物語序章 第一版 11章
第十一章 江戸への道
出立の日、清助は多くの荷を整えた。
測量器、帳簿、書物、そして小型の通信機。
明賢はそれを見ながら言った。
「次は“国の形”を作る段階だ。
この戦は、始まりに過ぎない。」
馬車が門を出ると、朝の風が頬をかすめた。
関ヶ原の霧に似た冷たい空気だった。
それがまるで、次の時代の幕を告げる合図のように思えた。
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江戸城の光
江戸に着くと、街はまだ整備の途中だった。
道は狭く、屋根は低い。だがどこかに新しい力が漂っていた。
人々は徳川の時代を信じ、誰もが明日を見ていた。
父は家康への謁見を命じられた。
明賢も同行を許された。
大広間の障子越しに射す光が、まぶしく目を焼いた。
その光の先に、新しい時代の主がいた。
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顧問として
家康は明賢を一瞥した。
まだ幼子の姿でありながら、その目には静かな深さがあった。
家康が問いかける。
「戦の理を知ると聞いたが、幼子の戯言ではあるまいな。」
「理は年ではなく、積み重ねでございます。」
明賢は一歩も引かずに答えた。
沈黙ののち、家康は低く笑った。
「面白い。では、そなたの理でこの国を導けるか?」
「導くには、まず“心”を知ることからです。」
その日を境に、明賢は徳川家康の顧問として出入りを許されることとなった。
作戦会議に参加し、進言を求められる立場に。
だが彼の真の目的は、国を操ることではなく、“国を育てる”ことにあった。
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目標
明賢はその夜、江戸の宿に戻り、静かにノートを開いた。
そこには三つの目標が書かれていた。
一、家康の信を得て、心の構造を読み解くこと。
二、国を支える教育と行政の基盤を作ること。
三、理と技術によって、日本を未来へ導くこと。
蝋燭の火が小さく揺れ、紙の上に影が落ちる。
その影がまるで、これから伸びていく国の輪郭のように見えた。
第十二章 新しき屋敷
関ヶ原の戦の後、徳川家から正式な褒賞が下された。
葛城家は戦功を認められ、家禄が大きく増加。
新たに小禄旗本相当の地位を与えられた。
知行は二百石ほど――小さいながらも“旗本”としての名を得た。
屋敷も江戸の郊外に新しく構えられ、
父の名は武勇で知られ、兄は若手ながら忠義の士として評価されていた。
そして、家の中には新しい息吹が生まれ始めた。
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人が増える家
引っ越しの日。
屋敷の門が開かれると、次々に新しい人々が入ってきた。
道具を担ぐ者、荷を運ぶ者、慣れない表情で庭を見渡す者。
家の中は一気に活気を帯び、まるでひとつの小さな村のようになった。
清助は新しい部屋の整理を任され、
観測機器や工作道具を慎重に運び込んでいた。
「ここが研究所になるのですね」
「いや、まだ“仮の家”だ。だがここから未来が始まる。」
明賢は静かにそう答えた。
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家士の影
父と兄のもとには、新たに二名の武士見習が配属された。
彼らは剣と槍を携え、日々の訓練と警護にあたる。
父の戦法を学びながら、兄の指示で報告を行い、
夜には屋敷の周囲を巡回していた。
一人は寡黙で実直、もう一人は俊敏で器用。
彼らはやがて、明賢の作る「新しい戦術装備」の試験にも協力することになる。
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日々を支える者たち
従者と小者が三名。
屋敷の掃除や炊き出し、荷運びに忙しく走り回っていた。
彼らはまだ若く、だが忠実だった。
明賢の部屋に出入りする際は必ず手を清め、
扱う物の意味を理解しようと努力していた。
奉公人の三名は母のもとで働いた。
炊事、洗濯、縫い物。
中には薬草の知識を持つ者もおり、妹たちの世話をしながら医療補助を担った。
母は彼女たちを娘のように扱い、屋敷全体の空気が柔らかくなった。
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技の継承者
職人と書記、二名が明賢の研究に加わった。
一人は木工と鍛冶に秀で、もう一人は筆記と記録を得意とした。
明賢は彼らに新しい工具の扱いを教え、
書記には研究記録の筆写を任せた。
「筆で追う言葉に、命を残すのです。」
明賢の指示に、書記は深く頭を下げた。
やがて彼らは「葛城家技録」と呼ばれる最初の技術記録帳を作り始めることになる。
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馬と土の守り手
屋敷には馬丁と農夫が二名ずつ置かれた。
馬や牛の世話、庭木の手入れ、畑の管理。
明賢の指導で、畑には試験的に肥料と灌漑の仕組みが取り入れられた。
「水を制す者は、土地を制す」
そう言いながら、明賢は新しい水路の図を描いた。
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成長する屋敷
こうして、葛城家の屋敷はひとつの“小さな社会”になった。
戦で得た名誉が、家の形を変え、人の流れを呼び、
そして明賢の理想を支える土台となった。
夜、明賢は屋敷の中庭で風を受けながら呟いた。
「この家が一国の縮図になるように。
ここからすべてを始めよう。」
庭の灯が揺れ、金属と木の匂いが微かに混じった。
それは戦の時とは違う、
“建設の匂い”だった。
新しき学び舎
葛城家が江戸へ移ることとなった後、
明賢は旧屋敷をどう扱うか、最後まで迷っていた。
あの屋敷は、自分が初めて科学を教え、
清助と共に多くの実験を行った場所。
そこに流れる空気と音は、まるで記憶そのもののようだった。
「ここを塾にしよう。清助、お前に任せたい。」
「……よろしいのですか?」
「ああ、ここで得た知識を広げるんだ。次の世代へ。」
明賢の言葉に、清助は深く頭を下げた。
こうして「清助塾」が正式に設立された。
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清助塾の始まり
旧屋敷はそのまま塾舎に改修され、
部屋はすべて用途ごとに割り振られた。
北側の三室は教師たちの生活のための部屋。
南側の広間は講義と実験の場として整えられた。
中庭には新しく井戸と貯水槽が設けられ、
屋根には明賢が残していった太陽光パネルが輝いていた。
机と筆、板と測定具。
それらが揃えられると、
屋敷は再び知の音で満たされた。
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教師と塾生
清助を含め三人の教師が中心となり、
日々二十名を超える塾生を教えていた。
年は十にも満たぬ者から、三十を越える者まで。
彼らは「読み」「書き」「数」を越え、
理科・測量・工学・思考の訓練を受けた。
授業の合間には庭で模型を動かし、
風車や水車を組み立てる声が響いた。
塾の空気にはいつも木の香りと油の匂いがあった。
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知の連鎖
学び終えた塾生の中で、
特に優秀な者は清助塾の助講師として残るか、
あるいは江戸で新たに開かれる「賢明塾」へ送り出されることになった。
明賢はその仕組みを“知の連鎖”と呼んだ。
教えた者が次の教師となり、
その教師がまた次を育てる。
終わりのない教育の循環が、ここに生まれた。
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明賢の願い
出立の日、明賢は屋敷の前に立ち、
清助と塾生たちを見渡した。
「この屋敷を守り、広げてくれ。
学びは国を強くする最初の礎だ。」
清助は静かに答えた。
「必ずや、ここから百人、千人の知者を生み出してみせます。」
屋敷の屋根に降り注ぐ陽光が、
まるで新しい時代の始まりを祝うように輝いていた。
江戸への移住
春の風が吹く頃、葛城家は江戸へと移った。
江戸の町はまだ造成の途中にあり、
道は泥を含み、家々は木の香りを漂わせていた。
それでも人々の顔には、どこか未来を信じる明るさがあった。
新居は江戸城の近く、坂を少し下った静かな一角に構えられた。
門は黒塗りの新材で作られ、庭には小さな池と松が植えられた。
家人たちは荷をほどき、生活の支度を整える。
明賢は縁側に座り、
新しい屋敷の中庭を見渡した。
「ここが、“国の中心”になる場所か……」
まだ土の匂いが濃く残る空気の中で、
彼はそう呟いた。
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賢明塾の構想
江戸に着いて間もなく、明賢は教育の拠点作りに取りかかった。
清助塾の発展形として、江戸各地に複数の小型校舎を設立する構想だった。
「ひとつの大きな塾より、多くの学び舎を町に散らす。
そうすれば、知は流れ、町そのものが学校になる。」
父は土地の交渉を行い、兄は人の選定を任された。
塾舎は町ごとに異なる姿をして建てられた。
木組みの平屋、町屋の一角を改修したもの、
寺の裏手に建つ小堂のような校舎もあった。
どの塾にも机と板、そして小さな本棚が置かれ、
子どもたちの声と墨の匂いが満ちていった。
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教えの広がり
「賢明塾」の名は次第に江戸の人々の口にのぼるようになった。
寺子屋とは違う、理と計算を重んじる新しい教育。
その内容の多くは、清助塾から届く教材と、
明賢が夜に作成する指導書によって支えられていた。
塾生の中には、武家の子弟だけでなく、
商人の子、職人見習い、医者を志す者までが混じっていた。
学びが身分を超え始めた最初の瞬間だった。
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徳川家康との謁見
江戸の屋敷に移って間もなく、明賢は正式に召し出された。
徳川家康の顧問としての任を授かるためである。
広間に入ると、家康は畳の中央に座し、
その横には家臣が並んでいた。
光が障子越しに差し込み、床の間の香がゆっくりと漂っていた。
「そなた、明賢か。」
家康の声は低く、響きがあった。
「はい。葛城家の次男、明賢にございます。」
家康は静かにうなずいた。
「幼き身で戦を導き、地を読んだと聞く。
そなたは“理”をもって国を見ておるのか?」
「理なくして国は立ちませぬ。
しかし理だけでも、人の心は動かぬ。
理を心で包み、心を理で支える――
それが、強き国の形にございます。」
広間に一瞬、沈黙が落ちた。
やがて家康は笑みを見せた。
「面白い。理と心、か……。
ならば、この国の“心の形”を、共に考えてもらおう。」
その瞬間、明賢は正式に徳川家康の顧問として迎え入れられた。
家康の思考を分析し、教育と行政の指針を提言する役――
まさに、国の設計者としての第一歩であった。
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江戸の夜
その夜、明賢は新居の縁側で月を見上げた。
遠くの町には、まだ灯りがまばらだった。
しかし風は柔らかく、どこかに未来の匂いがあった。
「戦で国は動いた。
だが、学びで国は続く。」
明賢は静かに手を組み、
江戸という新しい舞台で、
これから築かれる国の形を心に描いていた。




