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物語序章 第一版 91章

蒼き学舎 ―海を渡る者たち―


 潮風の匂いが横須賀の丘を渡っていた。

 丘の上には新たに建てられた白亜の建物――海軍総士官学校。

 その正門には青銅の文字が輝いていた。

 「知を以て海を征す。」


 朝の号令が響く。

 若き士官候補たちは一糸乱れず整列し、海を背に敬礼した。

 その瞳にはまだ少年の面影が残るが、

 声はどこか凛としていて、すでに潮の風を知っているようでもあった。


 彼らは地図の上で戦い、潮流を読み、

 数式で風を計り、そして人の心を理解する術を学ぶ。

 明賢は講堂の最上段からその様子を静かに見つめていた。

 ――もう刀では国は守れぬ。海の果てを制するのは、知識と組織だ。


 その理念のもと、士官学校では戦術や航海術に加え、

 気象学、電信学、機械工学が必修となった。

 艦を操る者は機械を知り、

 人を導く者は言葉より先に数字を読む。

 それが、この新しい時代の軍人の条件だった。


 一方、一般兵の育成は全国に広がる海軍学校で行われた。

 呉、佐世保、舞鶴、そして遠くシドニーやサンディエゴにも分校が設けられた。

 訓練の朝はどこも同じ。

 笛の音が鳴り響き、若者たちは汗にまみれながらも声を張り上げた。

 波が白く砕ける浜辺を駆け、整列し、銃を掲げる。

 「我ら海を守る楯となる!」

 誰かが叫ぶと、それに呼応して千の声が空へ吸い込まれた。


 教練が終わると、彼らは艦の構造を学び、機関の点検を覚え、

 夜には航海灯の信号を読み取る練習を繰り返した。

 灯りの点滅の中で交わされる無言の通信は、

 まるで星と星が語り合うようでもあった。


 やがて、完成した艦艇が続々と港を満たした。

 重巡洋艦八十四隻、軽巡洋艦二百五十二隻、駆逐艦五百四隻。

 補給艦四十、救難艦八、観測船八。

 総勢――二十五万五千二百名。

 すべてが波を知る者たち、海に生きる民。


 艦隊の配備は緻密だった。

 三艦隊でひとつの編制を作り、「整備」「訓練」「実戦」が交代で巡る。

 整備に入った艦の乗員は短い休暇を得るが、

 港に戻っても、彼らの視線は常に水平線を追っていた。

 誰もが次の航海を待ち望んでいた。


 夜の演習海域。

 星々の間に並ぶ艦影が静かに灯りを放つ。

 灯火の連なりはまるで動く都市のようで、

 その中心では無数の通信信号が行き交っていた。

 「こちら第三区、進路異常なし。」「了解、第一区、合流地点確認。」

 低い声と共に、無線が遠く夜空を裂いた。


 明賢は艦橋に立ち、黒い海を見つめる。

 どの艦も、どの灯も、誰かの命が宿っている。

 それを思うと、胸の奥が熱くなる。


 ふと、隣に立っていた若い士官が呟いた。

 「提督、この光が……我らの国境なのですね。」

 明賢はわずかに笑みを浮かべ、答えた。

 「そうだ。だが国境とは、守るためだけのものではない。

  海とは、我らを結ぶ道でもある。」


 潮風が吹き抜け、艦旗がたなびく。

 波間にきらめく灯りが、やがて夜明けの光に溶けていく。


 ――この海に生き、この海を越え、世界を結ぶ。

 それが彼ら“海を渡る者たち”の使命であった。


 どの艦がどこへ向かうのか、どれだけの燃料が残っているのか。

 そのすべてを把握し、数字で海を動かす者たちがいた。

 彼らは銃を持たず、戦闘服ではなく青い制服を着ていた。

 ――海軍事務局。


 机の上に積まれた書類の束が潮風で揺れる。

 帳簿をめくる音、タイプライターを叩く音、

 そして無線で伝わる艦隊からの報告が、

 まるで心臓の鼓動のように庁舎の中を満たしていた。


 「横須賀第一区、補給完了報告受領。次の出航は明朝六時――」

 ペンを走らせる若い士官が呟く。

 彼の背後には、同じように数字と戦う仲間たちの姿があった。

 紙の上の計算がひとつでも狂えば、海の上の艦隊が飢える。

 彼らにとって戦場は海ではなく、帳簿の中にあった。


 港では、別の“兵士”たちが汗を流していた。

 大鍋で米を炊き、魚をさばき、艦ごとの配膳表に従って食料を積み込む。

 厨房の湯気の向こうで、炊事兵たちの笑い声が響く。

 「艦の飯がうまいと士気が上がる、って提督も言ってたぜ」

 「そうかよ、じゃあ次は味噌を倍にしてやるか」

 笑いながら、湯気の向こうでまた新しい鍋が火にかけられた。


 港の裏では洗濯兵が山のような制服を干している。

 潮風に揺れる白い布が、まるで旗のようにたなびいていた。

 この白こそ、海軍のもう一つの象徴だった。


 また、海軍学校にも事務員たちはいた。

 生徒の成績を記録し、演習予定を立て、

 教官の講義資料をまとめる。

 事務員の一人である教官、佐伯中尉は

 かつて数学の教師であり、今は航海計算の講師を務めていた。

 「君たち、航路の誤差一度は距離にして百キロだ。

  数字の一つを軽んじれば、人命が沈むと思いなさい。」

 その声に、士官候補生たちは息を呑んだ。


 海軍の総人員は増え続け、今や三十万を超える。

 その中で、事務・会計・補給・炊事・洗濯・教育――

 そうした兵を合わせて八万人がこの“裏方の海軍”として働いていた。

 各基地の兵力に比例して配備され、

 呉の港にも、シドニーにも、ノーフォークにも、

 必ず彼らの影があった。


 「彼らがいなければ、艦は動かない。」

 明賢は、横須賀の司令室でそう呟いた。

 目の前の報告書の束は、数百隻の艦と数万の命の記録である。

 書類の端には、どこか潮の匂いが染みついていた。


 夜、港の灯が静かに波に揺れる。

 整備兵が艦底を叩き、炊事兵が鍋を洗い、事務員が帳簿を閉じる。

 それぞれがそれぞれの戦場で一日を終えた。

 海軍とは、戦う者だけのものではない。

 数字を信じ、汗で艦を支えた者たちの集まりでもあった。


 彼らの背に、灯火のように漂う言葉があった。

 ――「誰も知らぬ場所で、我らが海を支えている。」

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