浮かべるが、すぐに彼の職業的冷静さが感傷を押しのけて話を先へと進める。


 「跡取りのミスター・ピーター・グレンロスはもうおらず、男爵自身のお命もあとわずかとわかったとき、男爵は男爵家の事務弁護士である私に次に男爵位を継ぐべきお方を探すように命じられました」


 そこまで言ってからミスター・ラドラムは上着の内ポケットから一枚の書付を取り出して、その記載をたどりながら母子に報告する。


 「正直、跡取り探しは難航しました。不幸にも男爵家の男性の縁者は――あなた方のご主人でありお父上であるミスター・グレンロスと同様に――既に皆亡くなっていた。当代の男爵の弟君ミスター・レイモンド・グレンロスは早世しており、従弟のミスター・ライオネル・グレンロスも昨年亡くなりました。そこで、男爵は古い記憶を元に私にメラヴェル男爵位の創設経緯と家系の再調査を指示なさいました――」


 ミセス・グレンロスは膝の上で手を組みなおす。

 アメリアは冷めかけている紅茶を一口飲んだ。母子はミスター・ラドラムの話に真剣に耳を傾けているが、実はこの彼の込み入った話の行きつく先は、彼女たちに事前に手紙で知らされていた。

 そのため、彼女たちは彼の話を理解しようとしているわけではなく、彼の話が終わったときにどう反応すべきか直前まで考えているのだった。


 「――しかして、男爵のご記憶の通り、メラヴェル男爵位は招集状により創設された爵位で、子孫の性別を問わず爵位の継承が可能だとわかりました。一方で、当代男爵の亡き姉君と亡き従姉妹の令嬢方の子孫含めて男爵家の子孫は既にほぼ全員亡くなっていることもわかりました」


 ミスター・ラドラムは一度言葉を切ると、厳かな声で先を続けた。


 「そのため、当代男爵の又従弟であったミスター・グレゴリー・グレンロスのご令嬢ミス・アメリア・グレンロス、あなたが唯一存命している男爵家の子孫であり、次代のメラヴェル男爵位を継承されるべきお方なのです。先代の遠縁なので特権委員会の審理が必要になるでしょうが、必ず認められるはずだと私は自信を持っています」


 ミスター・ラドラムは数か月にも及んだと思われる彼の緻密な仕事の成果に少し胸を張る。


 アメリアはしっかりと頭を上げてミスター・ラドラムを見た。

 彼女はもう既に決めていた。

 しかし、それを口に出す前にもう一度亡き父がよく言っていた言葉を父の口調通りに思い浮かべる。


 ――いいかい、アメリア。

 ――人間というのは弱い生き物だ。

 ――私は法廷弁護士の職務の中で、自分に課せられた責任から逃げ出す者をたくさん見てきた。

 ――でもね。人間誰しも責任から逃げてはならないときがあるんだよ。

 ――それを忘れないでいて欲しい。


 その父の言葉に従って、ミス・アメリア・グレンロスは柔らかくもはっきりとした口調で答えた。


 「勅撰弁護士だった亡き父はいつもこう申していました。『人間誰しも責任から逃げてはならないときがある』と。私にとって今がそのときなのだと思います」


 ミセス・グレンロスは娘の堂々たる態度に、嬉しさ半分不安半分という表情で、アメリアを見つめている。

 

 ミスター・ラドラムにはこの母の気持ちが痛いほどわかった。

 女性が男爵位を継ぐ例は珍しい。

 メラヴェル男爵家でも18世紀に一人女男爵がいたきりだ。

 他家では父の男爵位を継いだ娘の例はあるものの、そのとき既に支えてくれる夫の存在があった。

 婚約中ではあるが、未だ夫という確かな後ろ盾をもたない19歳のアメリアが女男爵になるとしたら、社会からどのように見られるだろうか。

 特に彼女たちがまだ知らない上流階級の社交界から――。

 

 しかし、最初にミスター・ラドラムが直感した通り、アメリアはそれに立ち向かう決意をするのに十分な気高さと勇敢さを備えていた。


 「特権委員会と国王陛下にお認めいただけるのであれば、私は次代のメラヴェル女男爵として責任を果たしましょう」


 ミスター・ラドラムは深く頷く。病床の男爵の命が尽きる前に喜ばしい報告ができそうだった。


***

 

 ミセス・グレンロスは、ミスター・ラドラムの訪問から一週間以内に2つのことをやらねばならなかった。


 一つは、アメリア及び彼女の父祖の出生証明書を集め、更に家のどこかに亡き夫が遺したグレンロス家の家系図を見つけてミスター・ラドラムの法律事務所に送ること――ミスター・ラドラムはいよいよ当代のメラヴェル男爵が亡くなった後、アメリアの爵位継承の正当性の根拠として特権委員会に提出するつもりらしい。

 もう一つは、アメリアの婚約者の父にして准男爵のサー・ロバート・カーライルにアメリアがメラヴェル男爵位の推定相続人になった旨の手紙を送ることだった。

 

 後者の仕事はミセス・グレンロスにとって気が進まないものだった。アメリアと准男爵家の跡取り息子との結婚は、元々故ミスター・グレンロスとサー・ロバートがある裁判を通じて知り合った縁でなされた口約束に端を発したものだった。

 ただ、ミスター・グレンロスはアメリアが15歳のときに亡くなり、この婚約話も立ち消えになるものと思われた。

 しかし、当の跡取り息子でアメリアより5歳年上のミスター・ジョナサン・カーライルがアメリアを思いの外気に入っていることがわかり、去年アメリアが19歳になったときに正式に婚約したのだった。

 

 ミセス・グレンロスは、ミスター・ジョナサンがアメリアを気に入ったのは当然だと思っていた。

 手前味噌なのは承知だが、アメリアは外見も悪くないし、幼い時から生まれにそぐわない気品のようなものがあった。

 亡き彼女の夫は、自分の遠縁の貴族の血が濃いのだと自慢にしていたものだ。


 ――でも、「貴族めいている」のと本物の貴族は違う。


 ミセス・グレンロスはため息を吐く。

 カーライル家は先々代の叙爵以来の准男爵家だが、准男爵は爵位の世襲は許されても貴族とはみなされず、男爵以上の本物の貴族とは違う。

 おそらく、ジョナサンは中産階級の娘が身分以上の貴族めいた気品を備えていることは歓迎しても、彼女が本物の貴族になるとなれば――。

 自分より高位の女性を妻に迎えることは、彼の男性的な誇りを傷つけ彼の心の平安を乱すものになるのではないか。

 

 しかし、それでも事実は事実。

 ミセス・グレンロスはただ現状を率直にサー・ロバート宛の手紙にしたためるしかなかった。

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― 新着の感想 ―
 ロマンスかつミステリーと言うことで見に来ました。貴族の話は少し難しいですね。
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