第百十一話 ぐうたら三男、帰郷を思い立つ
王都へ帰還してから、一ヶ月近くが経過していた。
季節はゆっくり春から初夏へ移り変わりつつある。
王都の街路には露店が増え、行き交う人々の服装も少し軽くなっていた。
昼下がり。
王都南区画の拠点。
二階窓際。
柔らかな風が白いカーテンを揺らしている。
レイは長椅子へ寝転がりながら、ぼんやり天井を見上げていた。
平和だった。
本当に平和だ。
未到達地帯へ行く前とは違う意味で、今の平穏は妙に心へ沁みる。
だからこそ。
ぐうたらが捗る。
「……このまま一生昼寝したい」
心からの願いだった。
エミリーは机で書類整理をしながら小さく息を吐く。
「最低ですね」
「最高だろ」
「向上心をどこへ置いてきたんですか」
「未到達地帯」
多分本当に置いてきた。
あんな場所へ何度も行きたい人間はそう多くない。
レイは毛布へ顔を埋めながら、窓外の空をぼんやり眺める。
青空だった。
灰色ではない。
空間断裂もない。
巨大侵食個体もいない。
人が普通に歩いている。
それだけで安心感が違う。
最近では中央研究院側も多少落ち着きを取り戻していた。
もっとも。
落ち着いたといっても、研究者たちは依然として騒がしい。
白銀都市関連資料は現在も解析中。
管理機構。
古代文明術式。
侵食変異理論。
未到達地帯環境変化。
世界そのものが変わり始めている。
だが、それら全部を横に置いて。
レイは今、全力で休むことを優先していた。
その時。
ふと。
妙な匂いが鼻をくすぐった。
肉を焼く匂い。
香草。
スープ。
窓外の屋台街から漂ってきたものだろう。
レイは少しだけ目を細めた。
そして。
不意に思う。
「……そろそろ実家帰るか」
エミリーの手が止まった。
「急ですね」
「なんか急に帰りたくなった」
レイ自身も理由を整理する。
美味い飯。
昼寝。
田舎の空気。
面倒事が少ない。
あと何だかんだ落ち着く。
ゴールド地方はそういう場所だった。
辺境。
田舎。
魔物は多い。
交通も不便。
だが、レイにとっては帰る場所だった。
王都ほど騒がしくない。
未到達地帯みたいに世界の危機もない。
実家の庭で昼寝しながら、適当に飯を食って過ごせる。
それが妙に恋しくなった。
エミリーは少し考える。
「……まぁ、そろそろ帰っても良い頃ではありますね」
「だろ?」
「ですが」
その一言で、レイは嫌な予感を覚えた。
エミリーはにこやかに続ける。
「先に王城へ行ってください」
「……やだ」
即答だった。
エミリーは笑顔を崩さない。
「国王陛下からの招集命令、何通無視したと思ってるんですか?」
「知らない」
「十四通です」
「多いなぁ……」
「全部無視してるからです」
レイは視線を逸らした。
だが仕方ない。
面倒だったのだ。
王城へ行けば絶対長話になる。
報告。
褒美。
会議。
政治。
全部疲れる。
昼寝の敵である。
そこへ。
扉が勢いよく開いた。
「レイ!!」
セシリアだった。
顔色が死んでいる。
目の下に隈まである。
完全に仕事疲れだ。
「なんでいるんだよ……」
「逃げ回るからでしょう!?」
もっともだった。
セシリアはそのまま机へ突っ伏す。
「……助けてください」
「嫌だ」
「即答!?」
「仕事増えるだろ」
「増えますけど!!」
セシリアは本気で泣きそうだった。
最近では完全に研究院と王城の板挟みらしい。
教授は研究院へ閉じ込められている。
白銀都市関連で連日会議。
結果、実務負担がセシリアへ集中していた。
「というかレイ、陛下が本気で怒る寸前なんですけど」
「まだ怒ってなかったのか」
「呆れてます」
それはそれで怖い。
セシリアは深々とため息を吐く。
「というわけで、王城行ってください」
「嫌だなぁ……」
「行ってください」
「帰省したい」
「その前にです」
エミリーまで頷いていた。
完全に包囲されている。
レイは毛布へ潜り込みながら抵抗する。
「俺は平和に暮らしたいだけなのに……」
「その割には世界規模案件へ毎回首突っ込んでますよね」
「勝手に巻き込まれてるだけだし」
割と本気だった。
レイは基本的にぐうたらしたい。
だが放置すると被害が広がる。
だから仕方なく動く。
結果、毎回面倒事中心へいる。
理不尽だった。
セシリアはそんなレイを見ながら苦笑する。
「まぁ、レイらしいですけど」
しばらく静かな時間が流れる。
窓外では市場の喧騒が聞こえていた。
穏やかな午後。
暖かな風。
平和な日常。
だからこそ。
レイは本当に帰りたくなった。
実家へ。
ゴールド地方へ。
あの田舎へ。
何も変わらない場所へ。
「……飯食いたい」
ぽつりと漏れる。
エミリーが少し笑った。
「奥様の料理ですか?」
「ん」
ゴールド家の食卓。
温かなスープ。
焼き立てパン。
香草焼き。
辺境料理。
豪華ではない。
だが妙に落ち着く味だった。
王都の料理も美味い。
だが実家の飯は別だ。
帰る場所の味がする。
レイはゆっくり起き上がる。
「……分かったよ」
「王城行きます?」
「嫌だけどな」
セシリアが安堵した顔になる。
エミリーも少し安心していた。
レイは心底面倒そうに頭を掻く。
「褒美だけ貰ったら帰る」
「絶対そう簡単に終わりませんよ」
「聞きたくない」
本当に聞きたくなかった。
だが。
まだこの時のレイは知らない。
その帰省願望が。
もう二度と戻れない場所への想いだったことを。
翌朝。
レイは非常に重い足取りで王城へ向かっていた。
心の底から行きたくなかった。
王城。
つまり仕事。
面倒事。
会議。
長話。
昼寝の敵である。
しかも今回は国王からの正式招集だ。
十四通無視したあとに行く場所ではない。
気まずい。
とても気まずい。
「帰りたい……」
朝からずっと言っていた。
王都中央大通り。
白い石畳。
整然と並ぶ街路樹。
王城へ近づくにつれ、人々の服装も上流階級寄りになっていく。
商会関係者。
貴族。
騎士。
魔導士。
行き交う馬車も豪華だった。
そんな中、レイだけが露骨にやる気を失っている。
隣を歩くエミリーは苦笑していた。
「そこまで嫌がらなくても」
「嫌なものは嫌」
「子供ですか」
「昼寝したい」
「朝です」
今日は珍しくエミリーも遠征用ではなく通常メイド服だった。
王城へ行く以上、最低限の礼装は必要である。
もっとも。
レイの服装は割と適当だった。
一応貴族服ではある。
だがかなり緩い。
やる気の無さが滲み出ていた。
王都上層区画へ入ると、警備兵たちが一斉に姿勢を正す。
「レイ・ゴールド様」
「……ども」
適当だった。
以前なら多少は気を遣っていた。
だが未到達地帯を経験したあとでは、王城の緊張感すら薄く感じる。
空間断裂から巨大侵食個体が出てこないだけ平和である。
そんなことを考えながら歩いていると、王城正門へ到着した。
巨大白壁。
高塔。
王国旗。
朝日に照らされた王城は荘厳だった。
アルデバラン王国中枢。
政治。
軍事。
研究。
全ての中心。
レイはそれを見上げながら本気でため息を吐く。
「……逃げるか」
「駄目です」
即座に却下された。
エミリーは慣れた様子でレイの背を押す。
「行きますよ」
「やだなぁ……」
結局、連行されるように中へ入った。
王城内部は相変わらず忙しない。
文官。
騎士。
侍女。
研究院関係者。
多くの人間が行き交っている。
その中を歩くレイへ、周囲は妙に複雑な視線を向けていた。
当然だろう。
未到達地帯最深部到達者。
侵食中枢事件解決の立役者。
現在王国で最も話題の人物の一人だ。
しかも招集命令を無視し続けた問題児でもある。
扱いに困る。
レイ本人も困っていた。
「なんか見られてる」
「自業自得です」
そんなやり取りをしながら進んでいくと、途中で見覚えのある人物が現れた。
セシリアだった。
だが。
酷い顔だった。
完全に寝不足である。
「……来たんですね」
「来てしまった」
「逃げなかっただけ偉いです」
褒められているのか微妙だった。
セシリアは疲れた様子で額を押さえる。
「陛下、かなり待ってましたよ」
「怖いこと言うな」
「安心してください」
「何が?」
「最初は怒ってましたけど、途中から呆れてました」
「安心できねぇ……」
セシリアは小さく苦笑する。
最近、王城内部でもレイへの扱いは少し特殊らしい。
功績が大きすぎる。
だが本人は全力で働きたがらない。
結果。
『有能だけど放置するとすぐ消える問題児』
という認識になっていた。
ひどい。
割と事実だった。
その後、レイたちは王城奥へ案内される。
長い回廊。
赤絨毯。
巨大窓。
磨き上げられた装飾。
辺境育ちのレイからすると、何度見ても落ち着かない場所だった。
「実家帰りたい……」
「まだ言ってるんですか」
「王城空気重い」
実際重い。
礼儀。
政治。
駆け引き。
面倒な空気ばかりだ。
スラムのほうがまだ気楽である。
やがて。
一行は謁見前控室へ到着する。
セシリアはそこで一度立ち止まった。
「……レイ」
「ん?」
少しだけ真面目な顔だった。
「今回は、多分ですけど」
「?」
「陛下もかなり悩んでます」
その言葉に、レイは少し首を傾げた。
珍しい。
国王は基本的に豪胆な人物だ。
多少の問題では動じない。
未到達地帯問題ですら冷静だった。
そんな人物が悩む。
何についてなのか。
レイは少しだけ引っ掛かりを覚える。
だが。
すぐに思考を止めた。
面倒だからである。
「まぁなんとかなるだろ」
「レイらしいですね……」
セシリアは苦笑する。
その時。
控室扉が静かに開いた。
中から老執事が現れる。
「レイ・ゴールド様」
静かな声だった。
「陛下がお待ちです」
レイは露骨に嫌そうな顔をした。
だが逃げられない。
ここまで来た以上、観念するしかない。
レイは大きく息を吐く。
「……褒美だけ貰って帰る」
半分本気だった。
美味い地方土産とか欲しい。
干し肉とか。
保存食とか。
珍しい酒でもいい。
そんな軽い気持ちだった。
だから。
この時はまだ知らない。
この先、自分が聞く言葉の重さを。
その事実が。
自分の中の『帰る場所』を壊すことになると。
まだ知らなかった。




