喰界の月
本日、2話投稿します!
夕方にもう1話投稿します。
突風が吹く。空気が揺れた。
赤い月を背に、夜を裂くように現れたそれは、“獣”の頂点だった。四肢は太く、双角はねじれ、地を這うように疾駆する。骨ばった肩からは黒煙のような熱気が立ち昇り、口腔は大きく横に割け、全身は古傷だらけだった。
喉奥から漏れる低い唸りに、空気が震える。
牙は並の鉄すら捻じ曲げ、顎は人の頭蓋をまるごと砕けるだろう。
脅威度A相当。単独で小隊を壊滅させる力を持つ中型獣。
「ようやく……出て来たな。」
ライグは低く息を吐き、右手だけで太刀を握り、膝を折った姿勢のまま、地面を蹴った。
死ぬ覚悟なら、もうとうに済んでいる。
それでも生き残った。
殺される理由も、守るべき存在も、失った。
だから今は生きるために喰う。それだけだ。
黒影が跳ねた。風を巻き上げ、両腕のように使う前肢が、一直線にライグを穿とうと迫る。
避けない。ライグは、その一撃を紙一重でいなしながら、左肩で受け流し──回転する。
「はァッ!!」
刃が閃く。太刀の残響が空気を裂き、獣の脇腹に斜めの傷を穿った。
血が噴き上がる。だが、致命傷には至らない。
すぐさま、獣が反転するようにライグの死角に回り込む。動きに一瞬の無駄もない。
(やっぱり……こいつ、賢い。)
反応、予測、速度──明らかにこれまでの本能だけの獣とは違う。
狙っている。ただ殺すのではない。
こちらの動きを見て、学んで、先を読んでいる。
足音一つ立てず、獣が再び跳ねる。
今度は垂直に飛翔し、上から圧し掛かるような体当たり。
ライグは咄嗟に太刀を上段へ構える。
金属がぶつかる甲高い音が鳴り響く。片手で支える不利な状況、太刀が耐え切れず切っ先が折れた。
上からの圧力を下方へ受け流し、バランスを崩す。折れた切っ先を跳ね上げ、先程傷をつけた脇腹に刃を深く潜らせる。
骨を断つ音が、ライグの右腕を通して感じられた。
が、獣の反撃は速かった。
背中の長い尾が、しなるように空を舞う。それがライグの脇腹を、裂いた。
「ぐッ……!」
足元に血溜まりが新しく出来る。視界が一瞬、白に染まる。
だが倒れない。膝を落とすことすら許さない。
(これで……立てなくなったら、それで終わりだ……。)
息を吐くたび、喉が焼ける。肺の奥が痛い。
だがその痛みは、生きている証だった。
赤い月が照らしている。
自分も、あの獣も、今この瞬間、等しく“飢えている”。
もう一度、距離を詰める。
太刀を振り上げる。けれど、もう鋭さはない。
獣は避ける。そして、笑ったように口を歪めた。
──笑った?
まさか……いや、違う。
けれど、その仕草は、明らかに人間の“挑発”に似ていた。
ライグは無理やり口元を吊り上げた。
「……お前、何人の人間を喰ってきたんだよ。」
怒りが湧いた。けれど、それは激情ではなかった。
静かだった。ただ、燃えるように、確かに芯に火が灯った。
「……今度は、俺が、“喰らう”。」
太刀を地面に突き立て、ライグは“感覚のない”左手で獣の首を掴みに行った。
獣が驚いたように目を見開く。
「喰われるだけの時代は……もう、終わりなんだよ。」
裂けた脇腹を更に深く、より抉るように斬り込む。左手で喉元の気管を破壊する。
他の内臓ごと、心臓を削り取る。
──ライグは、決めた。
喰らう。この存在の力を、自分の血肉にする。
それは、人間としての最後の一線を越える選択。
だが、その覚悟が、いま彼を動かしていた。
刃が、心臓に食い込んだ。獣の身体が痙攣する。
ライグは体重をかけ、太刀を捻り込んだまま、そのまま獣を地面に倒れさせるように崩した。
呻き声のような、獣の息が漏れた。まだ生きている。
だが、もう動けない。
脇腹を裂き、気管を潰し、心臓の大半を削り取っている。
ここまでやっても、ようやく“倒れた”だけだ。
この個体が、どれだけ強靭だったのかを痛感する。
(もう……動かねぇ、よな……。)
呼吸が浅い。
心臓が暴れているように脈打っていた。
膝をついた。太刀を杖代わりにしながら、ぐらつく身体を支える。
赤い月が沈みかけ、太陽が昇る。まるで、世界そのものが血に染まっているかのような景色。
風はない。
匂いだけが、重たく、濃く、鼻の奥にまとわりつく。
かつての自分なら、吐いていたかもしれない。
でも、今は違った。
「……喰うんだよな、俺は。」
誰に言うでもなく、呟く。
目の前にあるのは、まだ微かに蠢く獣の身体。
その肉に、自分の刃で開けた傷がある。そこから、まだ温かい血が流れていた。
ライグは、太刀を地面に置き、手を伸ばした。
指が、肉に触れる。温かい。……生きている。
指先が震える。
自分が、これから何をするか。
理解しているからこその、本能的な拒絶だった。
「……でも、もう……。」
口を開く。
裂かれた傷が痛む。けれど、それでも、唇を動かす。
──喰らえ。
一心不乱に噛みついた。
歯が、肉を裂く。
血が、舌に、喉に、胃に、流れ込む。
熱い。苦い。鉄のような味。
だが、同時に──
“ナニカ”が流れ込んできた。
それは血肉や栄養などではない。
もっと根源的な、“存在”そのもののようなもの。
獣の“意思”が、体内に混ざる感覚。
ライグの目が見開かれた。脳が、熱を持つようにざわめき、
手足の感覚が一瞬だけ、異質なものに侵される。
(……ぐうっ……!)
腹を抱えて、うずくまった。
胃がねじれるように痛み、頭の奥で誰かの声が響いた。
言葉ではない。音でもない。
ただ、“何かの視点”が、突き刺さる。
走る視線。焼けた空。血と肉の匂い。
──これを、知っている。
これは、あの獣の──“見ていた世界”。
「……ッは……はぁっ、はぁ……!」
がくがくと肩が揺れる。
嘔吐したい衝動を抑えながら、ライグは唇を拭った。
口の端に、まだ血が残っている。
だが、もう“喰った”のだ。
戻れない。戻るつもりもない。
「……これが、喰うってことか。」
呆然と呟く。
腹の中に、何か異物が棲みついているような感覚がある。
けれど、身体の奥ではそれが馴染もうとしていた。
──傷が、痛まない。
さっき裂かれた脇腹が、すでに血を止めていた。
痛みは残るが、出血はない。
(再生してる……? いや、違う……喰った“ナニカ”が、補ってるのか?)
全身の筋肉に、わずかながら“熱”が流れていた。
今までの疲労が、少しだけ薄れていく。
ライグは、ふらつく足で立ち上がった。
赤い月が、最後の光を発していた。
──それは、喰界の月。
この世界を呑み込み続ける、“喰らう者たち”の夜を象徴する天体。
だが、その月の下で、たった一人の人間が“喰らい返した”。
「ユウカ……。」
呟く。何も応えない。
だが、確かに、どこかで誰かが見ているような気がした。
ライグは、ゆっくりと身体を沈め、獣の身体を貪り食う。
人を喰らった獣を。
そして、獣を喰らった人間を。
この世界のどちらにもなれなかった自分が、今、何を選ぶのか。
「これが……俺のやり方だ。」
誰もいない空に向かって、ライグは呟いた。