第1話 登商試験
「三十枚と言ったはずだ。二十枚なら零と同じだ!」
「ひっ……!」
赤嶺銀商の登商監役、ヴァルダー伯爵は、令嬢が肩を震わせても眉一つ動かさなかった。
「で、ですが、わたくしは二十枚まで――」
「全然足りねえじゃん!」
怒声が、窓のない石室を震わせた。
「も、申し訳ございません……」
「全然足りねえじゃん! なあ!」
太い掌が長机を叩いた。
「あと十枚です! 来月までには必ず……!」
「来月を許したら再来月になるだろう! 期限のない仕事は仕事ではない!」
令嬢の頬を涙が伝った。
登商監役は、その泣き顔をまっすぐ見据えた。
慰める気配など、微塵もない。
「謝っている時間も無駄だ。マティルド嬢の登商試験は以上。下がれ!」
呼鈴の甲高い音が、石壁に何度も反響した。
扉の脇に控えていた二人の従士が、マティルドの両腕を取る。
「お、お待ちください! 家が、家がなくなってしまいます!」
令嬢の靴が、床を引きずられていく。
重い扉が閉まる直前、一瞬だけ目が合った。
次はお前だ、とでも言うような目だった。
十枚の未達。
それだけで、一つの家が消える。
券は、赤嶺銀商から預かった品だ。
売れた分の代金を納め、売れ残りは自分で買い取る。
券一枚の値は、平民の年収に届く。
十枚なら、十年分。
販売期限は、今日まで。
マティルド家は、すでに領地を借金の形に入れている。
十年分を用立てる余地は、どこにも残っていない。
泣き声が、分厚い石壁の向こうへ遠ざかっていった。
灯りは長机の両端に立つ燭台だけで、天井の高さは闇に溶けて見えない。
部屋に残されたのは、あたしと、もう一人の令嬢。
書記官たちは何事もなかったかのように、汚れた羽根ペンの先を整えている。
長机の向こうでは、登商監役が次の獲物を待っていた。
息をする音さえ、値踏みされているような沈黙だった。
長机を叩いたあの音が、耳の奥で別の音に重なる。
支店長が会議机を叩く、乾いた音。
――ああ。この空気を、あたしは知っている。
朝礼で未達者が吊るし上げられ、見込みを一件ずつ詰められる。
できるはずもない数字を約束させられ、また吊るし上げられる。
あの世界の空気だ。
だが、怯えてなどいられない。
あたしの名は、シャルロット・ダルジャン。
齢十八。
銀の髪と青い瞳を持つ、没落男爵家の令嬢である。
ただし、中身は令嬢ではない。
前世の名は、橘玲子。
メガバンクの法人営業だった。
朝八時から夜十時までの十四時間勤務。
西船橋の独身寮から立川支店まで、往復三時間半。
帰寮の頃には食堂は閉まっているから、駅前の富士乃屋で牛丼を掻き込む。
大浴場の湯も抜かれていて、シャワーを浴びるだけ。
朝はカフェイン錠で身体を叩き起こし、夜はタフゼロ――アルコール度数九パーセントの缶チューハイを流し込んで気絶する。
五時間経ったら起きて、また支店へ。
そんな毎日だった。
あの日は、稟議が三件重なっていた。
稟議とは、取引を認めてもらうために、上役の判を一つずつもらって回る書類である。
営業車で青梅街道を走りながら、帰店後の段取りを組み立てていた。
一件目は今月末が期日だから、今週中に資料をもらって――
そこで、意識が途切れた。
はっと目を開けたときには、車は赤信号を突き抜けており、正面から大型トラックが迫っていた。
「やばっ……!」
そして気づけば、この身体になっていた。
なぜかはわからない。
だが幸い、言葉も礼法も、身体が覚えていた。
家族のことも、この世界のことも、元のシャルロットの記憶として残っている。
あたしは目覚めた翌朝から、その記憶を頼りに券を売り歩いた。
家柄とは過去の数字。
家格とは今の数字。
将来の数字を作れぬ家に明日はない。
没落寸前のダルジャン家を立て直すには、あたしが最大手である赤嶺銀商へ登商し、数字を作るしかなかった。
その最初の関門が、第一王子の舞踏会券三十枚の販売である。
券は舞踏会への招待状であり、王子と赤嶺銀商への忠誠を測る、高価な踏み絵でもあった。
パイプの煙が、鼻先をかすめた。
意識が、石室へ戻る。
「さて」
登商監役が椅子に座り直した。
卓上の長いパイプを手に取り、火皿に刻み煙草を詰める。
先ほどまで机を叩いていた手で、燭台の火を移した。
ゆっくりと吸い、細く煙を吐く。
一つの家を潰すと告げた直後とは思えない、寛いだ仕草だった。
問答次第で、次にあの扉から追い出されるのは、あたしかもしれない。
「残る二名の登商試験を始めよう」
隣の令嬢が、音もなく椅子を引いて立ち上がった。
薔薇色の裾が、滑るように一歩ぶん動く。
「お初にお目にかかります、ヴァルダー伯爵閣下。カトリーヌ・ド・ソレイユと申します」
膝が沈み、背筋が伸びた完璧な礼。
淀みのない笑顔。
カトリーヌは、王家の縁戚にも連なるソレイユ子爵家の令嬢である。
財力、血脈、後ろ盾。
生まれる前から紹介状を持っているような家だ。
「お初にお目にかかります、ヴァルダー伯爵閣下! シャルロット・ダルジャンにございます!」
一方のあたしは没落男爵家。
名を告げた途端に、扉を閉められる側である。
「元気があってよいな。着席するがよい。両名とも、本日までに舞踏会券三十枚を販売した。ゆえに、口頭試問を受ける資格がある」
登商監役の机には、一通の書状が置かれていた。
封蝋に刻まれているのは、王家の紋章。
宛名は、カトリーヌ・ド・ソレイユ。
「本日の登商枠は一名だ。ソレイユ嬢には、王家から推薦状が届いている」
「身に余る光栄にございます」
カトリーヌが、裾を指でつまんで膝を折った。
表情には、わずかな揺らぎもない。
なるほど。
これは試験ではない。
すでに決まった採用に、もっともらしい理由を添えるだけの儀式だ。
前世にもあった。
表に出ないOB訪問会。
学歴で弾かれる、説明会の予約枠。
「もっとも、赤嶺銀商は数字を尊ぶ。家名に恥じぬ回答を期待する。飾らず、短く答えよ。まずソレイユ嬢からだ」
「承知いたしました」
「舞踏会券を、どのように売った」
「ソレイユの名を告げ、ご縁のある十二家へ。十日で完売にございます」
「素晴らしい」
登商監役が満足そうに頷いた。
「縁は財産だ。使わず腐らせる者は愚か者だ。これからも存分に使うとよい」
「心得ております」
登商監役が、パイプをくゆらせたまま、あたしを見た。
「ダルジャン嬢は」
「歩きました」
「……歩いた?」
「はい。十日で百二十軒を歩き、完売いたしました」
書記官の羽根ペンが止まった。
登商監役の片眉が、わずかに上がる。
「……ほう。骨はあるようだな」
「恐れ入ります」
左右の書記官が、再び羽根ペンを走らせた。
「次だ。舞踏会へ集まる家々へ、どう入り込む。ソレイユ嬢」
「同じ貴族として、対等にお話しいたします」
カトリーヌの声は、張らずとも部屋の隅まで届いた。
「家々の誇りを損なわぬよう心を配り、信頼を築いた上で、それぞれにふさわしい取引をご提案いたします」
「結構」
登商監役が頷く。
「大貴族と対等に話せる家格は、それだけで立派な武器だ」
視線が、あたしへ移った。
「ダルジャン嬢は」
「下僕になって食い込みます」
書記官の羽根ペンが、また止まった。
「……対等ではなく、下僕になるのか?」
「はい」
「お主は貴族の娘だぞ」
「当家は男爵家。大貴族と家格で対等には立てません。ならば、手足になって懐へ入ります」
「ほう」
「例えば、閣下がワインをお好みなら、各地の酒蔵を回ります。狩猟がお好きなら、先に山へ入り、獣を追い込みますわ」
登商監役が、パイプを口から離した。
「ふむ、身を弁えている。なかなかよいな、ダルジャン嬢」
「ありがとうございます」
「次だ」
登商監役は、パイプをくゆらせ、間を置いた。
煙の向こうで、目だけが笑っていなかった。
「顧客の利益と、赤嶺銀商の利益。二つが食い違ったとき、どちらを取る」
どちらを選んでも、首を絞められる問いだった。
「ソレイユ嬢」
「双方が栄える道を探しますわ。お客様の信頼なくして、永き商いは成り立ちません」
カトリーヌは、涼やかな声で答えた。
「模範的な答えだ。それができれば、理想だな」
登商監役が頷く。
「ダルジャン嬢は」
「赤嶺銀商にございます」
即答だった。
隣で、カトリーヌの睫毛が一度だけ伏せられた。
「……顧客を見捨てるのか?」
「いえ。赤嶺銀商には、基盤も、人も、船もございます」
あたしは続けた。
「顧客一人では立ち行かぬときも、赤嶺銀商であれば助け起こせます。赤嶺銀商の利を守ることが、いずれ顧客の利になりますわ」
「顧客が救われぬときはどうするのだ」
「そのときも、わたくしは赤嶺銀商を取りますわ」
今度は、二人の書記官がそろって羽根ペンを置いた。
登商監役は、しばらく黙っていた。
「そのとおりだ」
灰皿へ、パイプの灰が落ちる。
「顧客第一など、赤嶺銀商が存続して初めて言えることだ。迷ったときは赤嶺銀商を取らなければならない。それはお主たちの家も例外ではない」
登商監役の視線が、あたしとカトリーヌを順になぞった。
「最後の質問だ。なぜ、赤嶺銀商に登商したい。緑翼銀商も、青樹銀商もあるだろう。ソレイユ嬢」
カトリーヌは、間を置かずに答えた。
「わたくしどもソレイユは、国王陛下と血を分けた縁に連なる家。三つの銀商のうち最も古く、第一王子殿下を支え申し上げる赤嶺銀商にこそ、身を置くのが道理と存じます」
「結構。由緒ある家には、由緒に見合う座が相応しい」
登商監役が頷き、あたしを見た。
「ダルジャン嬢は。家格を思えば、身の丈に合った銀商もあるはずだ」
意地の悪い問いだった。
没落男爵家の娘が最大手を望むのは分不相応――そう言いたいのだ。
あたしは、背筋を伸ばした。
「頂点の皆さまとお友達になりたいからにございます」
瞬き一つせず、まっすぐ登商監役を見返した。
視線に力を込めると、口の端が勝手に吊り上がった。
「二流の百人より頂点のお一人の方が、はるかに大きな商いを行えます」
「だから、何だ」
「最も多くの金貨を扱い、最も船を持ち、最も証文に明るく、最も遠くに伝手を持つ方々。その方々が集うのが、赤嶺銀商にございます」
燭台の炎が揺れた。
左右に座る書記官が、あたしの目を見て、そっと視線を逸らす。
「頂点の皆さまを束ね、その総力を一件のご提案へ注ぎ込む。さすれば、動かせぬ商いなどございません」
一語ずつ、区切るように話した。
石室が、静まり返っていた。
「わたくしは、赤嶺銀商で営業の頂に立つ銀商員になりますわ!」
隣で、絹の擦れる音が一度だけ鳴った。
カトリーヌは笑みを崩さぬまま、まっすぐ前を向いている。
登商監役のヴァルダー伯爵は、パイプを灰皿へ置いた。
煙が、まっすぐに立ちのぼる。
次の一言で、家が栄えるか、このまま没落するかが決まる。
沈黙が、長い。
「気に入った」
低い声が、石室に響いた。
左右の書記官が顔を上げる。
「結果を告げる」
あたしとカトリーヌは、姿勢を正した。
「カトリーヌ・ド・ソレイユ嬢」
「はい」
「そなたを、赤嶺銀商の登商者として迎える」
「ありがたき幸せにございます」
カトリーヌが静かに立ち上がり、膝を沈めて礼をした。
広がった裾が、床の上で静止する。
予定どおりの結果だった。
同じ三十枚を売ったなら、家格が上で、王家の推薦を持つ令嬢を採るのが道理だ。
さて、父になんと報告したものか。
「そして、シャルロット・ダルジャン嬢」
「はい」
「そなたも登商者として迎えよう」
左の書記官が、思わず椅子から腰を浮かせた。
「閣下。本日の登商枠は一名のはずでございます」
ヴァルダー伯爵は、太い指で机を一度叩いた。
「数字を作れる人間を、予定になかったという理由で帰すのか」
書記官が口を閉じる。
「登商監役の裁量で、一名追加する。両名とも合格だ」
伯爵の視線が、あたしを射抜いた。
「予定より使える者が、一人多かった。ならば、一人多く採ればよい。それだけの話だ」
あたしは立ち上がり、礼をした。
「謹んで、お受けいたします」
視界の隅で、カトリーヌの笑顔は、淀みのないままだった。
ただ、扇を握る指だけが白くなっていた。
「ソレイユ嬢はヴァロリア本部へ。ダルジャン嬢は南方アメリ出張所へ赴け」
「承知いたしました」
その瞬間、カトリーヌの指から力が抜けた。
「出張所ですって」
扇を開き、その陰でくすりと笑う。
それからあたしへ向き直り、薔薇色のドレスの裾をつまんだ。
「これからよろしくお願いいたしますわね、ダルジャン様」
あたしは黙って一礼を返した。
南方アメリ出張所。
支部ですらない、ド田舎にある赤嶺銀商の末端だった。
本部のカトリーヌ。
辺境のあたし。
だが、構わない。
この世界では、数字が家格を作る。
始まりが本部だろうと出張所だろうと、最後に大きな数字を積んだ者が上へ行く。
貴族令嬢シャルロット、本日、赤嶺銀商へ登商。
これより、絶賛営業開始である。
(第1話・了)
金融業界の面接を受ける時は、テンションをブチ上げて、バキバキの目で「トップになりたいんですッ!」って言うと良いよ!
章のタイトルのとおり、本作は章を経るごとに、ドンドン壮大に、ドンドンおもしろくなっていきます!
ぜひ第3話までで良いので、第3話までで良いので読んでくださいッ!
銀行文化をたくさん感じられるはずです!
コメントとブックマーク、星評価も、よろしくお願いしますッ!(バキバキの目で)




