第1話 大樹だけが、私を覚えていた
向けられた白銀の刃の冷たさよりも、彼の青い瞳に宿った徹底的な拒絶の方が、ずっと私の胸を深く、残酷に抉った。
「……下がれ。君のような人間を、私は知らない」
学園の中庭。
古い大樹からこぼれる木漏れ日の中で私を遮ったアルベールは、幼い頃からずっと一緒に育った人だ。
血の繋がった兄ではない。
それでも私は、小さい頃からずっと彼を「お兄ちゃん」と呼んでいた。
昨日まで私を「芳乃」と呼び、優しく頭を撫でてくれたその手は、今はただ、素性の分からない平民を警戒するように、魔術杖の柄を固く握りしめている。
頭上で、大樹の葉が静かに揺れた。
なぜだろう。
こんなときなのに、その音だけが妙に懐かしく感じられた。
けれど今は、そんなことを考えている余裕などない。
時間を巻き戻す代償だったのだろうか。
目覚めたとき、世界から私の居場所はすべて消え去っていた。
私の部屋には見知らぬ誰かの荷物があり、私の過ごしたはずの軌跡がすべて消えていた。
世界は私を『最初からいなかったもの』として歴史を書き換え、私はただの身寄りのない平民特待生になっていた。
「嘘、でしょ……お兄ちゃん。私だよ、芳乃だよ……!」
焦燥に駆られ、私は懐から一枚の紙を差し出した。
アルベールは警戒しながら、それを受け取った。
私が自分の手で書き記した、私の名前。
芳乃。
その二文字を見つめた瞬間、胸の奥にほんのわずかな違和感が走った。
ずっと昔から知っている、自分の名前。
そのはずなのに。
どうしてだろう。
まるでこの名前を、いつか誰かから受け取ったことがあるような――。
「……?」
ほんの一瞬浮かんだ奇妙な感覚は、すぐに消えた。
あの時間を巻き戻す前、アルベールは「綺麗な文字だね、芳乃」と笑って、その文字を指でなぞってくれたのだ。
けれど、紙片を一瞥したアルベールの瞳に宿ったのは、懐かしさなどではなかった。
それは、底知れない恐怖と、鋭い敵意だ。
「見たこともない不気味な文字だな。それをどこで手に入れた? ……なぜ君が、私の好物や、幼い頃のことを
知っている」
「それは、お兄ちゃんが私に教えてくれたから……」
「黙れ! 私のことをどこで調べた? 私を精神的に揺さぶろうとする他国のスパイか、あるいは悪質な精神魔術の使い手か。……どちらにせよ、私は君を信じるわけにはいかない」
アルベールの声は冷徹だった。
彼は間違っていない。
怪しいのは私だ。
この世界の理の通り、まともで知的な人間として、彼は私を不審者だと判断している。
彼に悪意はない。
だからこそ、信じてくれない彼を、私はどうしても責めることができない。
裏切られた怒りよりも、幼い頃からずっと一緒だった人に、真実を何一つ信じてもらえないという事実が、私の骨を凍らせるほどつらかった。
「……ああ、そう、だね」
涙が視界をにじませ、喉の奥が引き裂かれそうに痛む。
これ以上言葉を尽くしても、彼を怯えさせ、傷つけるだけだ。
小さい頃から何度も「お兄ちゃん」と呼び、一緒に笑ってきた人なのに。
世界から私が消えた今、彼は本当に完璧なエリートになり、私はただの異物になった。
私はゆっくりと一歩下がり、泥のついた安物のスカートの裾を掴んで、かつて彼から教わった通りの、完璧な気品で一礼をした。
「不躾な物言いを、どうかお許しください、アルベール閣下。……お騒がせして、申し訳ありませんでした」
もう二度と、彼を「お兄ちゃん」と呼ぶことはないだろう。
踵を返し、その場を走り去る。
けれど、大樹の下を通り過ぎようとした、そのときだった。
風が止んだ。
――よしの。
「……え?」
足が止まった。
誰かに名前を呼ばれた。
そんな気がした。
振り返る。
けれど、そこにいるのはアルベールだけだった。
彼は手元に残された紙片を見つめている。
「……誰?」
答える者はいない。
風が戻り、大樹の葉がざわりと揺れた。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に、どうしようもなく懐かしい感覚が込み上げた。
知らないはずなのに。
覚えていないはずなのに。
ずっと昔――。
この木の下で、誰かと話したような気がした。
小さな誰かと笑って。
名前を呼び合って。
そして最後に、大切な約束を交わした。
――また、会おう。
「……っ」
胸が締め付けられた。
誰と交わした約束なのか。
いつの記憶なのか。
何一つ思い出せない。
それなのに、その言葉だけは、忘れてはいけないもののように胸の奥へ残った。
大樹の幹に、そっと手を触れる。
温かい。
ほんの一瞬だけ。
誰かがこちらから手を重ねてくれたような気がした。
「……あなたは、私を知っているの?」
大樹は答えない。
ただ、枝葉が静かに揺れている。
世界は私を忘れた。
私のいた部屋も、私の過ごした時間も、私を愛してくれた人の記憶さえも消えてしまった。
それなのに。
――この木だけは。
そんな考えが浮かんだ瞬間、私は首を振った。
今はまだ、分からない。
私は幹から手を離した。
そして、今度こそ歩き出す。
その場を去る間際。
私は振り返ることなく、彼に聞こえないほどの小さな、
けれど私の魂のすべてを賭けた問いかけを、風の中に落とした。
「──たとえ時間が戻っても、もう一度私を好きになってくれますか」
ざわめく大樹の葉の音に、私の消え入りそうな声はかき消される。
信じてくれないのが一番つらい。
ただ貴方に会いたかっただけなのに。
お兄ちゃんともう一度一緒にいたいと願っただけなのに。
アルベールはただ、夕闇に染まりゆく中庭で、手元に残された紙片――世界の改変から零れ落ちた唯一の『芳乃』という文字を、どこか酷く戸惑った目で見つめ続けていた。
そしてその頭上で。
古い大樹の葉が、もう一度だけ揺れた。
まるで、遠い昔に交わした約束を、今も忘れてはいないと告げるように。




