Memory 5 哀れで、醜い
気がつくと、僕は記憶世界からログアウトしていて現実世界に戻っていた。呼吸が切れていて息苦しい。現実の肉体にまで疲労が出ていた。
「おかえりなさーい。なんだか危ない感じだったから強制終了させてもらったわよー」
コネクターから体を起こすと、北見さんがにこやかに出迎えてくれた。どうやら僕は彼女の機転によって助けられたらしい。
「それにしてもアナタ、すごいじゃない! あんなにすぐ手掛かりを見つけちゃうなんて。おねぇさん驚いちゃった」
北見さんが口元に手を当てて芝居がかった驚き方をした。この人はその一つひとつの動作が様になっているから恐ろしい。まるでドラマの中から出てきたような人だ。
コネクターから出ると、瀧波さんとござるさんがつまらなそうな顔で腕組みをしてそっぽを向いていた。きっと瀧波さんの中では今、僕が簡単に功績を挙げてしまったことに対するただならぬ苛立ちと不平、そして立場の無さがせめぎ合っていることだろう。
さらに、その隣に立つ二葉さんはなんとも異様だった。
「啓吾くん……今のはセクハラじゃないかしら? こちょこちょとは言え、女の子の体に触ったら……ダメよねぇ?」
顔はニコニコとした笑みを浮かべているのに、穏やかさが欠片も感じられない。それどころか彼女の背後にメラメラと燃え盛る憤怒の炎が見えるようだった。
「いや、なんていうか……かるぅーいスキンシップというか……ハハハ」
御堂島さんはスーツを正しながらコホンと気まずそうに一つ咳払いをして、「それで」と話を逸らした。
「北見さん、状況は?」
「もう調べ終わったわ。住所も職業もぜーんぶね。さっき啓吾くんと佳由良ちゃんのデバイスに送信しておいたから確認してね」
「さすが、仕事が早いな。じゃあ俺たちはさっそく行くとするか」
北見さんは「いってらっしゃーい」と軽い調子で手を振った。
僕たちは再び第二係室に舞い戻った。初めは警戒して御堂島さんを蔑んだ目で睨んでいたけれど、彼は苦笑いで「もうやらないから許して……」と一応の謝辞を述べたので、一旦警戒を解いた。
第二係室に戻って何をするのかと思えば、僕は鍵付きの重厚な扉によって閉じられた大きなロッカーの前に連れて来られた。御堂島さんがその威圧的なロッカーを解錠して開くと、中には整然と拳銃が収められていた。
「これが雨宮のだ」
御堂島さんは慣れた手つきで拳銃を引き抜き、一つのホルスターと一緒に僕へ手渡した。
白銀色の拳銃のずっしりとした重みが手に伝わる。初めて触れる拳銃の感触に、僕は思わずまじまじと眺めてしまう。
初めに思ったのが、奇妙な形をしているということだった。
まず引き金が二つある。グリップに二つの引き金が縦に並んでいるのだ。そして銃身が縦に分厚い。片手で扱えるハンドガンのサイズではあるけれど、映画やドラマでもこんな形の銃など見たことがない。この銃はどこか機械チックで、なんというか、未来的だった。
「それから、お前にはこれも渡さないとな」
ホルスターを腰のベルトに固定して拳銃を差し込んだところで、御堂島さんから追加で腕時計型のウェアラブルデバイスを渡された。黒色をしていて無駄のないシックなデザインをしている。それは、御堂島さんや二係の皆が左腕につけているものと同じものだった。
「それは刑事部専用のデバイスだ。それを使えば捜査に必要な情報がすぐに取り出せるようになってる。基本的に連絡もそのデバイスを通して行うから肌身離さず持っておけよ」
「わかりました」
僕は左手首にそれを巻き付けた。先ほど言っていたデバイスとはどうやらこれのことのようだ。つまり仕事用ケータイといったところだろう。
「もう北見さんからそのデバイスに情報が送信されているはずだから、移動中にでも確認しておいてくれ。とは言っても、これから俺たちがやることはそんなに難しいことじゃない。阿藤浩二に〝事件の記憶〟があれば即逮捕。それだけだ。何か質問は?」
「いえ、今のところは」
「よし、初日にして出動任務だ。気張ってけよ」
御堂島さんの運転する車で阿藤浩二の自宅へとたどり着いた。そこは三鷹市にある古びた木造アパートで、彼は現在その二階角部屋に住んでいるらしい。
ちなみに、電話会社より阿藤浩二のケータイの位置情報を提供してもらっており、彼がアパートに在宅中であることは確認済みだ。情報化した社会は便利なものだけれど、逆に言えばこんなにも簡単に居場所がバレてしまうのだから恐ろしい時代でもある。もちろん捜査のために正式な手続きを踏んで位置情報を提供してもらっているため、誰でも好き勝手に位置情報を知れるというわけではないが、僕としては身を震わせる思いだった。
「雨宮。いつでも銃を使えるように準備しとけよ」
階段を上りながら御堂島さんは腰に携えた拳銃を指先で小突いて警戒を促した。僕は自分の拳銃を引き抜き、今一度まじまじと白銀の銃身を眺めた。
「既に習ってるとは思うが、念のためにおさらいしとくぜ。これは『ディザーガン』っつって、銃口を向けた先の人間の記憶を読み取ることができる銃だ。俺たち記憶捜査官が外出する時は拳銃の代わりにこの銃の携帯が義務づけられている」
「ああ、そういえばそんな講習もありましたね。確か対象を即座にメモリーエクストラクションできるんでしたっけ」
警察学校での講習を振り返ってみると、ぼんやりと『ディザーガン』について思い出してきた。けれど座学で教科書通りのことを習っただけで実習は行っていないため、使い勝手は正直わからないところだ。
「と言っても、こいつで読み取れるのは断片的な記憶だけだし、そこまで高度な性能じゃないけどな。使い方は簡単だ。相手の頭に銃口を向けて、下のトリガーだけを引け。そうすれば記憶の読み取りが始まって、お前の脳内にビジョンが直接流れ込んでくるはずだ。注意点としては、本来の拳銃で言うと撃鉄がある部分に読取った記憶の送信装置が付いている。それが真っ直ぐ自分の頭に向くようにしろ。まあ、普通に狙えば自然と自分の頭に向くけどな」
見てみれば、ディザーガンのスライド後端にレンズのような形状をした照射器がついていた。これが記憶の送信を行う装置ということらしい。
「それから、基本的に記憶は古い物から読み取るようになってる。トリガーの引き具合でどれだけ昔の記憶から読み取るかが決まるんだ。初めは頭に記憶が流れ込んでくる感じが気持ち悪かったり、トリガーの引き具合の調整が難しかったりするかも知れねぇが、まあ使ってるうちに慣れるさ」
「へぇ……。それで、上のトリガーは?」
「そっちは麻酔弾を発砲するトリガーだ。有事の際はそっちのトリガーを引いて犯人を沈静化しろ」
「麻酔銃兼簡易メモリーエクストラクション装置ってことですか……。トリガーを間違えたら大変ですね」
「そう思うなら間違えんなよ」
最後に忠告を受けたところで、阿藤浩二の部屋の前に到着した。
御堂島さんが呼び鈴を鳴らすと「はーい」と無警戒な男の声が返ってきて扉が開く。
僕たちを見るなり豆鉄砲をくらったように目を丸くしたその男は、小太りで見窄らしい格好をした、不潔そうな男だった。彼の背後にある部屋の様子を盗み見ると、ゴミの散らかった汚い有様だった。
移動中に確認した北見さんの情報によると、彼は三七歳独身で、人材派遣会社に勤めているらしい。なるほど……このアパートを見てもそうだが、それほどお金に余裕があるわけでもなさそうだ。
「警視庁捜査一課の御堂島といいます」
「同じく雨宮です」
御堂島さんに習って僕も警察手帳を掲げた。
「阿藤浩二さんでお間違いないですね?」
「は、はい……そうですが……」
「突然すみませんが、今とある事件の捜査を行ってまして。あなたの記憶の提示をお願いしたいのですが、よろしいですか?」
「そ、それは拒否権とか――」
「失礼しまーす」
有無を言わさず僕は横から割って入ってディザーガンを構える。
阿藤浩二の焦り引きつる顔をロックオン。そして御堂島さんに教わった通り、下のトリガーのみを引き絞る。トリガーの引き具合でどの時点からの記憶を読み取るか決まるとのことだったけれど、そんなものは全く感覚がわからなかったため、取り敢えず思いっきり引いてみた。
すると突然、銃身の上半部が『かしゃこ』と音を立てて裂け、変形した。さらに銃身の中のモーターのような部品が露わになり、蒼白い光を放ちながらぐるぐると高速回転を始める。
そして〝それ〟は濁流のように脳内へと流れ込んできた。
子供の頃に友達と遊んだ記憶。母親に怒られた記憶。何気ない日常の記憶。中学生の頃の記憶。高校生の頃の記憶。社会人になり始めた頃の記憶――阿藤浩二の一生とも言える記憶が、まるで写真を超高速のスライドショーで上映しているみたいに。
そしてその膨大な記憶のイメージの中に――見つけた。
街コンか何かのイベント会場で駒場麗香と知り合った記憶。必死に振り向かせようとして彼女の求める物を全て買い与えた記憶。お金が底を突き金融会社に借金をする記憶。そしてまた貢ぐ記憶。なのに最後は彼女に捨てられ、逆上し、彼女のマンションで待ち伏せて背後から包丁を突き刺して殺害した記憶――
「――ビンゴです」
僕のその言葉で阿藤浩二は全てが知られたことを悟ったのだろう。
「ッちっくしょぉおお!」
彼は唾をまき散らして豹変し、僕と御堂島さんを突き飛ばして走り出す。その衝撃で二人して尻餅をついて背後の鉄柵へ背中を打ち付けるという失態を犯してしまった。目前にして犯人の逃走を許してしまうなんて、油断以外の何者でもない。
「こんにゃろっ!」
御堂島さんは転げたままディザーガンを引き抜き、逃げんとする阿藤浩二の背中を狙って銃口を向けた。さすがは現場経験を積んだ熟練者だ。不測の事態に慌てることもなく、咄嗟の反応が早い――と感心しかけたのもつかの間、御堂島さんの構えるディザーガンが『かしゃこ』と音を立てて口を開けた。ディザーガンが発砲される瞬間を知らない僕は、麻酔弾を発砲する場合も変形するのかと思いかけたが、どうやら違うらしい。
「やべっ、間違えた!」
御堂島さんは、下のトリガーを引いていた。当然ながら相手不在のメモリーエクストラクションは不発に終わり、無意味に変形して赤っ恥を晒したディザーガンは恥ずかしそうに元の形に戻った。
土壇場でトリガーを間違えるなんて、呆れて溜め息がこぼれる。人に『間違えんなよ』とか言っておいてこの様。咄嗟の反応だけは早かったけれど、それだけだった。感心しかけた気持ちを返して欲しいくらいだ。もしかしてこの人は、甘い蜜だけを吸って成り上がった、階級だけは一端で中身はポンコツという典型的なダメ上司なのかもしれない――そんな疑惑を抱かずにはいられなかった。
こんな戯れをしていたものだから、当然ながら阿藤浩二は既に階段を駆け下りており、もはやディザーガンで狙えるような距離ではなくなってしまった。こんな住宅街で無闇に発砲するわけにもいかない。
「……早く立ってください。逃げられちゃいますよ」
先に立ち上がった僕が御堂島さんに手を差し出す――なんて事はせず、呆れた目で見下してあげた。御堂島さんは「お、おう!」と慌ただしく立ち上がり、急いで駆け出す。
僕もそれに並んで追走を開始し、アパートの階段を駆け下りる。阿藤浩二は曲がり角の多い住宅街の道路を右に左にと逃げ回り、ついに人通りの多い大通りへと飛び出していった。
彼は往来する人々をかき分け突き飛ばし、猪突猛進に進んでいく。悲鳴が上がり、どよめきが広がっていく。このままでは何をしでかすかわからない。早めに追いつきたいところではあるけれど、見た目に寄らず足が速く、なかなか追いつけない。しかし体力では僕たちの方が勝っているのか、阿藤浩二は疲労が見えた様子で段々と速度が落ちていく。そのまま持久戦を続けると、距離が縮まってきた。するとこのままでは追いつかれると思ったのか、彼は薄暗く細い路地へと逃げ込んだ。とても二人並んで走れるような広さはない路地だ。
「雨宮はこのままアイツを追ってくれ。俺は反対側から回り込んでみる」
一つ頷いて僕らは二手に分かれ、僕は路地に飛び込んだ。積荷や瓶ケース、ゴミ箱などの雑多な物が置かれた狭い路地は、かなり走りにくかった。さらに、前を走る阿藤浩二はわざとそれらの積荷やゴミ箱を倒し、姑息な妨害工作を図ってきた。でも僕はそれらを難なく跳び越えて追いかけていく。僕が得意なのは勉強だけじゃない。運動神経にも自信があった。いや、昔は運動が苦手で逆上がりもできなかったのだけれど、馬鹿にされたのが悔しくて、たゆまぬ鍛錬の末に克服したのだ。今では一通りの運動は難なくこなせる程度には運動神経が鍛えられている。
それから程なくして。追走に追走を重ね、ついに、阿藤浩二が路地の角を曲がろうとしたところで瓶ケースに足を躓かせて盛大に転んだことで、決着の時が訪れた。
「そこまでです」
追いついた僕は彼にディザーガンを突きつけた。彼の動きがピタリと止まり、緊張が走ったのがわかった。
「これ以上抵抗を続けるようであれば、僕はやむを得ず発砲することになります。この引き金を引かれたくなければ、大人しくしてください」
僕の警告に、彼は顔を焦燥に引きつらせながら、尻を引きずるように後退りを始めた。
「くそぉ……くそぉ……!」
涙さえ浮かんだ目で僕を見上げて喚きながらずるずると後退する彼を、僕はその分だけじりじりと距離を詰めていく。すると、先ほど倒した瓶ケースから転がったビール瓶が彼の指先に当たった。彼は目の端でそれを捉えると、咄嗟に掴み取る。口の方を柄のようにして持って大きく振りかぶると、ビール瓶の底を壁に叩きつけて粉砕。美麗な音が奏でられ、ガラス片が煌びやかに散っていく。そして、彼の手には鋭利な凶器と化した割れたビール瓶が出来上がった。
「来るな……! 来るなァ!」
彼はその切っ先を僕に突きつけ、滑稽な威嚇を始めた。
哀れだ。そして醜い――率直にそう思った。どうして彼はこんなにも必死に抵抗するのだろう。何を思って、どんな思いで――
「……今、どんな気分ですか?」
「え……? は? 気分……?」
僕の質問がよほど予想外だったのか、彼は毒気を抜かれたように顔を呆けさせた。
「純粋な疑問です。仕事とは関係なく、僕の個人的な」
「な、なんだよそれ……。気分って、なんの……」
「そのままの意味です。人を殺しておきながら、あなたは僕たちから逃亡し、今もなお抵抗の意思を見せている。それはどうしてですか?」
「どうしてって……そんなの、捕まりたくないからに決まってるじゃないか!」
「それはつまり、罪を償うつもりがないってことですか?」
鋭く斬り込んだ僕の一言に、彼は瞳孔を大きく開き、返す言葉も出ないといった様子で喉を詰まらせた。僕は立て続けに問いかける。
「一人の人生を奪っておいて、どうして罪を償う意識が生まれないんですか? 自分さえ良ければそれでいい――と、そんなことを思っているんですか?」
「だって、俺はアイツに騙されて……! ただの財布として扱われて、そのせいで借金まで作っちまって……!」
「確かに、あなたも騙されて利用された被害者かもしれません。だから僕は、殺害された駒場麗香という女性に同情もしていません。でも、だからといってあなたにも同情はできません。だってあなたは――人を殺したんですよ? なのに、なんとも思わないんですか?」
「う、うるさい! お前に俺の何がわかるってんだ!」
「何もわかりませんよ、あなたのことなんて。だからこうして訊いているんです。不思議なんですよ。――いえ、理解に苦しむと言ってもいい。人を殺しておきながらそんなに平然と生きようとする、あなたのその心が」
どうしてだろう。沸々と胸の奥で何かが煮えている。目の前の男に、僕は明らかな嫌悪を抱いている。この感情がどこに由来しているのか、自分でもわからない。どうしてこんなにも感情を突き動かされているのか、わからない。
ただ――腹立たしい。
「罪を犯したなら、その罪を償うべきです。相応の報いを受けて、死んだように静かに、泥の中を泳いで生きるべきです。……そうは思いませんか?」
口が勝手に動いていた。口に出して初めて自分の気持ちに気付くことがあると言うけれど、それと同じようなものだろうか。これが、僕の奥底に根付く思想だったのだろうか。こんな義憤を僕が持ち合わせていたなんて――いや、義憤なんて大層なものではない。これはもっと後ろめたく暗い、別の何かの気配を感じた。
何にせよこんな高らかに給うほどの思想を持っていたなんて、自分でも知らなかった。
いつの間に、そして、どうして――
「……っくしょう……ちくしょう……! ちくしょぉおおぉおぉおおお!」
突然、阿藤浩二は狂乱染みた叫びを上げて起き上がり、瓶を振り回した。その瞬間に引き金を引けば良かったのだが、僕は咄嗟の事に反応が遅れ、あるいは発砲という行為にまだ躊躇いがあったのか、いずれにせよ彼に反撃を許し、振り回した瓶がディザーガンを直撃。衝撃で弾き飛ばされ、僕はディザーガンを手放してしまった。がらがらと重々しくディザーガンが転がった。
形勢逆転。武器をなくした僕に、彼は鋭利なガラス瓶の切っ先を突きつける。
「うるさいんだよ、ガキのくせに偉そうに……! 説教なんてしやがって……!」
「……説教なんてしていません。僕は訊ねただけです。あなたの気持ちを」
心静かに、僕は一歩詰め寄る。僕が怖じ気づくとでも思っていたのか、彼は驚きに目を見開き、顔を苦く引きつらせた。
「く、来るな……っ! ぶっ殺すぞ!」
「僕を殺すんですか? 駒場麗香のように、憎いから? それとも、殺したいほど憎くなくても、邪魔なら、気に食わないなら、殺せるんですか? そんなに簡単な気持ちで人を殺せるんですか?」
また一歩、僕は詰め寄る。
「命を奪った重圧というものを感じないんですか? 既に一人殺しているのに、また誰かを殺そうと思えるんですか? 命を奪うことに、怖くならないんですか?」
止まることなく詰め寄って、ついに、彼の震えながら突きつけるガラス瓶の割れた先端が僕の首に触れた。それでも僕は構わず、また一歩踏み出す。切っ先が首筋に食い込み、彼は短い悲鳴を上げた。鋭い痛みと共に、僕の首に一筋の温かな血が伝ったのがわかった。
「いいですよ。殺したいなら殺してください。僕は、死ぬのは怖くありませんから」
「な、何なんだよお前……! 狂ってる……!」
「ええ、狂っているかもしれません。僕は、生きることにあまり執着していないんです。人生を楽しいとも思っていない。だからいつ死んだって構いません」
いつだって死ぬことを受け入れている――心のどこかにそんな生温く腐敗した気持ちがあった。自分から死のうと思うほど死に前向きではないけれど、けれど死ぬならいつでもいいという、いい加減な気持ちが。
「さあ、どうするんですか? 教えてください、あなたの選択を。僕を殺して逃げるのか、それとも罪を償うために大人しく捕まるか」
「……お前、俺を試してるのか? どうせ殺すはずないとか、高をくくって、俺を見くびって……!」
「いいえ、そんなつもりはありません。むしろ、あなたはあっさり人を殺して逃げるようなクソ野郎なんじゃないかと思っているくらいです」
「……みみみ、見下しやがって……! そんなに言うなら、望み通りぶっ殺して――」
逆上した阿藤浩二は腕を大きく振りかぶる。明確な殺意のこもった刃が僕に向けられ、僕は当事者でありながら他人事のように冷ややかに、その光景を傍観していた。
けれどその時。一発の鋭い銃声がはためき、阿藤浩二の動きが止まった。彼の肩には麻酔針が突き刺さっており、すぐに糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。銃声の方を見れば、路地の先に、銃口から硝煙の立ち上るディザーガンを構えた御堂島さんが立っていた。
彼は即座にこちらに駆け寄ってきた。それも、まさに鬼の形相といった様子で。
そして――頭に衝撃。御堂島さんは、平手で僕の頭をひっぱたいた。気持ちいいくらいの乾いた音が響き、頭頂部がじんじんと痛む。
「何やってんだよお前!? どうしてあんな危ねぇマネしたんだ! 死んでもいいなんて本気で思ってんのか!? だとしたらふざけんじゃねぇ! たとえお前がよくても、残された方の人間は堪ったもんじゃねぇんだよ! 残される方の人間の気持ちも考えろ! バカなのか!? 頭良いのにバカなのか!?」
怒涛の怒声を浴びて、けれど僕は沈黙した。どうしてこの人はこんなにも怒っているのだろう、と考えてしまうくらい、変に冷静だった。
自分でも、どうしてあんな行動に出たのか、あんな気持ちが湧いたのか、わからなかった。〝あの僕〟は、いったいどこから生まれたのだろう。
気がつけば、手にはじっとりとした汗が滲んでいた。いや、それどころか全身から冷や汗が噴き出している。口や態度では強がっていても、僕の体は、心は、死を恐怖していたらしい。生物として、きっとこの恐怖は避けられないものなのだろう。だからきっと、今も僕は生きている。
「……死ねれば楽だったのかな」
「あ? なんて?」
「……いえ、なんでも」
消え入る声で言った、そのどこから生まれたのかもわからない言葉を、僕はそのまま心にしまった。