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〜生ける人形を作った男〜

嵐を呼んだ男


 ゼペット・F・ピッノキオは若い頃、商船の船員だった。

 三度の飯より女が好きという大の助平すけべいで、世界中の女に会うための船乗りだと誰はばかることなく公言していた。インドに渡航した際に抱いた娼婦をこれぞ運命の相手と見初めると、祖国に連れて帰るべく夜の闇に乗じて船に連れ込んだ。

「俺と一緒に来い。結婚しよう」

 ところが出航するやいなや船は激しい嵐に見舞われた。黒い雲は船につきまとい、激しい風雨を浴びせ続けた。

 海の神はなぜこれほどまでにお怒りなのか?

 船長は乗組員たちに船内をくまなく調べさせた。しばらくの後、積荷の陰に隠れていたという娼婦が船長室に連れて来られた。

「どうして俺の船に乗ってる?」

「ゼペットに誘われたの。あたしたち結婚するのよ」

 船長は近くの船員に顎をしゃくった。間もなく顔を腫上はれあがらせたゼペットが後手に縛り上げられて船長室に入ってきた。

「その……一緒に帰りたかっただけなんで」

 船長は無言のまま立ち上がると、右手でゼペットを縛ったロープを、反対の手で娼婦の首根っこをつかみ、嵐の吹き荒れる甲板の上に出た。悠然ゆうぜんと船首まで二人を連行すると、いきなりゼペットを荒れ狂う海へと蹴り落とし、娼婦の顔に人差し指を突きつけながら「船に女を乗せてはいかんのだ!」と怒鳴った。

 娼婦は泣きながら繰り返しうなずいた。船長は娼婦をその場に座らせ、浮き輪を頭からかぶせて肩にかつぎ上げると「悪く思うな」と言って海に放り込んだ。

 船長室に戻って葉巻に火を点けた頃には、嵐は嘘のように過ぎ去っていた。船長は煙を吐き出すと割れ鐘のような声で叫んだ。

「ようそろ!」


 †

 

 ゼペットは鏡のようにいだ海原に仰向けに浮かんでいた。

 船は去り、嵐は去った。女はどこにも見当たらぬ。海の真ん中で干からびて死ぬ。なんと皮肉な様だ。ぎらぎらと照りつける太陽を睨みつけていると、風もないのに大きな波が起こり、同時に例えようもない悪臭がした。次の瞬間、ゼペットはまるで滝つぼに飲まれるように海中に引き込まれた。

 猛烈な悪臭で気が付くと、粘りつく床の上に倒れていた。ここはいったいどこだ?

 後手に縛られたままで壁に背を付けて立ち上がった。壁もまたぬるぬるしている。洞穴ではなさそうだ。出口を探さなくては。暗闇の中を壁伝いにもたもたと彷徨さまよっているうちに足の裏が焼けるように痛みだした。仰向けに転がって足を上げたが、痛みは収まらない。うめきながら体をよじっていると四方から液体が降りかかってきた。

 目も開けていられないほどの刺激。まるで地獄……いやここが地獄の入り口か。いよいよこれから裁かれるのだ。洞窟はいっそう激しくうねり、ゼペットは壁に床にと叩きつけられ、再び気を失った。


 †

 

 気が付くと太陽が照り付けていた。影になった人の顔が、ぐるりと自分をのぞき込んでいた。影の一つが後ろを向いて叫んだ。

「まだ息があるぞ!」

 後手に縛られた手に、肩口に、甲板の硬い板を感じた。担架に乗せられて医務室に運ばれながら、ゼペットはぼんやりと考えた。俺は……生きているのか?

 地獄の入り口にいたのではなかったか?

 なぜ戻ってこられたんだ?

 それに答えるように担架を運ぶ船員の声がした。

「俺ぁ長いこともり打ちしてるが、クジラの腹から生きた人間が出てきたのは初めてだ!」


丘に上がった船乗り


 捕鯨船に救われて故郷のナポリに戻ったゼペットはしかし、再び海に出ることはできなかった。クジラの胃液で足の指が溶けてしまっていた。

 医者に見せると「命があっただけで感謝なさい」と効能も分からない飲み薬をくれた。治せないということか。保険はどうなるだろうかと労働組合の事務所を訪れ、労災申請書を提出すると担当者は『クジラに飲まれた』と書かれた事由欄を指でとんとんと突っついた。

「商船の船員がなぜクジラに飲まれるんです?」

 ゼペットが黙っていると担当者は書類を突き返し「出版社じゃあるまし」と言い捨てて次の船員の名前を呼んだ。

 医者にも治せない。保険もおりない。部屋を見回しても売れるものがない。ゼペットは困り果ててしまった。今日を気ままに生きてきた女好きの船乗りにたくわえなどあるはずもなかった。歩くのがやっとの中年男に新たな勤め口などあるものか。

 身から出たさび。誰も責める気にはならなかったが、ただあの組合の担当者だけは腹にえかねた。なんだあの態度は。認められないと言えば済むところを、出版社じゃないなどと……。


 翌日、ゼペットは紙とインクとペンを買ってきた。あの野郎の言うように出版社に持ち込んでやろうじゃないか。クジラの腹の中での体験を覚えている限り書き出すと、原稿を手に出版社に向かった。


 †

 

 ゼペットは編集者が頭をいたりパイプをふかしたり足を組んだりほどいたりするのを眺めていた。読み終えると編集者は原稿を片手に持ってもう一方の手でぱんぱんと叩きながら言った。

「リアルなのはいいよねぇ。クジラに飲まれるなんてねぇ。ただねぇ……こう、なんて言うかなぁ……」

 編集者は右手に持ったパイプで空中にぐるぐると輪を描いた。

はな? 色気? が欲しいんだよねぇ」

 なんだ。そんな話なら山ほどある。ゼペットはそもそものきっかけとなったインドの娼婦との話をした。編集者は指をパチンと鳴らすと大きく目配せした。

「いいよそれ!『好色男クジラに飲まれる』いいじゃない! あそこで新聞読んでる奴に詳しく話してよ。後はこっちで適当に書くから」


 †

 

 ――女好きの船乗りが、女に惚れる度に酷い目に遭い、遂にはクジラに飲まれてしまう――適当に書かれたはずの『好色男クジラに飲まれる』は意外と評判になり、ゼペットはそれなりの報酬を得ることができた。以前なら即座に女遊びに使ったであろう金貨を目の前に、ゼペットは考えた。

 もう航海には出られない。書くネタがなくなったらおしまいだ。なにしろ新たに取材することができない。ここは放蕩ほうとうしてしまうより何か商売でも始めるのが得策だ。とはいえ何をするか……ぼんやりと考えながら目の前の金貨を一枚つまみ上げ、裏の彫刻を見て思い出した。


 学生の頃、美術の成績はずっと一番だった。特に彫刻はずば抜けていた。自分がやったと容易に信じてもらえないほどだった。しかし向いていなかった。なにしろ五分とじっとしていられない。天気のいい日に家の中にいるなど考えられなかった。一番の問題は女だ。木や石など削っていていつ美しい女に出会える? 世界中の女を見て回るにはやはり船乗りだ。

 それが今や動くのが億劫おつくうな有様とは。自分を情けなくも思ったが、女に少々りたのも事実だった。今なら辛抱できるかもしれん。ゼペットは指を失った自分の足を見た。試しに自分用の靴でも作ってみるか。

 

 翌日、必要そうな工具一式と適当な木材を見繕みつくろい、自分の足に合わせた木靴を作ってみた。だが実際に履いてみると、指がないので足を上げた時に脱げてしまう。ならばいっそ足の指ごと作ってしまえ。足の指が付いたサンダルのようなものを作り、それで町を歩くとたちまち評判になった。何だその履物は? 指も動くのか!

 指付きの不思議なサンダルの噂は広まり、同じように体に不具合を持つ人から、自分用のものができないかと問い合わせを受けるようになった。手ごたえを感じたゼペットは意を決し、郊外に一軒家を買うとそこを工房とした。

 こうしてゼペット木工細工店が産声を上げた。

 爪まで再現した精巧な造形。生身の体のような滑らかな動き。ナポリには木の魔術師がいる。ゼペットの評判は国中に広まり、その補助具欲しさに使用人の指を切り落とす貴族まで現れる始末だった。


 開業から五年を待たずして権威ある大病院の専属職人となった〈ナポリの魔術師〉ゼペットの名は、ヨーロッパ中に知れ渡ったのである。


孤独な職人


 工房で一人作業するゼペットにとって『世間』とは月に一度、病院に納品する際に会う担当者のことだった。

「今年は兵役志願者がうんと増えたそうだよ」

「ほう。何があったかね?」

「なに、いくさに行って負傷して〈ナポリの魔術師〉の体を手に入れようっていう魂胆こんたんさ。いずれ勲章もらえるよ。特別功労賞だ。はっはっは」

 彼から聞かされる世間話が、ほとんど唯一と言っていい情報であり娯楽でもあった。

 その年の夏、担当者が教えてくれたのは少々気味の悪い噂だった。夜になると、病院の裏の墓地に怪人が現れるというのだ。

「誰とは言えないがね。用事が長引いてだいぶ夜遅くなったんで、普段ならぐるっと遠回りするところをその夜は墓場を突っ切った。すると灯りが見えたんだそうだ。見過ごそうと思ったんだがどうにも気になってね、近寄ってみた」

「物好きだねぇ。で?」

「ランプの灯りだった。仕立てのいい服を着た紳士が、その灯りの元で墓を掘り起こしてたんだ。そりゃあ誰だって注意するよ。『ちょっとあなた、何してるんです?』ってね」

 ゼペットは同意を示すためにうなずいた。

「すると紳士はピタリと動きを止めた。『暑くて寝苦しいから少しふたをずらすのだ』と言って振り向いた顔はなんと埋葬されたはずの本人だ! あっと思った途端、顔の皮がドロドロッと……」

 やめてくださいよ気味の悪い!

 ゼペットは自分も死体に関心があるとは言えず、担当者の話に調子を合わせながら考えていた。

(ひょっとしたらこの噂話は利用できるかも知れんぞ……)


 病院と専属契約を結んでから、ゼペットは自分のための木人形を少しずつ作り続けていた。手、足、胴体、頭。しかしどれだけ精巧に作ろうとも、それらが勝手に動き出すことはなかった。人はいったいどういうカラクリで動いているのか?

 どうして心に思っただけで動くのか?

 人の体の中を見たい。どうしても見たい。

 体のカラクリを知りたいゼペットにとって、墓場の怪人の噂は格好の機会だった。墓を掘り起こし、人間の体がどうなっているのか調べてやろう。なに疑われっこないさ。すべては怪人の仕業だ。


 ゼペットは次の納品日に合わせて病院近くの宿を取ると、墓を掘り起こすのに必要そうな道具を準備した。納品の前日から宿に泊まり、墓堀り道具は宿に置いた。翌朝、何食わぬ顔で納品物だけを持って病院を訪れた。注文の品を受け取った担当者は検品しながら言った。

「相変わらず見事だねぇ。まるで生きているようだ」

 それは毎月、挨拶のように口にされる賛辞だった。が、今日のゼペットは寂しそうに微笑んだだけで何も言わなかった。いつもは楽しい担当者の話も、今日はややもすると聞き逃す始末だった。

 宿に戻って食事を済ませ、夜の重労働に備えて仮眠を取った。自分の作った人形に揺り起こされる夢で目を覚ますと、外はもう真っ暗だった。


 ――さぁ。人形に命を与える時だ。


 ゼペットは用意してあった墓掘り道具をたずさえると宿を抜け出した。


真夏の夜の悪夢


 夜の墓場は昼間とは全く別の場所だった。

 石灰の臭い。それでも消しきれない不快な臭い。やはり引き返そうか。早々に怖気付いて計画を中止しようか迷っていると遠くに灯りが見えた。ゼペットは大急ぎで近くの墓石の後ろに身を隠すとランプを吹き消した。夜の墓場に謎の灯り……まるでこの間の怪談じゃないか。恐る恐る墓石の上から顔を半分出した。灯りはさっきよりも大きく明るくなっていた。

 こっちに向かってきている! ゼペットは頭を引っ込めた。墓石に背をもたせかけ、額の冷たい汗を拭った。何かの間違いであってくれ。両手を組んでじっとしていると、かすかに足音が聞こえてきた。もう一度ゆっくりと、墓石の上から顔を出した。灯りはもう、はっきりとそれがランプだと分かるほど近くまで来ており、そのランプを持つ手には白い手袋がはめられていることも、照らされた足元には両の足があることも見て取れた。人間であることは、もはや疑いようがなかった。

 足音は次第に近づいてくる。ゼペットは墓石の裏につんいに伏せ、両手で頭を抱えて息を殺し、足音が通り過ぎるのを待った。足音はしかし、ちょうどゼペットのいるすぐそばまで来るとぴたりと止んだ。

 どうした?

 何をしている?

 早くどこかに行ってしまえ!

 だがいくら待っても物音一つしない。四つん這いのまま体の向きを変え、今度は墓石の脇から恐る恐るもう一度顔を出した。人影は斜向かいの墓前に立ち、ランプで墓石を照らしていた。その様子はめいを読んでいるようで、ランプ以外には何の道具も持っていなかった。怪人は墓を荒らして回っているはず……そうか。怪人の噂を聞いた病院の誰かが、墓地を見回っているのだ。

 ゼペットはこの考えが気に入った。あり得る話だ。そうとも。よりによって今夜怪人に出くわすなど都合が良すぎる。見回りならばこうして隠れていればやがていなくなるだろう。

 とその時、隠れている墓のちょうど真上辺りのこずえがガサガサッと音を立てた。人影は振り返ると音のした方にランプを差し出した。揺らぐ灯りに照らし出された顔を見たゼペットは、恐怖のあまり悲鳴を上げそうになった。

 腐れたような紫。ただれたような赤。カビたような青。

 墓場の闇の中に浮かび上がったのは、不気味な色の皮膚ばかりを選んで縫い合わせた――悪趣味なパッチワークのような――世にも恐ろしい怪人の顔だった。

 死人しびとの顔をつなぎ合わせたんだ!

 逃げろ!

 逃げろ!

 逃げろ!


 だが意に反して体は動かない。腰が抜けてしまったようで、立ち上がることすらできない。怪人はしばらく音のしたあたりを見ていたが、やがて気分を害したかのように元来た方に去っていった。危機から脱して放心したゼペットは、朝日が昇るまでその場でぐったりと横になっていた。


操り死人


 それから三日間、ゼペットは熱を出して寝込んでしまった。ベッドの中で、墓から抜け出した死体に追われる夢にうなされ続けた。天罰が下ったのだ。人形に命を与えようなど、人間の分際で許されることではなかった。人に話せば気が晴れるかもしれない。だがゼペットには、そもそも話す相手がいなかった。例えいたとして夜中に墓場にいた理由を聞かれたら……何と答える?


 結局、次の納品時にそれとなく話を振って様子をうかがうにとどまった。

「例の怪人はその後どうです?」

「それがね、怪人を操っている奴がいるんだとさ」

「操る?」

「そう。それもね、操ってるのは医者だと言うんだ」

「医者が墓を荒らしてるんで?」

「困った噂話さ。なにしろあそこは病院の墓地なんだから。医者が痛くもない腹を探られちゃ商売あがったりだ」

 そう言って担当者は笑った。

「しかしなんでまた墓場なんかに?」

 それを聞いた担当は周囲を見回し、誰も居ないのを確かめてからゼペットの耳元でささやいた。

「死体集めさ。つないで生き返らせ、また怪人を作るんだ」

「生き返らせるって、死んだ人間を?」

 大声を出したゼペットに担当者は眉をひそめ、口元に人差し指を当ててたしなめると、小声で話を続けた。

「その医者にはできるんだよ。なにしろ人を切って病を治すらしい」

「治すのに切るってのは?」

「体を切り裂いて、腐れたところを取り出して、治すんだ」

「そんなに切ったら死んじまうでしょう?」

「だ、か、ら。死人を生き返らせる術を知ってるってのさ」


 †

 

 気晴らしに話をするつもりが、とんでもない噂を聞かされてしまった。ゼペットは帰りの馬車の中で謎の医師とその陰謀について考えた。

(死人をつないで生き返らせる。墓場の怪人は謎の医者がそうやって作ったものだろうか。確かに醜い、死肉をつないだような顔だった……だが待て。

 墓を掘る道具は持っていなかった。では、何をしていた?

 確か墓碑銘を読んでいるようだった。死体を選んでいる?

 そうか医者の命令か。しかし何のために?

 体の大きさだろうか? 性別?

 いずれにせよ見た目は気にしていない。なにしろあの醜さだ。いやいやそうだろうか?

 死人を生き返らせるような技術をもつ医者がだ。一目で怪物とわかるような、あんな不細工なものを作るだろうか?

 私なら誰もがうらやむような美しい顔にしてやるのに。私なら……)

 いかん。なんと罰当たりなことを考えてるのだ!

 ゼペットは我に返ると慌てて十字を切った。


闇からの招待


 翌晩、仕事を終えたゼペットは寝室でワインをすすりながら、自分の作った人形を見つめていた。これほど美しい人形がピクリとも動かない。あれほど醜い怪物が墓場を歩き回る。いったい何が違うのだ?


 なぁに動かないからこそ愛おしいのさ。


 そう自分に言い聞かせて人形の頭をでた時、ドアをノックする音が聞こえた。

 こんな夜更けに誰だ?

 諦めてくれることを期待してしばらく放っておいたが、ノックは執拗しつように続いた。ため息をついて人形をケースにしまうと寝室を出て、執念深くドアを叩き続ける相手に怒鳴った。

「注文は受け付けてないんだ!」

 ドアの向こうから返事が返ってきた。

「ゼペット様。ジアッキーノ様よりの使いです。扉をお開けください」

 便意を我慢しているような切羽詰った声だった。病院の関係者だろうか?

 ゼペットが不承不承ドアを開けると、大きなトランクを間に挟んで、制服の男が二人並んで立っていた。

「失礼致します」

 男たちが二人がかりでトランクを運び込んできたので、ゼペットは急いで脇にどいた。二人は工房の作業台の上にトランクをどすんと乗せると、玄関で怪訝けげんな表情をしているゼペットに敬礼して早口で言った。

「医師ジアッキーノ様よりご伝言をおおせつかりました」

 ジアッキーノ……はて、どの先生だったか。ゼペットが考えていると、使者の一人がポケットから紙を取り出して読み上げ始めた。


『前略。ゼペット様。貴殿のご高名、かねてより伺っております。実はこの度、貴殿のご助力をたまわりたく、前金として金貨千枚をご用意しました』


 そこでもう一人の使者がバッとトランクのふたを開けると、中には金貨がびっしりと詰まっていた。ゼペットが口を半開きにしたままうなずくと、使者は満足気に蓋を閉めた。バチンバチンと止め具を閉める音を合図に、再び手紙が読み上げられた。


『詳しくは拙宅せつたくにて直接ご説明差し上げます。使いの者と共にお越し頂きますようお願い申し上げます』


 使者は「以上です」と言ってまた敬礼し、直立不動の姿勢をとった。

「終わりかね?」

「はいっ」

 自分への依頼といえば補助具の制作だろうが、なぜこんな夜更けに呼びつけるのか。それに一面識もない相手に金貨を千枚とは、いくらなんでも高額過ぎる。いったいジアッキーノとは何者なのだ?

 拒否したらどうするのだろう。暴力に訴えるだろうか。ゼペットはむしろ好奇心から聞いた。

「お断りするには?」

「金貨はそのままお納め頂き、直接お詫びを申し上げる為にご同行をお願いする様に申しつかっております」

 どっちみち連れて行くという筋書きか。ゼペットは苦笑した。

「では参りましょう」


 †

 

 外に出ると工房の前には豪華な六頭立ての馬車が停まっており、ドアの前には執事らしき男が体を二つ折りにして立っていた。

「夜分遅くに誠に申し訳ございません」

 執事は体を折ったまま馬車のドアを引き開けた。ゼペットは二人の使者に挟まれるようにして馬車に乗り込んだ。乗るとすぐに使者は両側の窓のカーテンを閉めた。最後に執事が乗りこむと、馬車は音もなく走りだした。

 普段使っているのが馬車なら、この乗り物はまるで動く書斎だ。景色は見えず、同乗者は押し黙っているが、その分を差し引いても快適だった。十五分ほどたっただろうか。ゼペットはどこに向かっているのか聞いた。どうせ返事はないだろう。ところが意外なことに前の席に座る執事が口を開いた。

「誠に申し訳ございませんが、わたくし共には詳しいことは申し上げられません。今しばらくご辛抱頂ますよう」と耳触りの良い声でびた。

(まぁそうだろう。前金で金貨を千枚。王侯貴族のような馬車。いずれただの医者ではあるまい。いったい私に何を作らせようというのだろう?

 何か後ろ暗いことでなければいいが……)

 静かに走る馬車に身を委ねて考え事をしていたゼペットの脳裏にふと先日の記憶がよみがえった。馬車の中だった。医者のことを考えていた。


 ――死人をつないで生き返らせる――


 ジアッキーノ……医師……まさか! なぜ気が付かなかったのだ!

 心臓が早鐘を打った。両隣に座る使者を交互に見た。二人はまるで彫像のように微動にせず、じっと前を見て座っていた。馬車が停まった。いつの間にか馬車を下りていた執事がドアを開け「到着いたしました」と告げた。


黒の館


 馬車を降りると海の匂いがした。鋭くとがった月の明かりで見ても、たった今馬車で来た道は遥か遠くまで続いているようだった。わだちの両脇に沿う芝生は入念に手入れされていた。広大な私有地に違いない。ゼペットは逃亡をあきらめた。例え足が悪くなくても、この広さではとうてい逃げ切れないだろう。

 使者たちは馬車を下りると、扉の脇で直立不動の姿勢をとった。ゼペットは二人の使者に見送られながら、執事の後に続いて巨大で重厚な黒い屋敷に足を踏み入れた。


 屋敷の中は外と変わらないほど暗かった。執事がしよくだいのロウソクに火を点けると、ホールの両脇の壁に巨大な額縁が同じ間隔で窓枠のように並んでいるのが浮かび上がった。まるで大聖堂のようだったが、外からの明かりは一切入らないようになっていた。柔らかいカーペットの上を延々と歩いていくと突き当りに舞台装置のような階段があった。階段を登って踊り場の中央の扉から長い廊下に抜け、しばらく何もない廊下を歩き続けた。自分がどっちを向いているのかも分からなくなり、恐怖と不安で汗がにじみ出てきた頃、執事がとびきり豪奢ごうしやなドアの前で立ち止まり、ノッカーを鳴らして言った。

「ゼペット様をお連れ致しました」

 重みのある声がノックに答えた。

「お通ししろ」

 召使はドアを開け、体を二つ折りにすると部屋の中に手を差し伸べた。部屋の中も暗かった。闇の中から太い声が響いた。

「よくぞおいで下さった」

 ゼペットは声のする方に目を凝らした。闇の中にぼんやりと白い何かが見えた気がした。

「灯りを。どうか入ってお掛け下さい。〈ナポリの魔術師〉よ」

 執事が書斎の燭台にロウソクを移した。黄色い灯りが、仕立ての良い黒い服を着た男を照らし出した。顔にはヴェネツィアの祭りで使うような白い仮面を付けていた。白く見えたのはこの仮面だったのだ。仮面の男は歩み寄ってくると白い手袋をはめた手を差し出した。

「医師のジアッキーノと申します。ご来訪感謝いたします」

 ゼペットの頭の中では、担当者の声が繰り返し響いていた。


 ……死体を生き返らせる……死体を生き返らせる……死体を生き返らせる……


 白い手袋に恐る恐る触れ、すぐにへたり込むようにソファーに座ったゼペットを、あたかも診察するかのように見つめていた仮面の医師は、向かいのソファーに腰を下ろすと口を開いた。

「ひどく汗をかいてらっしゃる」

 ゼペットは急いで手の甲で汗を拭った。

「それに顔色も優れない」

 ゼペットは両の手で顔を洗うようにゴシゴシこすった。

「呼吸は浅く早い。四肢が小刻みに震えている。何かに脅えているようだ」

 ゼペットは深呼吸をすると首を振った。

 白く笑う仮面はしばらく黙って、それから突然大声で診断を下した。

「噂の医者のことを考えておられますね!」

 ゼペットが震え上がったのを見て、医師は面白がるように続けた。

「死者を操る医師の話だ! 違いますか?」

 必死で首を横に振り続けるゼペットの様子に満足したように、仮面の医師は声を落として言った。

「ご心配なく。死者など出てまいりません。まるっきり根も葉もない噂、というわけでもありませんが。ワインでよろしいですか?」

 ゼペットは大急ぎでうなずくと、渡されたグラスの中身を一気に飲み干した。医師はゼペットの震えが収まってくるのを待って、グラスにワインを注ぎ足した。

「急にお呼び立てをして申し訳次第もありません」

 もう何度謝られただろうか? ゼペットはもう一口ワインを飲むと言った。

「そんなに急いで何を作らせようってんで?」

 白く笑う仮面は、ゼペットの問いにもっともだという調子でうなずくと、理解を求めるように両手を開いて肩をすくめた。

「仕方がありませんでした。誰もが口を揃えて言うのです。『人間の体を作るなど〈ナポリの魔術師〉にしかできない』と」

「つまり私に……」人形、と言おうとしたゼペットは、我知らずその言葉を避けた。「……人型を作れ、と?」

「それで救えるかもしれない命があるのです」

 ゼペットは目線を自作のサンダルに落とした。ある程度の欠損なら補うことはできる。だが、命まで救えるものだろうか?

「人型で救えるって、いったい何の病で?」

「病ではありません」

 医師はワインボトルを持ち上げた。ゼペットは手を振って断った。医師はボトルをワインクーラーに戻すと「世には『医者にかかった』ことを知られたくない、隠さなければならない人が大勢います」と言った。

 ゼペットが黙っていると、白く笑う仮面が、表情にそぐわない悲しげな調子で語り始めた。

「わざわざ〈闇に潜む医師〉を訪れる患者には、皆それぞれ事情があります。無論、私自身にもあります。なにしろ人の体を切る。教会に知れたら大変な騒ぎになるでしょう。ですのでこれまで私と患者との間には『診療について一切口外しない』という黙約がありました」

〈闇に潜む医師〉はテーブルに両手を付いてゼペットのほうに身を乗り出した。

「しかし貴方様は別だ。私の患者ではありません。ここからの話は秘密厳守です。らせば命の保証はない。聞いてしまったら関わらざるを得ません。お帰り頂くのは今しかない。いかがなさいますか?」

 ゼペットは恐怖と好奇心を天秤にかけた。運命の天秤が傾いた。

うかがいましょう」

 仮面の医師は再びソファーに納まると少し意外そうに「ありがとうございます」と震える声で言った。


闇に潜む母子


「私の診療所には少し前から、さる高貴な女性が入院されています。ご懐妊されたのですが、無事に出産するまで公にはできません。あちらこちらに……」

 医師は人差し指を立てると左右に振った。

思惑おもわくがあるからです」

「思惑?」

「普通ならば喜ばしい、尊いことも、ある立場の人たちにはうとましい、悩ましいことになるのです」医師はゼペットのグラスにワインを注ぎ足した。

「つい先日、彼女はひどく苦しみだし、昏睡こんすい状態に陥ってしまわれた。私は腹部を切開して調べました」

「腹を切った、ということで?」

 仮面の医師は重々しくうなずいた。

「この機会に噂を正しておきましょう。人の体を切り、病に冒された臓器があれば切り取り、元に戻す。ただし」医師はそこで言葉を切ると人差し指を上げ「生きたまま、です」と付け加えた。

「じゃ、その、死人しびとを生き返らすってのは……」

「それができれば無理にお呼び立てなどするものですか」医師はそう言って笑った。

「で、その赤ん坊はどうだったんで?」

「お腹には子が二人いました。双子です。母親の具合が悪くなったのは、片方の子に深刻な問題があったためでした」

「さっきは病じゃないと……」

「病ではありません。お子さんは二人とも健康です」

「健康なのに問題ってのは?」

「体が足りません」

「は?」

「体が一人分しかないのです。一人を宿している袋が、もう一人の体になっているのです」

 ゼペットはほうけた顔で黙って医師の仮面を見つめていた。どうやって説明するか。医師はしばらく人差し指でこめかみの辺りを押さえて考えていたが、やがてゆっくりと話し出した。

「母親の、お腹の中には、子を育てる袋がある、とお考え下さい」

「はあ」

「子は、その袋の中で、育ちます」

「はあ」

「ところで、人の身体というのも、一種の袋、といえます」

 ゼペットは少し考えた。なるほど、頬はふくらむし腹もふくれる。

「片方の子は、その、子どもを育てる袋を、体としているのです」

「片方の子の体の中に、もう一人が入っていると?」

「実際には逆ですが、それで結構です」

「で、どうするんで?」

「別の袋に入れてあげないといけません。しかし取り出した子を入れる体がない」

 仮面の医師に見つめられて、ゼペットははっと気付いた。

「じゃあ私に作らせたいのは……」

「精巧な人形です。人間の体の代わりになるような人形です。そして、そのような精巧な人形を作れるのは〈ナポリの魔術師〉よ、貴方様より他にいない!」

〈闇に潜む医師〉はまたゼペットのほうに身を乗り出した。「ご協力頂けますね?」

 ゼペットは身を引くと、制止するように両手を突き出した。

「待って下さい。なにやらよく分からんが気の毒な話だ。しかしそれはその子の定めでは? 私らがどうこうしていいものなんで?」

 医師は再び座り直すと、居住まいを正し、医師らしい口調で尋ねた。

「貴方様の足が悪いのは、どうなさいました?」

「これは……昔バカをやった報いで」

「つまり、ご自身の非だと?」

「自業自得ってやつでして」

「では生まれつきだったら? 生まれた時から足が悪かったら、それは誰の非です?」

「それは……」

 ゼペットはそう言ったきり黙ってしまった。沈黙するゼペットに医師はさらに問いかけた。

「始めから周りと違う。それは誰の非ですか? 自分が周りと違うと知った時、私たちはいったい、誰を責めたらいいのでしょう?」

 また沈黙があった。自分の足を眺めながら医師の問いを考えていたゼペットは、ふと顔を上げた。


 ――私たち?

「では、あなた……」

 医師はうなずくと、両手を仮面に伸ばした。


醜い少年


 医師の両手がゆっくりと頭の後ろに回された。ゼペットはつばを飲み込んだ。喉仏がグリッと動いた。白く笑う仮面が顔からがれ、テーブルの上に置かれた。

 黄色い灯りの中に現れたのは。


 腐れたような紫。ただれたような赤。カビたような青。


 不気味な色の皮膚ばかりを選んで縫い合わせた――悪趣味なパッチワークのような――顔だった。


 ……これは?


 ……この顔は?


 墓場の怪人がなぜここにいるのだ?


 ゼペットは目の前で起きたことが理解できず、口を開けたまま固まっていた。

「恐ろしくないのですか?」

 医師の意外そうな問いかけでゼペットは我に返った。「え? ああ、いえ」

「大抵は悲鳴をあげられるのですが……」

 そう言うと医師は顔をゆがめた。おそらく苦笑したのだろう。顔中に縫い目があるせいで、仮面を外してもなお表情が分かりにくかった。医師は「頭部の皮膚がつながらぬまま生まれましてね」と言って指で顔をでた。

「処置も悪く、何度も感染症を起こしたようです。マスクなど着けていたこと、失礼だとは思いましたが……」

 医師はゼペットのグラスにワインを注ぎ足し、自分のグラスにもワインを注いだ。「最初からこの顔でお会いしたら、お話しを聞いて頂けないだろうと考えました。何よりもつらかったのはこれです」

 そう言うと〈闇に潜む医師〉はゼペットに向けてワイングラスをかかげ、嬉しそうに飲み干した。

「これでようやく人心地がつきました。今一度マスクを着けましょうか?」

 ゼペットは呆然としたまま首を振った。

「ではこのままで。気分が悪くなったら遠慮なくおつしやって下さい」

 ゼペットはあいまいに首を振った。医師はもう一度自分のグラスにワインを注ぐと、顔がなるべく暗がりになるように椅子に深く沈みこんで足を組んだ。

「幼い頃、私がどのような目にあったか、わざわざお話しする必要はないでしょう。最初は嫌われる理由が分かりませんでした。自分で自分の顔は見えませんからね。だんだんと物事が分かるようになり、醜さは悪なのだと知りました。ゆえに罰せられる。私をみじめにさせたのは、奇妙に聞こえるかもしれませんが、そういった嫌悪よりむしろ愛でした。私を育ててくれた司祭様でさえ、差し伸べる手を震わせておられた。愛さなければならない。これをこそ愛すべきだ。私は彼らにとって試練だったのです。

「人目のない懺悔ざんげ室だけが心安らぐ場所でした。闇は私を守ってくれた。暗く狭い場所で、私は自分の受難の理由を考えました。だが納得のいく答えはなかった。ただの一つもありませんでした。罪はないのに罰はある。私はいったい、誰の罪を償っているのか? 生きているだけで毒のように嫌われる、そんな罰に値するほどの罪とは、いったいどれほどの大罪なのか? それと知らぬうちに誰かに知恵の実でもすすめたのだろうか? そしてある日、暗闇の中で、ようやく私は気付いたのです」

 医師はゆっくりとワインを飲み干すと、グラスをテーブルに置いた。

「……なんに気付いたんで?」

「なぜ自分が醜いか、その理由に。分かってしまえば簡単なことでした」

「簡単?」

「簡単でした。失敗したのです」

「失敗、ですって?」

「そう。罪でも罰でもない。単なる失敗作だ!」

 医師はとびきりのジョークを話すように両手を広げた。

「全知全能な存在に失敗はない。失敗でないなら何か理由がある。試練の根拠とは実はこれだけです。では、失敗はある、としたら?」

 ゼペットの答えを待たずに、医師は再び語り出した。

「失敗はある。この答えはようやく私を満足させました。ならば耐える必要などない。治せばいい。私は敬虔けいけんであることを止め、懺悔室から飛び出しました。別の闇に向かって」

 醜い顔の医師はワインクーラーからボトルを出して、二人のグラスにワインを注ぎ、自分のワイングラスをロウソクの光にかざした。

「以来、この飲み物は誰かの血などではない、単なるブドウの汁になりました。同時に『背負うべき十字架』も『耐えるべき苦難』もなくなったのです」


 ――いったいどれほどの大罪なのか?――


「闇に身を潜めた私は、人間の体を徹底的に研究しました。この身体、この袋の中身は……」医師は自分の胸を手のひらでドンドンと叩いた。

「いったいどうなっているのか。調べられる機会があれば墓場、戦場、処刑場、どこへでも行きました」

 ――強欲?――


「どれだけ医学を学んでも、命を作り出すことも、死んだものを生き返らすこともできません。命は私たちの自由にはならない。しかし守ることはできる。失敗ならば正せばいい。病ならば治せばいい。それだけのことです」

 ――ごう慢?――


「単なる失敗にあたかも意味があるかのごとく取り繕い、嘘を押し通すために重い荷物を背負わせ、根拠の無い罰に耐えたとたたえる。そのような考え方を、私は断固として拒否します」

 ――ふん?――


「例え誰が犯したのであろうと、失敗は失敗です。それに『定め』などと見当違いの名前をつけ、すべきことも為さぬまま、手をこまねいて見過ごし、それで命が失われたとしたら……」

 ――怠惰?――


「その命は『された』のですか? それとも『奪われた』のですか?」


 ロウソクがジジッと音を立てた。ゼペットは答えられなかった。医師もまた答えがないことを知っていた。


ソソノカス声


 またしても沈黙を破ったのは医師だった。興奮したことを少し恥じているような調子だった。

「どうも話が長くなってしまった。誰かが治療をほどこしたからといって干渉してしまう『定め』など最初からない、私はそう考えています。他に何かございますか?」

 あるに決まっている。墓場の怪人だ。目の前に座る醜い医師と同じ顔をしたあれは、いったい何だったのか。

「聞きたいことがあるんで」

「どうぞ」

「私はその……一度、墓場に行ったんで。夜中に」

「夜中に?」

「ええ。病院の裏の」

「ナポリのですね。ええ」

「その夜、私は……」

 何を見た? あなたに似た人? いいや。こんな顔がこの世に二つとある訳がない。

「私は…………あなたを見た」

「おお。そうでしたか!」

 まるで近所で見かけられたような口ぶりだった。拍子抜けしたゼペットをよそに、医師はいかにも納得したという調子で続けた。

「この顔を見ても驚かれないので、どういうことかと」

「……いったい、何をされていたんで?」

「おびです。治療をお断りせざるを得なかった方の墓があるので」

 確かに墓碑銘を読んでいた。墓を掘る道具もなかった。人目をはばかっての夜中だろう。すべてに落ちる。

「無意味な事は分かっているのですが、習慣になっていましてね」

めい福を祈るのは当たり前のことで」

「祈りはしません」

「は?」

 墓に行って祈らない? この男はひょっとすると……薄暗いロウソクの灯りの中でなおけいと輝く瞳を見ながら、ゼペットはある晩聞こえた声のことを思い出した。


 †

 

 夜遅く。

 仕事を終えたゼペットは人形の顔を仕上げていた。

 極限まで薄く滑らかに仕上げたじやばらの木片。

 その片側の縁にイタチの毛を一列、丁寧ねいに貼り付ける。

 完璧なまぶただ。

 まぶたを取り付けたその顔はもはや人間と変わらぬ。

 愛おしい人形の閉じたまぶたを親指の腹でそっとでる。

 その耳に「目を覚ましてごらん」とささやきかける。

 ゆっくりとまぶたを押し上げる。

 暗闇が目を開く。

 その時、ぽっかりと空いたうつろがんの奥から、声が響いた。


 ――コレヨリ先ニ 行キタクバ 魂ヲ ヨコセ――


 †

 

「どうされました?」

 医師の声で我に返ったゼペットは、目の前に座っている男の醜い顔を改めて見つめた。

 この男は恐らく自分と同じだ。人の体のカラクリにかれ魅入られてしまった人間だ。ならば人を切り続けるある晩に、自分と同じあの声を聞いたとしても不思議じゃない。もしあの声に耳を貸し、そそのかされてしまったのだとしたら。それ故の〈闇に潜む医師〉だとしたら。手を貸すわけにはいかぬ。

「あなたは、その……信じていないんで?」

「信じています」

「そうですかな? 運命は受け容れない。教えには従わない。祈ることもない。まるで信じてないようだ」

「立場が違う。私は医者なのです」

「いったいそりゃあどういう理屈です?」

 ゼペットは思わず大声を出した。医師は腕組みをすると、しばらく考えて言った。

「誰かのために祈る時、貴方様はどうなさいますか?」

「どうって皆同じでしょう!」

「いかがでしょう? 今も苦しんでいる母と子のために祈って頂けませんか?」

 ゼペットは怪訝けげんな顔をしたが、それでもテーブルの上に両肘を乗せて両手を組み、親指の付け根に額をつけて目を閉じた。


 祈りを終えたゼペットが目を開けると、目の前にいたはずの医師は姿を消していた。慌てて左右を見回すゼペットの後ろから、朗とした声が響いた。


「祈りを捧げているうちに!」


 ゼペットはソファーから腰を浮かして振り向いた。


「その灯は消えるやもしれぬ!」


 醜い医師はゼペットの背後から静かな声で「貴方様が私を見失ったように」と付け足すと、両手を後手に組んで部屋の中をゆっくりと歩き出した。

「無事を願う人々は皆、祈りを捧げるため、目を閉じ、手を組んでいることでしょう。私までが祈ってしまったら? ため息一つで消えてしまう、弱い弱い灯はどうなりますか? だから私は祈らない。両目を開け、両手を動かし、灯を守るのです。消えたら最後、二度と再びともすことのかなわぬ、かすかな灯を」


 み嫌われ、教えにそむき、闇に身を潜めながら、誘惑に耳も貸さぬ男。

 明るい場所からは見えない幽かな灯りを、またたきもせずに守っている男。


 医師はゼペットの方を向くと片膝をついて両腕を広げた。

「生い出ずる命の、一つとして無実の罪を負わされぬように。言われのない罰を受けぬように。どうか貴方様のお力をお貸しいただけないだろうか?」


 あの夜、ゼペットの企てをとんさせた世にも恐ろしい顔の男。

 その男が今、こう言っているのだ。


 ――さぁ。人形に命を与える時だ。


 断る理由はなかった。

 ゼペットは答えた。

「……人形なら、もう、あるんで」


秘密の人形


「なんですと?」

 今度は医師が大声を上げた。ジアッキーノは驚いて立ち上がるとゼペットの肩をつかんだ。

「人形がすでに完成している、ということですか? なぜです? いったいどういうことです?」

「いや、その、手慰なぐさみというか……」

「馬車を!」

 医師はドアの向こうに大声で叫ぶと、しよく台掛けのロウソクを引っこ抜き、テーブルの上のマスクを取り上げると早口にまくし立てた。

「とにかく拝見したい。馬車だ! 馬車を早く!」

 一人だったら間違いなく走り出していただろう。もたもたしていたら引きずられそうな異様な迫力に圧倒され、ゼペットはできる限り早足で長い廊下を歩いた。

 屋敷の外に出ると、執事は既に体を二つ折りにして馬車の前で待っていた。迎えに来たものとは別の小ぶりな馬車だった。

「お客様をお乗せするものではございませんが暫しご辛抱ください」


 医師とゼペット、執事を乗せた馬車は白み始めた夜を切り裂いて疾走した。仮面を着け終えた医師は笑顔のまま肘掛を人差し指でコツコツと突っついていた。座席に張り付くほどの速度だというのにまだ不満なのだった。もっと急げという声ならぬ声が馬車の中を圧迫した。途中何度か執事が窓から顔を出し、御者に指示をした。抜け道でもあるのだろう。帰りの道中は行きの半分もかからなかった。


 †

 

 工房に着いたゼペットは医師と執事を作業場に案内すると、寝室から人形を入れたケースを持ってきて作業台の上に置いた。

「最初はおぼえきみたいなもんだったんで」

 そう言ってふたが開けられると医師は思わず「こっ……」と口に出しかけた。

 これが人形?

 目の前のケースの中に横たわっているような物を、医師はこれまで『彫刻』と呼んでいた。彫ったものではないと言うなら『作品』か。いずれにせよ『人形』とは結びつかないものだった。

「いろんな補助具を作るんで、そん時に思いついたことを、こいつに試してて」

 自慢の作品を前にじようぜつになったゼペットに医師はなぜかやっと聞き取れるほどの小声で「ランプをお借りできますか?」と言った。ランプを受け取ると、医師はケースの中の人形にくっつきそうなほど顔を近づけ、入念に各部をじゆく視しながら、やはり小声のまま質問を始めた。

「表面はどのように?」

 ゼペットもそれにつられて小声で答えた。

「節から水が入ると心棒がびちまうんで、木を薄くいてにかわで固めたのを貼ってます」

肋骨ろつこつもありますね?」

「ん? ああ、あばらか。あと首の付け根や膝なんかも。骨組みに皮を張った方が感じが出るんで」

 きゆうくつそうに身を屈めて謎のひそひそ話を続ける医師にゼペットは「箱から出したらどうです?」と、やはり小声のままささやいた。人形を所望し、人形を精査しているはずの医師は、それに対して思いもよらぬ返事をよこした。

「いえ。目を覚ましたらかわいそうだ」


 †

 

 検査を終えた医師ジアッキーノは、信じられぬという様子で首を振りながら、ゼペットにランプを返した。

「私たちの他にこの……この作品のことをご存知なのは?」

「誰も」

「すばらしい!」

〈闇に潜む医師〉が喜ぶことなど滅多めつたにないのだろう。執事は驚いたような顔で主人を見た。ゼペットは執事が感情を見せたことに驚いた。

 医師は速やかに人形を馬車に運び込むよう指示したが、執事がケースを動かすたびに「丁重に!」とか「ぶつかる!」などと口をはさむので一向にはかどらない。見かねたゼペットは「大丈夫ちょっとやそっとじゃ壊れませんって。兵隊さんだって使ってるんだ」と口添えしてやった。

 執事が人形のケースを持って工房を後にした。続く医師は玄関で不意にゼペットに向き直って言った。

「一つ訂正しなければ」

「なんですかな?」

 ジアッキーノは昨晩と同じ芝居がかった調子で両手を広げた。

「医者にも祈るべき時がある!」

 そう高らかに宣言するとゼペットの足元にひざまずき、こうべを垂れてうやうやしく十字を切った。

「貴方様に神の祝福あれ」

 そして立ち上がると後ろ手にドアを閉めて出ていった。


 †

 

 馬車は去っていった。ゼペットはドアの鍵をかけ、明かりを消し、空虚になった工房を見回し、寝室に入り、カーテンを閉め、安いコップに安いワインを注ぎ、固いベッドに腰掛け、言いようのない苦い後悔と向かい合った。


 あなたの顔を作りましょう。と、なぜそう言えなかったのだ?

 言えるものか。作ったとして、彼以外のいったい誰に取り付けられるというのだ?

 いいや。それでもやはり提案すべきだった。

 やがて手は震え、目はかすむだろう。

 祈るほか何もできない日が来る。

 あなたの顔を作るから、付けられる医者を育てなさい。

 そう言うべきだった。

〈闇に潜む医師〉を最も必要としているのは、あなた自身じゃありませんか。

 そう言うべきだった。

 今日は店じまいだ。

 ゼペットは苦いワインを飲み干すとベッドに入った。


約束


 一カ月後。


 夜遅くのノックに「悪いが注文は受け付けてないんだ!」と怒鳴ったゼペットは「ジアッキーノ様よりの使いです」という返事を聞くとドアを開け、さっさと脇にどいた。

 制服の男たちは二人がかりでトランクを運び込み、工房の作業台の上にどすんと乗せ、ゼペットに敬礼した。

「ゼペット様にご伝言です」

 使者はまるで名誉をさずけるかのように誇らしげな様子で手紙を読み始めた。


『前略。貴殿のご尽力により母子共無事に危機を逃れました事、感謝に絶えません。依頼主のお申し出に従い追加報酬を持たせましたのでお納めください。また古いもので恐縮ですが、学生時分の解剖関連資料を同梱いたしました。墓を掘り起こす作業は腰に大いなる負担をかけます故、なるべくこちらをご利用なさいますよう』


 そこでもう一人の使者がトランクのふたを開けると、中にはびっしりと詰まった金貨の上に書籍が数冊乗っていた。ゼペットがうなずくと使者はおごそかに蓋を閉めた。金具のバチンバチンという音を合図に読み上げが再開された。


『さて、一点折り入ってご相談がございます。依頼主であるご母堂より、御恩をたまわった貴殿の御芳ほう名〈ピッノキオ〉をご子息に付けたいとのよし。差し支えなければ使いの者に持たせた同意書にサインを頂戴したく、平にお願いする所存であります』


 ゼペットはやれやれ手間のかかることだと文句を言いながら、ペンとインク壷を持ってくると、真面目くさった顔つきで使者に言った。

「実は差し支えがないとは言えん。サインをする前に一ついいかね?」

 使者がうなずくとゼペットは彼の口調を真似まねて言った。

「『ご命名に際しては、我がピッノキオ家の男が、先祖代々より例外なく大の女好きであること夢夢お忘れなきよう』。ジアッキーノ殿にそうご進言ください」

 使者は笑いをみ殺しながら、一句違たがわずに伝えることを約束し、見覚えのある紋章の透かしが入った同意書を作業台の上に置いた。ゼペットがサインをし終わると、使者の一人は同意書をひらひらさせてインクを乾かし、丁寧ねいに畳むと封筒に入れて懐にしまった。もう一人の死者はそれを見届けると、手紙の最後の箇所を読み上げた。


『追記

 闇に潜む身の上でせんえつに過ぎるのは承知のうえで、

 新たなるご依頼をもつてこの手紙を終えたいと存じます。

 再び貴方様とお会いする。

 あらがいようのない力が私たちを再び引き合わせる。

 私はそう直感しております。

 来るべきその日に、我々は祝福の光に包まれる。

 私はそう予見しております。

 その時、私は何物かの陰に隠れたくない。

 貴方様と並び、その光の中に進み出たいと願います。

 つきましては、来るべきその日のために、

 私の顔を作成しておいて頂けないでしょうか?

 報酬については別途ご相談させてください』


 †

 

 こうして、どこか人知れぬ闇の中に『ピッノキオ』という名の、世にも不思議な生ける人形が誕生したのだった。

 後に〈闇に潜む医師〉は己の予感が正しかったことを知ることになる。

 彼らの生み出した人形はやがて『あちらこちらの思惑』にほんろうされ、幾多の人々の命運をり合わせる旅へとその身を投じることになる。二人の天才は自らの救った命によって邂逅かいこうすることになるのである。


 この旅程を書き留めた古い日誌が、どうした因縁か今、私の手元にある。

 古い外国の言葉で記されているため読解は遅々としてはかどらないものの、翻訳が済んだ箇所を読む限り、なかなか興味深い。決して史実に追記されることはないであろうが、他ならぬ私がそうであるように、こうした『隠れた歴史』に興味をもつ方も幾分かはおられるだろう。いずれ機会があればご紹介したいと考えている。


(了)


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