第2話 尻尾
三人が再びリビングに集まったのは船がゆるゆると動き出してからだった。
馬車のような振動もないのにゆっくりと景色が流れていく様に目を瞠っている所で二人が戻ってきたのだ。
黒いシャツに黒いパンツ姿のアレフはそれが制服のようになってしまっていて最早それ以外の服を着た姿など想像できない。今もいつもとまったく同じ服装で、いつものように傍若無人な態度でソファに腰を下ろし、いつものように断りも無く茶菓子に手を伸ばしている。
だが、ダウィはどことなくいつもと印象が違う。
亜麻か何かの柔らかそうな白シャツに珈琲色のパンツ。それは普段とそう変わらない。首元からちらりとチェーンが見えているのは以前にも見せてもらった三国学問所の卒業生の証だろう。装飾が少ないのもいつもの事だ。
ただ、何か足りない。
しげしげと観察していると困惑したような視線を向けられた。
「どうかした?」
「いや――ああ。なんか違うと思ったら、剣を持ってないんだ」
戦場では勿論の事、治安の良いとは言いがたいイーカル王国では常に帯剣していたし、この国でも正装した時以外は腰に剣を佩いていた。
だからこんなに身軽な姿を見るのは初めてだった。
「剣は荷物と一緒に置いてきたよ。
言わなかったっけ。あっちではね、俺が辺境騎士団に居るのは奥さんしか知らないんだ」
「へ?」
「家族とか近所の人はウォーゼルで教師をしてると思ってるから――ほら、教師が剣を持ってるって変でしょ」
「えーと、何で?」
ダウィは気まずげに視線をそらす。
それを見て、極秘任務とかだったら言わなくて良いと告げようとしたのだが、にやにやと笑うアレフが袖を引いてそれを遮った。
しばらく視線を彷徨わせた後、ダウィは嘆息と共に言葉を発する。
「……ずるずると言いそびれた」
「は?」
「薄々誤解されてる気はしてたんだけど放っておいたら、周囲の人の中ではウォーゼルの学問所で出稼ぎしてるって事になっていたみたいでね。否定するのも面倒だし、時々学問所で講師をしてるのは嘘じゃないから、ついそのまま」
いつも貼り付けられた穏やかな笑顔の仮面は確かに騎士といわれるより教師といわれた方が納得できるが、幾度と無く共に戦場を駆けた記憶がそれを否定する。
剣を合わせた事は無いが、この男は確実にレオナより強い。
「それに、アスリアは平和だから剣なんて必要ないんだよ」
そんな言葉ではぐらかし、話はそれでお仕舞いと言う風に小脇に抱えていた大きな布の塊をレオナの前に突き出した。
「これ、俺の友人から」
「へ?」
「開けてみて」
柔らかな厚手の布をくるくると解くと、中から現れたのは細長い弦楽器と弓。
実物を見るのは二度目だが、この特徴的な形は間違いないだろう。
「もしかして、これってザッカス?」
「友人が昔使っていた練習用のザッカス。ええと、一緒に入っている袋に細かいパーツとか手入れの道具が入ってるって」
見るとその通り、そこにはケース以外の一式が揃っているようだ。
布から取り出したザッカスは全体に飴色のニスが塗られていて綺麗に磨き上げられている。なのに、持ち手の部分などは経年変化だけとは思えない程濃い色に変化していて持ち主に大切に扱われていたであろう事が容易に想像できた。
「え、誰から? こんなの貰っちゃ悪いんじゃない?」
「演奏を聴いてくれたお礼にどうしても渡したくなったからって言ってたよ。――『可愛らしい駆け出しのお嬢さんへ』ってさ」
その言葉で、この楽器の前の持ち主が誰なのかを悟った。
だが、派手な服を着た女装歌手は思い出せても、その背後に隠れるように伴奏していた演奏家の顔は何故かまったく思い出せなかった。
* * *
水平線から日が昇る。
母国では絶対に在り得ない光景に息をつめて見入っていた。
今朝は慣れないベッドのせいか、いつもよりだいぶ早くに目が覚めてしまった。
手櫛でざっと寝癖を直し、未だ寝ぼけた目を擦りつつ専用デッキに出てみるとそこは広大な水の上だった。
左右を見回してみれば、霞む水平線の向こうにかすかに陸のような影が見える気がするが、明らかに昨日通って来た「川」とは距離が違う。
「……ウミ?」
いや、海はもっとずっと東の果てまで行かないと無いはずだ。話に聞く限り一ヶ月はかかる程に遠い場所。
ならばこれはなんだ。
「池」や「沼」は見たことがあるがそんなレベルではない水の量。
「あ……これが、ミズウミ?」
国境近くで生まれた部下が語っているのを聞いた事がある。海では無いが海かと思えるほど広い池――「湖」というのがあると言う事を。
きっとこれがそれだ。
見渡す限り水しか見えない、神秘的な場所。
やがてその端がきらきらと宝石のように光り始め、靄が音もなく引いていく。
そして息を呑むレオナの前で、ゆっくりと水平線から朝陽が顔を出した。
どれくらいの間それを見つめていただろうか。
気がつけば太陽は随分高く昇っていたようだ。
「おはようー」
眩しそうに目を眇め、ダウィが起きてきた。その後には何故かふらふらと足元のおぼつかないタイも居る。
「おはよ……なんかタイ変じゃない?」
「酔っただけだよ。アレフも船酔いが酷いから今日は起こすなってさ。
そういえば、レオナは船初めてでしょ? 大丈夫?」
「うん。オレ馬車でも酔った事無いんだ」
それはうらやましい等と話しながら、ダウィはレオナの隣に並ぶ。
寝起きだからか前髪が一筋、おかしな方へねじれていた。それを指摘すると指先でひっぱり、なんとか直そうとしているのがどうにも面白い。
「そんなに変?」
笑っているのを見咎められたが、一度緩んだ口元はなかなか戻らない。むしろ拗ねたような表情が珍しくて更に笑みをそそる。
「だってほら、お前滅多にそういうとこ見せないじゃん」
「そういうとこって?」
「なんか隙がないっていうの? 何しててもカンペキで、表情だって変わらないし」
その言葉にダウィは一瞬きょとんとした。
丸く見開かれた目は普段の作り笑顔よりその顔を若く見せる。
目元が淡く紅色に染まった気がしたのはレオナの気のせいだろうか。
「あー……浮かれてたかな」
「へ?」
「久しぶりに奥さんに会えるから、俺、今浮かれてるかもしれない」
ダウィはそう言って片手で口元を覆うと、ついと顔を背けた。
「え、何、照れてるの?」
「…………」
「うわー。意外」
「……なんで」
「前に奥さんの話聞いた時は淡々としてたからさ。
ねえ、奥さんってどんな人?」
「夕方には紹介するよ」
「じゃなくって、ダウィから見て、どんな人?」
「……可愛い人」
「へー」
にやにやとその横顔を眺めていると、ダウィは取り繕うように続けた。
「あ……見た目の話だった?」
「可愛いって見た目じゃないんだ」
しまった、と顔に書いてある。
だがレオナだってせっかくのチャンスを逃すつもりは無い。
「もうちょっとのろけ話を聞きたいなあ。ねえ、どういうところが可愛いの?」
「言わない」
「いや、言おうよ」
「嫌」
そんなやり取りを繰り返した後、いつの間にかいつものペースを取り戻してしまったダウィが不敵な笑みを浮かべてレオナの顔を覗き込んだ。
「そういうレオナはどうなの?」
「ど、どうって」
「レオナが女だってカミングアウトしたんでしょ? 言い寄ってくる人とかいるんじゃないの」
「――ぶっ」
思わぬ反撃に思わず咽た。
「い、居ないよ!」
母国での扱いは完全に珍獣だ。興味本位で話しかけてくる奴がいても、そういった意味で近づいてくる奴は居ない。
そう言い募るレオナに思わせぶりな視線をちろりと向けた後、ダウィはまたいつもの笑顔をつくる。
「ふうん。まあそれはそれでいいけど。――俺は、ね」
「気になる言い方するなー」
「顔、赤いよ」
慌てて頬に手を当てると、指先に触れた耳が熱い。
「そういう可愛い反応してると、餌食になるよ」
「餌食?」
「女の子って集まると怖いよね」
ダウィはついと視線を白く輝く水面へとそらした。
何を言いたいんだと追求すべく吸った息は言葉にならなかった。音を発する前に、ダウィの薄い唇から囁くような小さな声が漏れたから。
「――何だ、あれ」
息を詰め、じっと睨みつける横顔がいつになく厳しいものであったため、レオナも思わずその視線の先を追った。
小船が一艘、こちらへ向かってくる。
この豪華な客船と比べれば、その大きさは人と蟻ほども違う。
けれど、レオナはダウィ以上にその表情を強張らせた。
小船の上には数人の男が乗っている。
腰には剣を佩き、軽装ながら防具をつけている屈強な男ばかり。誰がどう見ても軍人だ。それも――
「サザニア兵」
船の舳先に掲げられた旗と防具に揺れる朱房を確認して、レオナは腰に手を這わせる。
柄を求めてのばした指は空を切った。
剣は寝室に置きっぱなしだ。
慌てて室内へ戻ろうとした腕をダウィが掴んだ。
「……様子を見よう」
「そんな悠長な!」
「いや、サザニア兵が来るのはいつも通りだから、それ自体は問題ない」
視線を緩めずその理由を問うレオナに、ダウィは噛んで含めるようにゆっくりと答える。
「ここ――グロース湖はサザニア帝国領なんだ。
もう形式ばかりになってるけど、一応ここを通る船は毎回サザニア帝国と通行許可を交わす事になってる」
二人が固唾を呑んで見つめる中、階下の船乗り達は軍人に向かって帽子をとって挨拶している。甲板に出てきた船長がサザニア兵と言葉を交わしている様子も見える。
そして彼らの表情には一欠けらの緊張も存在しないようだ。
「で、でも、お前も何か変だと思ったんだよな?」
ダウィのかたい表情は言葉とは裏腹だ。
「俺がおかしいと思ったのはサザニア兵が来たからじゃない。アレだよ。船の一番後ろに蹲ってる、マント」
「マント?」
――この暑いのに?
目を凝らすと、視線に気がついたのかそいつもこちらを見た。
見上げた拍子に、はらりとフードが落ちる。
艶のない真っ黒な髪。浅黒い肌。やぶ睨みの濁った目。色素の薄い唇。とがった耳。やたらと長い首。
レオナが目を見開くのとほぼ同時に、一抱えほどもありそうな暗褐色の太い塊がビタンと小船の船梁を打った。
「し、尻尾生えてる!」
形は爬虫類のそれに似ている。
随分と距離があるので細かい所までは見えないが、ぬめるわけでもない乾いた質感は最近見た「アイツ」の肌とそっくりだ。
「あれ――」
「アレも混血みたいだ。この間の魔族と関係があるのかな」
ダウィが緊張の滲む声でそう応える。
尻尾の生えた魔族はダウィに興味を示しているようだ。感情の読み取り辛い異形の瞳はじっと彼に向けられていた。
静かに睨みあっている間に船員達は確認作業を終えた。
何事も無かったかのように小船が離れて行く。
首を回してこちらを見ていた魔族は遠ざかる船の上で真っ赤な舌を出してちろりと唇を舐めた。
「……【萌花の欠片】の件と合わせて、調べた方が良さそうだね」
小声で呟いてから、ダウィはすっと船室に戻っていった。