Memory 11 見知らぬ記憶
翌日。御堂島さんと僕は小休憩がてら、パソコンのパズルゲームで通信対戦をして遊んでいた。というより、御堂島さんに誘われたのを「業務中ですよ」と一度は断ったのだが、「ほほう、俺に負けるのが怖いのか」という安い挑発に僕は大人げなくムキになってしまい、御堂島さんをこれでもかというほど完膚なきまでに叩きのめしていた。そうして、三戦目にして既に戦意を喪失していた彼に追い打ちをかけていた時だ。
「御堂島。雨宮。確かお前さんたちだったよな、この前『容疑者から犯行の記憶が消されていた事件』を記憶捜査したのは」
朝からござるさんと共に記憶捜査へと出ていた兵藤さんが、第二係室に戻ると開口一番にそう問いかけてきた。
「そうですけど……どうかしたんですか?」
ゲームの手を止め、仕事モードに戻った御堂島さんが顔を上げた。
「俺たちもまったく同じだった。これで二件目だな」
そう言う兵藤さんは、掲げる手に一枚のプリントアウトされた写真をひらつかせていた。恐らく、記憶世界の映像を写真として切り取ったものだろう。そこには、オレンジ色の一輪の花が写っていた。
僕たち二係は総出で第一係室へと集合し、兵藤さんたち第三班の担当した事件の資料に目を通していた。
「俺と秋元で捜査したのは、『沢原和馬』という男の記憶だ。一ヶ月ほど前に練馬区で起きた殺人事件の容疑者としてこの男の存在が浮上した。ところが、この男の記憶を抽出してみたところ……」
「一ヶ月前の、ちょうど事件の起きた日の記憶が消えていたんですね」
言葉を先読みした僕に、兵藤さんは「そういうことだ」と頷いた。
「そして念のため記憶捜査してみたところ、破損した記憶の直後はやはり容疑者が目を覚ますところから始まり、近くにはこの花が置かれていた」
兵藤さんは今一度、オレンジ色の花――キンセンカの写し出された写真をひらひらと泳がせた。
「北見からいろいろと話は聞かせてもらったぜ。なんでも、記憶の消去を行う〝専門家〟がいるとか……。妙な手口を考えるもんだなぁ」
兵藤さんは感心するように言った。
「二件とも容疑者の近くに同じ花が残されていたってことは、この花は〝専門家〟からの何かしらのメッセージでござるか……?」
「そうなるでしょうね。それが僕たち記憶捜査官に向けたものなのか、記憶を消した彼らに向けられたものなのか、それはわかりませんが」
ござるさんの疑問に僕は肯定を示す。同じ花を容疑者たちがたまたま持っていた、などとは考えにくい。
「でも、二件とも容疑者には犯行の記憶もなければ、その〝専門家〟に繋がる記憶すらないのよね……?」
「そんなの私たち記憶捜査官はお手上げじゃない」
二葉さんに続き、瀧波さんが投げやりな声を上げた。しかし、そんな彼女らに北見さんは「そうでもないみたいよ」と艶やかな声で告げる。
「啓吾くんたちの捜査した事件の容疑者『高岡彰』の破損した記憶部分を重点的に調べてみたら、一部の音声だけ修復できたの。この調子で、もしかしたら他にも修復可能な記憶があるかも知れないわ。ちなみに、これが修復した音声データよ」
言いながら、北見さんはコンピュータを操作した。
『なあ……本当なのか? あんたの言う通りにすれば、あいつを殺しても、僕が警察に捕まるようなことはないって……』
再生されたそれは、ノイズ混じりではあったけれど、高岡彰の声だった。糸の振れるような不安げな声だ。
そして、次に聞こえてきた声に、僕は耳から冷水でも流し込まれたみたいに衝撃を受けた。
『ええ、もちろんです。記憶破壊を行えば、あなたから一切の犯行の記憶が消えてなくなります。そうなれば聴取でボロが出ることもありませんし、たとえ記憶捜査でも証拠を掴むことが不可能になります。ただし、くれぐれも気をつけて下さい。何一つ証拠を残してはなりません。犯行時、周囲の他人はもちろんのこと、殺害する相手にも姿を見られてはなりません。カメラのある場所など言語道断です。衛星カメラにも映らないよう、必ず屋根のある場所で行って下さい。それさえ守って頂ければ、あなたが警察に捕まることはありません――』
そこで音声データは途切れた。
心拍数が跳ね上がった。死に神の鎌が首にかけられたみたいに、恐怖にも似た冷たさが胸に広がった。
落ち着いた若い男の声。妙に耳に馴染む声。僕は、この声を知っている。忘れようもないほど、知っている――
「これは、事件の三日ほど前の破損していた記憶部分よ。恐らく、〝専門家〟とのやり取りの一部始終ね」
「しかし高岡彰はこの〝専門家〟の言いつけを守れず、被害者に姿を見られてしまったために逮捕に至った、と……。まあ、何度も刃物で突き刺すくらい怨恨の滲み出た犯行だったし、頭に血が上って冷静さを欠いていたんだろうな」
混乱する僕を余所に、北見さんと御堂島さんが会話を続けている。けれど僕の耳にその会話は届かない。そして、僕はぼそりと呟く。
「そんな……勇希……?」
あれは、あの声は、間違いなく、僕の旧友――薬師川勇希の声だった。
忘れるはずもない。同じ孤児院で育った、家族のような彼の存在を。僕の六つ上で、僕の中にある最後の彼の記憶は、確か高校一年生だった。特徴的な銀髪を揺らす彼の、優しい笑みの貼り付くあの頃の顔は、今でも鮮明に思い出せる。
しかしすぐ、そこで不可解な点に気がつく。
そうだ、僕は田舎の孤児院で育った。その事実だけは覚えている。なのに、その日々を思い出せない――
そういえばそれは、以前にも感じた疑問だった。僕は何故か、孤児院で過ごした日々のことを、言ってしまえば幼少期の頃の思い出というものを、何一つ思い出せないのだ。勇希のことも、優しくて面倒見が良かった事などを断片的には覚えているけれど、彼とどんな過ごし方をしたか具体的に思い出せない。ただ『彼は実の兄のように優しい人だった』という印象と、高校一年生だった頃の彼の姿だけが、脳に焼き付いているばかりだった。
それに、どうして家族のように親しかった彼のその後を、僕は知らないのだろう。
何があった? 僕は何を忘れている? 孤児院で、僕は、何を――
記憶の糸をたぐり寄せようとした、その時だ。僕は突然の頭痛に目眩を起こし、よろめいた。
「雨宮……? どうした!?」
異変に気がついた御堂島さんが僕を支えてくれた。けれど、僕はすぐに「大丈夫です」と遠慮して、片手で頭を押さえながらも自力で踏ん張った。こめかみをハンマーで叩かれているみたいにズキズキと痛む。相当僕の顔色が悪いのか、御堂島さんは僕を覗き込んで「本当に大丈夫か?」と依然心配してくれたが、僕は「それより」と言葉を紡ぐ。
「僕は、この声を知っているかも知れません。僕の……友人です」
「なんだって?」
全員の見開く目が僕に集まった。それから御堂島さんは信じられないといったように僕へ問いかける。
「雨宮の……友人?」
「確証はありませんが……きっと、恐らく……」
いいや、『きっと』なんて不確かなものじゃない。確証はなくとも、確信はあった。聞き間違えるはずがない。あの声は、僕の遙か昔の記憶を呼び覚まそうと脳を揺さぶったのだから。
だからこそ、僕は確かめたかった。そして好都合なことに、打って付けの確認方法が目の前にある。
「一つ、お願いがあるんですが」
何かの間違いであって欲しい、と淡い願いを込めて。
「僕を、メモリーエクストラクションしてくれませんか?」
僕の中に眠る、僕の知らない記憶を。
「じゃあすぐに始めるわよ。目を閉じてリラックスしてね」
北見さんの指示通り、僕はコネクターの中で目を閉じ、肩の力を抜いて、海を漂う藻屑のように身を任せた。
メモリーエクストラクションは普段僕たちが使っているコネクターでも行えるらしい。さらに言えば、本人をそのまま記憶の中にダイブさせることも可能とのことだった。僕は迷わず、それをお願いした。
目元に機械が下りてくる。すぐにあの魂を吸われるような浮遊感が胸を撫で、僕の意識は遠退いていった。
そして次に気が付いた時には、僕は昼空の下、田舎の山奥にぽつんと建つ古ぼけた木造の建物を、少し離れた茂みの前から眺めていた。僕の育った家。孤児院だ。
懐かしさから周囲を見渡していると、オレンジ色の花が咲き誇る花壇が目に飛び込んできた。
キンセンカだ。どうしてあの花を知っていたのか、どうして香りに懐かしい覚えがあったのか、得心がいった。あの花は、僕の故郷の花だったのだ。思い出した途端、どうして今まで忘れていたのか不思議でならなくなるくらいだった。
すぐに子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。孤児院の中からぞろぞろと子供たちが飛び出してきて、元気に庭で遊び始めたのだ。
縄跳びをする者、鬼ごっこをする者、ドッジボールをする者。限りある庭で様々な遊びを繰り広げている。
そんな活発に遊び回る子供たちの中から――見つけた。銀髪の少年、薬師川勇希を。
彼は、僕と鉄棒をして遊んでいた。幼い頃の僕とだ。一緒に遊んでいるというより、妹の遊びに付き合っている兄のような様子だった。
透き通るような白銀の髪。慈愛に満ちた目元。優しい笑顔――彼は僕の記憶のままの姿だった。つまり、これは彼が高校一年生の頃か、それでなくてもその前後の頃の僕の記憶ということになるのだろう。
『なんだ佳由良。もうすぐ四年生になるってのに、逆上がりもできないのか?』
『……できるもん』
一回も回れない僕を見て、勇希がからかうように笑っている。僕はムスッと膨れて、何度も何度も鉄棒にチャレンジを繰り返している。でも、僕はいくら挑戦しても逆上がりはできず、鉄棒にぶら下がって足をばたつかせているばかりだった。
そうだ……この光景、覚えている。運動の苦手だった僕は、逆上がりがどうしても出来ず、勇希に練習の付き添いをお願いしたのだ。そして勇希に笑われたことに業を煮やして、その後特訓に励み、ついに鉄棒を克服した。そんな過去が、確かにあった。
「北見さん。聞こえますか?」
僕が空虚に向かって呼びかけると、すぐに耳元で「はいはーい」と軽い声が返ってきた。記憶捜査同様、北見さん含め、今の第一係室では皆がモニターを通して僕の記憶を見ているのだ。
「あの白髪の少年が、先ほど言った僕の〝友人〟になります。名前は、薬師川勇希です」
「そう……」
北見さんは重たげな声に変わった。
「ならさっそくだけれど、残念なお報せよ。その男の子の声と、高岡彰の記憶から修復した〝専門家〟の声を分析したところ、声紋がほとんど一致したわ」
「そう……ですか……」
それを聞いて、僕はもう驚くことはなかった。ただ、逃げ道を塞がれて、希望を失って、『ああ、やっぱりそうだったんだ』と納得するしかなくて、少し落ち込んだ。どうして彼がそんな道に走ってしまったのか、不思議に思う反面、残念でならなかった。
しばらく様子を見ていると、鉄棒で遊んでいた僕たちのもとへ新たに一人の女の子が駆け寄ってきて、楽しそうに一緒に鉄棒を始めた。当時の僕と同年代ほどの少女だ。
あの子は誰だろうか。僕たちと仲良さそうに遊んでいるのだから知り合いのはずだ。僕は知っているはずだ。けれど……思い出せない。まだ頭に何かが引っかかっている。
頭を悩ませていると、その少女がこちらに駆け寄ってきた。……こちらに?
すぐにそれは記憶世界においては不自然な出来事であることに気がついて、僕は疑問に思い背後を見やる。でも際立ったものは何もない。ただ鬱蒼とした茂みがあるだけだった。
『久しぶりだね、佳由良ちゃん』
その声に――明らかに〝過去の僕〟ではなく〝今の僕〟を呼ぶようなその声に、心臓が破裂しそうなほど脈動を打った。耳を疑った。
恐る恐る前へと向き直る。幼い少女が、花の咲いたような笑顔で〝僕〟を見上げていた。
そんな……あり得ない。今の僕は言わば、モニターの向こう側にいる存在だ。過去の記憶の、ただのデータであるこの少年少女たちに僕は認識できないはず。
そもそも、これは僕の記憶の再生。追体験だ。記憶にある事実がそのままその通りに再生されるだけのはず。なのに……どうして……。
『どうしたの? 私のこと覚えてないの?』
少女は不思議そうに首を傾げた。
頭が混乱していく。あり得ない……こんなことはあり得ないはずだ。過去の記憶が僕に話しかけてくるなんて。
『でも、仕方ないよね。佳由良ちゃんにとって私は、ツラい記憶だもん』
「……え……?」
一体、何を言って――
「ぐぅ……ッ!」
突然強烈な頭痛に襲われ、僕はよろめいた。
視界が歪む。景色が歪む。……いや、違う。事実、記憶世界が歪んでいた。
古いテレビでも見ているように色がくすみ、映像が乱れていく。
やがてその乱れが収まった時、子供たちはいなくなり、空から日が落ち闇空へと変わっていた。――けれど、周囲は異様に明るかった。ごうごうと燃え盛る孤児院の炎によって、周囲が赤く照らされていた。
「そ……んな……。なんで……」
燃える孤児院の前で、僕は膝をつく。それまで薄膜で守られていた卵の黄身が弾けて途端に形を崩していくみたいに、頭の中が掻き乱されてぐちゃぐちゃになっていく。
わからなかった。これが何なのか。何が起きているのか。僕が一体、何を忘れているのか。
『大丈夫だよ、佳由良ちゃん。佳由良ちゃんなら、きっと大丈夫。大丈夫だから』
彼女は絶えず、僕に語りかけてくる。
「なに……これ……!」
僕の中に焦燥と不安が入り交じった黒い闇が広がっていった。
思考が正常に機能しない。呼吸が荒くなる。目眩のするような激しく鋭い頭痛が脳をかき回す。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――」
何が嘘なのか自分でもわかっていなかった。けれど僕は、それを叫び続けた。やがて――
「――ゆらちゃん、佳由良ちゃん!」
「……ッはあ……はあ……っ!」
僕は飛び起きた。心配そうに僕を覗き込む北見さんの顔がすぐ近くにあった。
「大丈夫!?」
「……は、はい……。なんとか……」
手が震えている。頭がずきずきする。胸の奥でまだ黒く渦巻く脈動が暴れている。
「良かった……。ごめんなさい、ものすごい心拍数の上昇を検知したから強制終了させてもらったわ。その……アナタの記憶についてはなんて言ったらいいか……」
北見さんは言葉に困ったように口元を押さえていた。他の皆も一様に、掛ける言葉が見つからないといった重い顔をしている。
「気にしないで下さい。僕もまだ……よくわかっていないので……」
どうして孤児院が燃えていたのか。どうして僕にその記憶がないのか。僕自身何もわかっていないのだから、落ち込みようがなかった。
「それより、どういうことですか? 記憶世界の中で女の子が僕に話しかけてきたあれは、一体……」
「女の子が佳由良ちゃんに?」
北見さんは不思議そうに眉を顰めた。
「確かに幼い頃の可愛らしい佳由良ちゃんに話しかけている女の子がいたけれど……それがどうかしたの?」
「いえ、それではなくて……。ダイブした僕自身に、女の子が話しかけてきたことです」
全員が顔を見合わせた後、兵藤さんが言いにくそうに口を開く。
「庭先で遊ぶ子供たちと、その後突然映像が乱れて、次の瞬間に……建物が炎に包まれていた。俺たちにはそれしか見えなかったが……」
「そんな……」
まさか、モニターには映っていなかった……? 僕だけに見えていた?
僕は記憶世界の中で幻覚でも見ていたのだろうか。
だとしても、どうしてそんな幻覚を見たのだろう。語りかけてきたあの少女は、一体――




