まとめ
まとめ
南北朝の動きの中で、大きな動きは互いに出来ない状況が生まれていた。
真田頼綱は、角間の里の力を受けて、外界からの接触を避けながら領地の経営を優先して生き延びるのであった。
角間の里は、徐々に真田への影響力とともに、世間にさらされることになった。
紀元前5世紀に漂流者として助けるた血縁は、縄文の移動するグループとして、縄文の理を持って、日本の各地で影響を与えてきた。
米作での土地の開発の目として様々な土地に誘い、伊勢の大巫女を通じて、近畿圏の形の形成にも少し影響をもたらしたのかも知れない。
弥生期が終わり古墳時代、ヤマト政権、そしていまの武士の時代に於いても有効な理を持っていたのだ。
だが、時代の流れは、理よりも合理的なものが優先したのだろう。
人が生きるうえでどうしても合理性が生まれると優先されるのが人間の宿命かも知れない。
かたや縄文の理の理念は静かに消えずあるとも感じている。
この先、真田は、大きな歴史の流れの中で、大きな爪痕を残すことになり、その後の生存戦略においても、歴史にその姿を見出すことが出来る。
静かに、理は潜むのであった。
日本の歴史を語る時、どうしても文字の力が優先され、文字の表記のない歴史は、その場の可能性しか語られない。
私は、その事に違和感を感じていた。
縄文の理は、深く日本人、日本の歴史の中に密かに、しかし確実に根付いていると思っていた。
今回は、渡来人、しかも大陸の北側の猟師の漂流者がいたらということを順を追って見てきたと思っている。
日本史の本流とは違う流れではあるが、こうした精神の流れは、あったかも知れない歴史として考えて欲しいと感じている。
ここまで長い物語を読んでくださったことに感謝して、これで筆を置きたい。
ありがとう御座いました。




