7 最後の願い
兄の腕はとても力強く、大きかったが今は微かに震えていた。
あの場所に連れて行って欲しい、とお願いしたら兄は侍医に幾つか確認を取った後、侍従に用意させたらしい毛布を持って戻って来て、温かいそれで私を包むとゆっくりと抱き上げてくれた。私には兄の首筋に縋りつく力も全くなかったが、兄がしっかりと抱いてくれていたから不安はなかった。
私にはここ何日間の記憶がない。
あの日、私はいつものように礼拝堂で朝の祈りを捧げていた。
その最中に今までにない酷い発作に襲われ、私は大量の血を吐いて昏睡状態に陥っていたらしい。そして目が覚めた時、そこには兄とその傍らに、次の夏には兄の花嫁になる大好きなルーシェリリアの姿があった。二人は私の横たわる寝台の側には寄り添って、私の冷えきった手を強く握りしめてくれていた。まるで体温を分け与えようとするような仕草に、私は自分に残された時間がもう僅かであることを悟った。
私の意識が戻ってきたことを知ると、優しいルーシェリリアは涙を流した。
「フィリアリーゼ、大丈夫よ。貴女には聖セディナのご加護があるわ。だから、気をしっかり持つのよ」
「……ええ、ありがとう…………ルーシェリリア。貴女が来てくれて、ほんとうに、嬉しいわ……」
「フィリア、わたくし………っ!」
ああ、あんなに心待ちにしていたのに貴女と兄の婚礼を祝福することは叶わないのだと思ったら、急に胸が苦しくなってきた。むしろ、婚礼を私の喪のせいで延期させてしまうだろう。あまりの申し訳なさに、知らず私の頬を一筋の涙が滑り落ちていた。
ルーシェリリアはしばらく私の手を両手で握りしめたまま、これから先の、未来の話をした。彼女の話す未来には必ず私がいて、みんなはいつも笑顔で幸せだった。そして、私の見ることの出来ない未来では、私は素敵な私だけの騎士と結ばれていた。そしてお互いの子供が成長したらきっと結婚させようとまで言い出して、流石に兄が止めに入った。
私には、私だけの騎士は現れなかった。イグニスでは、恋人や夫のことを『私だけの騎士』と呼ぶことがある。自分だけに愛と誠実を捧げてくれる運命の人。私も以前はよく夢見たものだった。いつか、自分だけの騎士が現れて私を迎えに来てくれることを。けれど、ここでもうすぐ燃え尽きる私の命の前には、誰もいない。請い求めた騎士は、既に他の美しい人の騎士だった。それが私の運命として私は既に受け入れているけれど、こんなになってまでも切ない想いを拭い去ることはできなかった。
ルーシェリリアの言うように兄がいて、ルーシェリリアがいて、私がいて、そして私だけの騎士がいて、子供たちがいる。なんて幸せな未来なんだろうと思う。けれど、現実は私はもうすぐいなくなるから、決して叶うことのない幻の未来だ。でも最後にそんな夢が見れたら素敵だと思った。
しばらくルーシェリリアは私に必死に話し続けていたが、これ以上は私の体に障るといって、侍医から制止がかかる。未練がましい様子のまま、彼女はすぐにまた戻って来るからと言い残して、一旦部屋を出て行った。
そして部屋に残されたのは私と兄と侍医、そして数人の侍女たち。
窓の外に目をやると、西陽の赤い斜光が頬を照らした。
私は、私のこれまでの運命に思いを馳せた。そして、私が生まれた意味を考えて見たくなった。
「兄様、お願いがあるのです……」
兄は顔を近づけて、私の言葉を聞き逃さないようにしようとして耳を側立ててくれた。
「なんだ、言ってみろ。お前の頼みなら何だって叶えてやるから」
優しい声音に甘えたくなって、私は手を伸ばした。兄は直ぐに私の手を取ってくれる。
「兄様、イグニスが見たい。あの場所に連れて行って欲しいの……」
兄の腕に抱かれながら見下ろす王都は未だに復興中であるものの、かつての美しい姿を取り戻しつつあった。私は兄とは違い、王宮の外へ出る機会が少ない。内乱後、視察のために王都へ降りることがあったが、それ以前はほとんど王宮を出ることが叶わなかった。だから、兄が見つけてきたこの場所から見る景色が、私の知るイグニスの全てだった。
私の目に映る世界はどこまでも美しく、生命力に満ちている。
この美しい世界に対して、私は一体何ができただろうか。
言葉もなくただじっと眼下の王都へ視線を注ぐ私を抱きかかえる腕の力を強めて、兄は私に囁いた。
「この美しい都はお前が守ったんだ。お前は民の心に添い、支え、勇気づけた。民の笑顔はお前の功績だ。お前は王女としての務めを十二分に果たした。俺は、お前のことを誇りに思う……」
「フィラル兄様、ありがとう……」
「礼なんか言うな」
言葉はぶっきらぼうだが、優しい声音に私はこの人の妹として一緒に生まれてこられた運命に感謝した。一見豪胆で不遜な人だと思われているが、実際は繊細で思慮深いことを知っている。誰よりも人の心に聡く、けれど素直ではないから剛毅な性質を装っている。私はそんな半身を心から敬愛していた。
この時私は随分久し振りに意識がはっきりとしていた。胸の痛みもなく、口内に鉄錆びた血の味も感じない。とても清涼な気分だった。
「兄様」
呼び掛けると、顔を近づけて懸命に私の声を拾おうとしてくれる。
「私は、兄様の妹でとても幸せでした」
「ああ、俺もだ」
「イグニスを、お願いしますね」
「案ずるな、任せておけ」
「……兄様………」
再度の呼び掛けに、兄は笑みを作ろうとして、失敗した。くしゃり、と歪んだ表情からはいつもの明るさはどこにもない。大好きな兄にこんな表情をさせてしまう自分が許せなかった。けれど――――
「私は、私の愛する人たちがこの先の未来で、愛する人と幸せになる未来を信じることができる……だから、思い残すことは何もありません……」
「お前、何を……」
見上げた空は、夜の帳を引きはじめている。
街の灯もぽつりぽつりと点りかけて、空にも大地にも星が瞬いているようだ。
「フィリアリーゼ、お前の願いを言え。何だって叶えてやるから。何か言ってくれ!!」
兄の声は震えていた。
頬に触れた手のひらは熱く、兄の命の猛りを感じられたような気がした。
「笑ってください、兄様。私は兄様の笑顔がとても好きなの――――」
私の本当の願い、叶えたかったことはたくさんある。
私も同じ年頃の少女たちのように普通に恋をしてみたかった。私だけの騎士に、愛されたかった。
けれど私は王女で、果たすべき務めがある。為すべきことも果たせないまま、己の感情のままに行動するなど許されないことだ。
こんな私だから、神様は私には私だけの騎士と出会わせてはくれなかった。
叶わない恋の為に周囲を悲しませた私には、誰も相応しい騎士はいないのだろう。
アレスディール、私の想いは叶わなかったけれど、貴方に出会えて本当に嬉しかった。
誰かを強く想う、恋焦がれる感情は決して幸せばかりではなかったけれど、貴方を想う時は私はただのフィリアリーゼでいられた。
早く貴方が、貴方の姫君と幸せになれますように。
どうか、貴方の世界が笑顔で満ち溢れますように。
それが私の最後の願い。
誤字訂正しました。




