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第三話 百年時計は、あなたの明日を食べていた。

――あなたがくれた人生で、私はあなたを忘れていく。


大正七年、帝都東京。


時計職人の月城(つきしろ)朔之介(さくのすけ)には、二つの欠点があった。


ひとつ。時計の修理となると食事を忘れる。

ふたつ。婚約者の前では、頭のねじが三本ほど外れる。


「澄花(すみか)。今日も美しいな」


「昨日も聞きました」


「昨日の君と今日の君は違う」


「具体的には?」


「昨日より、まつ毛が一本美しい」


「一本しか増えておりませんの?」


「しまった。二本にしておくべきだった」


「そこは全部とおっしゃって」


病弱な令嬢(れいじょう)、綾小路(あやのこうじ)澄花は、白い頬をふくらませた。


朔之介は、そんな彼女を見るたびに思う。


この人を笑わせられるなら、道化(どうけ)にでもなろう。

たとえ、自分の命を削ってでも。


*


澄花は、生まれつき心臓が弱かった。


医師から告げられた余命は、長くて一年。


それを聞いた朔之介は、泣かなかった。

代わりに、帝都中の古書店を巡った。


そして、ある雨の日、店主のいない古書店で一冊の白い本を見つけた。


表紙には銀色の羽根。

中には、奇妙な時計の設計図が描かれていた。


《百年時計》


針を巻けば、愛する者の命が一日延びる。

ただし、その一日は、巻いた者の未来から奪われる。


そして奪われた未来は、過去へさかのぼって存在を消していく。

最後には誰もその者を覚えていなくなる。


朔之介は、しばらく設計図を見つめた。


「……なんだ」


そして、笑った。


「簡単なことじゃないか」


自分の未来を、彼女に贈ればいい。


*


最初の一日は、澄花の熱が下がった日だった。


「朔之介さま」


「なんだい」


「不思議ですわ。今日は胸が苦しくありませんの」


「それはよかった」


「何か、なさいました?」


「君を愛した」


「……それは毎日でしょう」


「では、毎日の成果だ」


澄花は呆れたように笑った。

朔之介は、その笑顔を胸に刻んだ。


懐中時計の針を巻くたび、彼の未来から一日が消えていく。


最初に失われたのは、まだ訪れていない誕生日。

次に、友人と酒を酌み交わすはずだった日。

やがて、未来の仕事、出会うはずだった人々、歩くはずだった道。


それらが、ひとつずつ消えていった。

けれど朔之介は、後悔しなかった。


澄花が笑う。


それだけで、世界は十分だった。


*


ふたりが結婚したのは、桜が咲き始めた頃だった。


澄花は白無垢(しろむく)をまとい、朔之介は緊張のあまり三度も足袋(たび)を履き直した。


「朔之介さま」


「はい」


「そんなに緊張なさらなくても」


「君が美しすぎるのが悪い」


「責任転嫁(せきにんてんか)ですわ」


「結婚とは、責任を分け合うことだろう?」


「では、その責任はすべてあなたに差し上げます」


「喜んで」


澄花は笑った。

その笑顔が、朔之介には何より愛しかった。


祝言(しゅうげん)を終えたふたりは、小さな家で暮らし始めた。


庭には梅の木。

窓辺には、朔之介が作った時計。

そして寝室には、ふたり分の布団。


「……朔之介さま」


「どうした?」


「その、少し……恥ずかしいですわ」


「私もだ」


「嘘です」


「なぜ分かる」


「顔が、嬉しそうですもの」


朔之介は、そっと澄花の頬に触れた。


「嫌なら、何もしない」


澄花は首を横に振った。


「……嫌では、ありません」


小さな声。

それから、彼女は勇気を振り絞るように言った。


「ただ、優しくしてくださいませ」


朔之介は微笑んだ。


「もちろん」


唇が触れる。

澄花の指が、彼の着物をつかんだ。


重ねた口づけは、やがて互いの息を乱し、ほどけた襟元から白い肌がのぞいた。


「……朔之介さま」


「澄花」


「そんなに見つめられては……」


「一生分、見ておきたいんだ」


「……では、一生かけてご覧になって」


彼女は、彼の首に腕を回した。


障子(しょうじ)の向こうで、梅の花が風に揺れていた。


*


幸福な日々は、静かに続いた。


澄花は少しずつ元気になり、庭仕事を始めた。

朔之介は時計を作り続けた。

ふたりで食事をし、喧嘩をし、仲直りをした。


「朔之介さま、また仕事場で寝たでしょう」


「時計が離してくれなくて」


「時計と私、どちらが大切ですの?」


「君だ」


「即答ですのね」


「時計は私に口づけしてくれない」


「……もう!」


澄花は赤くなりながら、彼の頬をつねった。


そんな日々が何より幸せだった。


けれど、朔之介の存在は少しずつ薄れていった。


最初に、彼の名前が帳簿から消えた。

次に、友人が彼を忘れた。

やがて、家の写真から姿が消えた。


そしてある日。


澄花は、夫の顔を見つめて首をかしげた。


「……あの」


朔之介の胸が、冷たくなった。


「どちらさまでしたか?」


*


澄花は、すぐに思い出した。


「まあ、私ったら。ごめんなさい」


けれど朔之介は笑えなかった。


百年時計の針はすでに残りわずか。

未来だけでなく、過去さえ削られ始めていた。


朔之介は、澄花にすべてを話した。


時計のこと。

命を延ばしていたこと。

自分が、やがて世界から消えること。


澄花は黙って聞いていた。

そして、静かに泣いた。


「……どうして」


「君に生きてほしかった」


「どうして、相談してくださらなかったのですか」


「反対されると思ったから」


「当たり前です!」


初めて聞く、彼女の怒鳴り声だった。


「私は、あなたと生きたかったのです!」


朔之介は目を伏せた。


「……すまない」


「あなたがいない人生など、欲しくありません」


「それでも」


朔之介は、澄花の手を握った。


「君が笑って生きてくれるなら、私は幸せなんだ」


澄花は泣きながら首を振った。


「そんなの、ずるいですわ……」


「うん」


「私だけ、幸せにして……」


「……うん」


「あなたは、どこへ行くのですか」


朔之介は答えられなかった。


*


最後の針を巻いたとき、朔之介は澄花の隣にいた。


彼女は眠っていた。

涙の跡が、頬に残っている。


朔之介はその額に口づけた。


「……ありがとう」


時計の針が、一度だけ鳴った。


そして、世界から月城朔之介という男が消えた。


戸籍から。

写真から。

人々の記憶から。


そして、澄花の心から。


*


澄花は長く生きた。

病に苦しむこともなく、穏やかな人生を送った。


ただ、ひとつだけ不思議なことがあった。


彼女は、誰のものか分からない懐中時計を大切にしていた。


針は動かない。

修理に出しても、誰にも直せない。


それでも、捨てられなかった。


「おばあさま、その時計は?」


孫娘に尋ねられるたび、澄花は微笑んだ。


「さあ。誰のものだったかしら」


「大切な人?」


「……そうね」


澄花は時計を胸に抱いた。


「きっと、とても大切な人だったのでしょうね」


そして、静かに笑った。


「私、幸せだったのよ」


誰かと食事をした記憶。

誰かと喧嘩をした記憶。

誰かに愛された記憶。


何ひとつ残っていない。


それでも、胸の奥には温もりだけが残っていた。


*


澄花が息を引き取ったとき、懐中時計が一度だけ鳴った。


止まっていた針が、ゆっくりと動き出す。


そして、時計の裏蓋(うらぶた)に、小さな文字が浮かび上がった。


《澄花へ。君の明日が、私の幸福です》


*


世界の狭間(はざま)。


白い本のページに、銀色の懐中時計が描かれた。


『月城朔之介。綾小路澄花。幸福を確認』


記録者は、静かに目を閉じた。


「……また、ひとつ」


ページをめくる。


そこには、雨の駅で傘を差す老人。


雪に閉ざされた塔で抱き合うふたり。


そして、止まった時計を胸に抱く女性。


三つの幸福が、白い本の中で淡く光っていた。

記録者は、表紙に挟まれた銀色の羽根に触れた。


「……あと、ひとつ」


その声は、ひどく寂しそうだった。


次のページには、翼を失った天使と、角を折った悪魔の姿が描かれていた。


「どうか、あなたたちも」


記録者は、祈るようにささやいた。


「世界より、大切なものを選んで」


白い本が、静かに閉じた。


――第三話・了。


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