第一話 君がいない世界で、君だけが僕を覚えている。
――忘れられることより、君を忘れることのほうが怖かった。
雨の日になると、久遠千紘は決まって傘を忘れる。
正確には、忘れたふりをする。
「千紘。お前、今日も傘ないの?」
「ない」
「玄関に三本あったよな?」
「全部、僕のこと嫌いらしい」
「傘に嫌われる男、初めて見た」
呆れながら傘を差し出す恋人、瀬名律希は、今年二十七歳。職業は建築士。顔がよく、頭もよく、料理もできる。
ただし、致命的な欠点がひとつ。
「律希、近い」
「相合傘なんだから当然だろ」
「僕の肩、もう濡れてないけど」
「じゃあ腰を抱く」
「公衆の面前で?」
「恋人の腰を抱くのに許可証いる?」
「お前の倫理観、建築基準法で取り締まれないの?」
千紘は二十五歳、書店員。口が悪く、愛想も悪い。
けれど律希が笑うと、つられて口元が緩んでしまう。
それが悔しくて、いつも少しだけ目をそらした。
ふたりが暮らす部屋には、同じ形のマグカップが二つある。
歯ブラシも二本。
寝室には大きなベッドがひとつ。
そして、律希が毎晩欠かさず口にする言葉があった。
「千紘。今日も好きだよ」
「知ってる」
「愛してる」
「知ってるって」
「結婚しよう」
「まず脱ぎ散らかした靴下と離婚してから言え」
そんな、どうしようもなく幸福な日々だった。
*
事故が起きたのは、駅前の横断歩道だった。
信号が変わり、律希が足を踏み出した瞬間、制御を失った車が歩道へ突っ込んできた。
「律希!」
千紘は考えるより先に走った。
突き飛ばした恋人の体が、安全な場所へ転がる。
代わりに、自分の視界いっぱいに白い車体が迫った。
――嫌だ。
死にたくない。
まだ律希と喧嘩したい。
あいつの作る焦げた卵焼きを馬鹿にしたい。
結婚だって、返事をしていない。
そのときだった。
『ひとつ、選びなさい』
世界が静止した。
雨粒も、車も、人々の悲鳴も。
目の前に、白い本を抱えた人影が立っていた。
顔は見えない。
ただ、本の表紙に銀色の羽根が挟まっている。
『彼を生かす代わりに、あなたは世界から忘れられます』
「……死ぬってこと?」
『いいえ。生き続けます。ただし、誰にも認識されず、触れられず、声も届きません。あなたが存在した記録も消えます』
千紘は倒れた律希を見た。
自分を呼ぼうとする口が、途中で止まっている。
ああ。
あいつ、泣きそうな顔してる。
「ひとつ、聞いていい?」
『どうぞ』
「僕がいなくなっても、あいつは幸せになれる?」
白い本のページが、ひとりでにめくれた。
『それは、彼が決めることです』
「……そっか」
千紘は笑った。
「じゃあ、お願いします」
*
律希が目を覚ましたとき、病室には誰もいなかった。
医師は言った。
「事故に遭われましたが、奇跡的に軽傷です」
律希は首をかしげた。
何か、大切なものを落とした気がした。
帰宅すると、部屋にはマグカップがひとつ。
歯ブラシも一本。
ベッドは、ひとりで眠るには妙に広かった。
「……なんだ、これ」
冷蔵庫には、誰が書いたのか分からないメモが貼られていた。
『牛乳買え。あと靴下を片づけろ、馬鹿』
文字は少しずつ薄くなり、律希が瞬きをしたときには消えていた。
「……馬鹿って」
なぜか笑ってしまった。
そして、なぜか涙が出た。
*
千紘は律希の隣にいた。
ずっと。
彼が仕事へ行くときも、食事をするときも、眠るときも。
何度名前を呼んでも振り向かない。
肩に触れようとしても、指はすり抜ける。
それでも千紘は、毎日話しかけた。
「おい、また野菜残したな」
「その服、似合ってる」
「……僕がいなくても、ちゃんと笑えよ」
律希は笑わなくなっていた。
理由も分からないまま、何かを失ったような顔をしていた。
そんなある日、律希が駅のベンチに座った。
事故のあった横断歩道が見える場所だった。
隣には誰もいない。
「……変だな」
律希は小さく笑った。
「ここ、誰かと座った気がする」
千紘は息をのんだ。
「律希?」
返事はない。
けれど律希は、空いた隣席を見つめた。
「名前も顔も分からないのにさ」
声が震える。
「すごく、好きだった気がするんだ」
千紘は泣いた。
泣きながら笑った。
「……馬鹿。今も好きでいろよ」
律希はポケットから、小さな箱を取り出した。
中には銀色の指輪。
事故の直前、千紘に渡すつもりだったもの。
律希自身、その指輪をいつ、誰のために買ったのか思い出せない。
それでも捨てられなかった。
「俺さ、たぶん、結婚したかったんだ」
「……知ってる」
「すげえ好きだったんだと思う」
「知ってるよ」
「だから」
律希は指輪を、自分の左手にはめた。
「忘れてても、好きでいていいかな」
千紘は隣に座った。
触れられない手を、そっと重ねる。
「……いいよ」
雨が降り始めた。
律希は傘を開いた。
そして、不自然なくらい大きく、隣の空席まで覆った。
「濡れるだろ」
誰に向けた言葉なのか、本人にも分からない。
千紘は声を上げて笑った。
「僕、もう濡れないんだけど」
*
季節がいくつ巡っても、律希は独り身のままだった。
友人には恋人を作れと勧められ、同僚には結婚しないのかと尋ねられた。
「好きな人がいるんです」
律希はいつも、そう答えた。
「誰?」
「分かりません」
「は?」
「顔も名前も知らないんですけど」
「お前、それ恋じゃなくて怪談だろ」
律希は笑った。
「そうかもしれませんね」
けれど、不幸ではなかった。
仕事をして、友人と笑い、時には旅行にも出かけた。
ただ、雨の日だけは必ず、駅のベンチへ向かった。
そこにはいつも、千紘がいた。
「今日さ、部下に怒られた」
「お前、また図面の上にコーヒー置いたんだろ」
「なんで分かったんだろうな。自分でも不思議だ」
「僕の教育の成果だよ」
「……会いたいな」
千紘の笑顔が、少しだけ崩れた。
「うん」
「一度でいいから、顔が見たい」
「……うん」
「でもさ」
律希は穏やかに笑った。
「幸せなんだよ。変だろ?」
千紘は首を横に振った。
「変じゃないよ」
だって、僕も幸せだから。
*
律希が年老いても、千紘の姿は二十五歳のままだった。
白髪になった恋人の隣で、変わらない青年が笑っている。
ある日、律希はベンチに座り、ぽつりと言った。
「なあ。俺、いい人生だったよ」
「知ってる」
「でも、ひとつだけ後悔がある」
千紘は黙った。
律希は左手の指輪をなでた。
「結婚してくださいって、ちゃんと言いたかった」
千紘は目を閉じた。
ずっと。
ずっと待っていた言葉だった。
「……遅いよ、馬鹿」
律希は微笑んだ。
「返事、聞けるかな」
届かないと知っている。
それでも千紘は、恋人の手を取るように指を重ねた。
「はい」
声が震える。
「喜んで」
律希は、なぜか涙を流した。
そして、誰もいない隣席に頭を預けるようにして、静かに目を閉じた。
千紘は、その体が冷たくなっていくのを見守った。
もう二度と、目を開けない。
もう二度と、声を聞けない。
それでも。
「……結婚、おめでとう。僕たち」
千紘は笑った。
世界でいちばん幸せそうに。
*
世界の狭間。
白い本の一ページに、文字が浮かび上がった。
『久遠千紘。瀬名律希。婚姻成立』
記録者は静かにページを閉じた。
その表紙には、銀色の羽根が一枚。
そして、誰にも読めない小さな文字が刻まれていた。
――幸福は、必ずしも救済を意味しない。
記録者は次のページを開く。
そこには、雪に閉ざされた王国の絵が描かれていた。
春を知らない姫君と、彼女を愛した魔女。
「……次は、あなたたちの番だね」
白い本から、ひとひらの雪が舞い落ちた。
――第一話・了。




