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喰界 -咆哮する遺骸の記憶-  作者: mutusimo
第1章 変異
9/14

喰界の月

本日、2話投稿します!

夕方にもう1話投稿します。

 突風が吹く。空気が揺れた。


 赤い月を背に、夜を裂くように現れたそれは、“獣”の頂点だった。四肢は太く、双角はねじれ、地を這うように疾駆する。骨ばった肩からは黒煙のような熱気が立ち昇り、口腔は大きく横に割け、全身は古傷だらけだった。


 喉奥から漏れる低い唸りに、空気が震える。


 牙は並の鉄すら捻じ曲げ、顎は人の頭蓋をまるごと砕けるだろう。


 脅威度A相当。単独で小隊を壊滅させる力を持つ中型獣。


「ようやく……出て来たな。」


 ライグは低く息を吐き、右手だけで太刀を握り、膝を折った姿勢のまま、地面を蹴った。


 死ぬ覚悟なら、もうとうに済んでいる。


 それでも生き残った。


 殺される理由も、守るべき存在も、失った。


 だから今は生きるために喰う。それだけだ。


 黒影が跳ねた。風を巻き上げ、両腕のように使う前肢が、一直線にライグを穿とうと迫る。


 避けない。ライグは、その一撃を紙一重でいなしながら、左肩で受け流し──回転する。


 「はァッ!!」


 刃が閃く。太刀の残響が空気を裂き、獣の脇腹に斜めの傷を穿った。


 血が噴き上がる。だが、致命傷には至らない。


 すぐさま、獣が反転するようにライグの死角に回り込む。動きに一瞬の無駄もない。


(やっぱり……こいつ、賢い。)


 反応、予測、速度──明らかにこれまでの本能だけの獣とは違う。


 狙っている。ただ殺すのではない。


 こちらの動きを見て、学んで、先を読んでいる。


 足音一つ立てず、獣が再び跳ねる。


 今度は垂直に飛翔し、上から圧し掛かるような体当たり。


 ライグは咄嗟に太刀を上段へ構える。


 金属がぶつかる甲高い音が鳴り響く。片手で支える不利な状況、太刀が耐え切れず切っ先が折れた。


 上からの圧力を下方へ受け流し、バランスを崩す。折れた切っ先を跳ね上げ、先程傷をつけた脇腹に刃を深く潜らせる。


 骨を断つ音が、ライグの右腕を通して感じられた。


 が、獣の反撃は速かった。


 背中の長い尾が、しなるように空を舞う。それがライグの脇腹を、裂いた。


「ぐッ……!」


 足元に血溜まりが新しく出来る。視界が一瞬、白に染まる。


 だが倒れない。膝を落とすことすら許さない。


(これで……立てなくなったら、それで終わりだ……。)


 息を吐くたび、喉が焼ける。肺の奥が痛い。


 だがその痛みは、生きている証だった。


 赤い月が照らしている。


 自分も、あの獣も、今この瞬間、等しく“飢えている”。


 もう一度、距離を詰める。


 太刀を振り上げる。けれど、もう鋭さはない。


 獣は避ける。そして、笑ったように口を歪めた。


 ──笑った?


 まさか……いや、違う。


 けれど、その仕草は、明らかに人間の“挑発”に似ていた。


 ライグは無理やり口元を吊り上げた。


「……お前、何人の人間を喰ってきたんだよ。」


 怒りが湧いた。けれど、それは激情ではなかった。


 静かだった。ただ、燃えるように、確かに芯に火が灯った。


「……今度は、俺が、“喰らう”。」


 太刀を地面に突き立て、ライグは“感覚のない”左手で獣の首を掴みに行った。


 獣が驚いたように目を見開く。


「喰われるだけの時代は……もう、終わりなんだよ。」


 裂けた脇腹を更に深く、より抉るように斬り込む。左手で喉元の気管を破壊する。


 他の内臓ごと、心臓を削り取る。


 ──ライグは、決めた。


 喰らう。この存在の力を、自分の血肉にする。


 それは、人間としての最後の一線を越える選択。


 だが、その覚悟が、いま彼を動かしていた。


 刃が、心臓に食い込んだ。獣の身体が痙攣する。


 ライグは体重をかけ、太刀を捻り込んだまま、そのまま獣を地面に倒れさせるように崩した。


 呻き声のような、獣の息が漏れた。まだ生きている。


 だが、もう動けない。


 脇腹を裂き、気管を潰し、心臓の大半を削り取っている。


 ここまでやっても、ようやく“倒れた”だけだ。


 この個体が、どれだけ強靭だったのかを痛感する。


(もう……動かねぇ、よな……。)


 呼吸が浅い。


 心臓が暴れているように脈打っていた。


 膝をついた。太刀を杖代わりにしながら、ぐらつく身体を支える。


 赤い月が沈みかけ、太陽が昇る。まるで、世界そのものが血に染まっているかのような景色。


 風はない。


 匂いだけが、重たく、濃く、鼻の奥にまとわりつく。


 かつての自分なら、吐いていたかもしれない。


 でも、今は違った。


「……喰うんだよな、俺は。」


 誰に言うでもなく、呟く。


 目の前にあるのは、まだ微かに蠢く獣の身体。


 その肉に、自分の刃で開けた傷がある。そこから、まだ温かい血が流れていた。


 ライグは、太刀を地面に置き、手を伸ばした。


 指が、肉に触れる。温かい。……生きている。


 指先が震える。


 自分が、これから何をするか。


 理解しているからこその、本能的な拒絶だった。


「……でも、もう……。」


 口を開く。


 裂かれた傷が痛む。けれど、それでも、唇を動かす。


 ──喰らえ。


 一心不乱に噛みついた。


 歯が、肉を裂く。


 血が、舌に、喉に、胃に、流れ込む。


 熱い。苦い。鉄のような味。


 だが、同時に──


 “ナニカ”が流れ込んできた。


 それは血肉や栄養などではない。


 もっと根源的な、“存在”そのもののようなもの。


 獣の“意思”が、体内に混ざる感覚。


 ライグの目が見開かれた。脳が、熱を持つようにざわめき、


 手足の感覚が一瞬だけ、異質なものに侵される。


(……ぐうっ……!)


 腹を抱えて、うずくまった。


 胃がねじれるように痛み、頭の奥で誰かの声が響いた。


 言葉ではない。音でもない。


 ただ、“何かの視点”が、突き刺さる。


 走る視線。焼けた空。血と肉の匂い。


 ──これを、知っている。


 これは、あの獣の──“見ていた世界”。


「……ッは……はぁっ、はぁ……!」


 がくがくと肩が揺れる。


 嘔吐したい衝動を抑えながら、ライグは唇を拭った。


 口の端に、まだ血が残っている。


 だが、もう“喰った”のだ。


 戻れない。戻るつもりもない。


「……これが、喰うってことか。」


 呆然と呟く。


 腹の中に、何か異物が棲みついているような感覚がある。


 けれど、身体の奥ではそれが馴染もうとしていた。


 ──傷が、痛まない。


 さっき裂かれた脇腹が、すでに血を止めていた。


 痛みは残るが、出血はない。


(再生してる……? いや、違う……喰った“ナニカ”が、補ってるのか?)


 全身の筋肉に、わずかながら“熱”が流れていた。


 今までの疲労が、少しだけ薄れていく。


 ライグは、ふらつく足で立ち上がった。


 赤い月が、最後の光を発していた。


 ──それは、喰界の月。


 この世界を呑み込み続ける、“喰らう者たち”の夜を象徴する天体。


 だが、その月の下で、たった一人の人間が“喰らい返した”。


「ユウカ……。」


 呟く。何も応えない。


 だが、確かに、どこかで誰かが見ているような気がした。


 ライグは、ゆっくりと身体を沈め、獣の身体を貪り食う。



 

 人を喰らった獣を。


 そして、獣を喰らった人間を。


 この世界のどちらにもなれなかった自分が、今、何を選ぶのか。


「これが……俺のやり方だ。」


 誰もいない空に向かって、ライグは呟いた。

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